家庭教師時代 25歳 冬~46歳春
今日は僕の「家庭教師時代」について少し話をさせていただきます。僕は大学4年生のときに、富山県と新潟県の小学校教員採用試験を受けました。
その結果は両方とも不合格でした(新潟県は2次試験で落とされました)
大学を卒業したあと、就職浪人をして2回目のチャレンジで新潟県小学校教員採用試験に合格しました。
ここまでは、まあ良い話なのですが、いざ教員として働き始めると、僕の学年の先生は僕を含めて3人とも一番最後まで職員室に残っていて、
毎日家に帰るのが23時過ぎでした。もちろん今ならば完全アウトなのですが、当時はまだうるさくなく、毎日のように職員室に夜遅くまで残っていました。
「こんなことしとったらテレビすら見れない。浦島太郎の世界やわ」と焦っていましたが、当時の学年主任はそんな僕のことなど全く気にせず毎日のように22時か23時まで
職員室に残って仕事をしていました。もう一人の先生も全く同じで毎日23時まで職員室で一人で仕事をしているような人でした。
当時は僕は世の中のことなど全く知らなかったので、「働くってこんなもんか」と思っていました。
もちろん今の僕だったら別の上司または教頭先生あたりに相談・報告して早く帰れるよう働きかけていたと思います。
あこがれていた教師と現実の教師は全く異なり、僕は緊張感の中,毎日遅くまで仕事をしていました。
結果、精神的に苦しくなってしまって僕は1年で教員を辞めてしまいました。
そして富山県に戻ってきました。
無職になった僕は、精神的にかなり疲れており、仕事をする気にもならず、ただハローワークには週に3回くらいのペースで通っていました。
一番どん底時代だったこころの話です。
友達とも疎遠になり、追い詰められていた僕は、ただただハローワークに行って仕事を探していましたが、全く次の仕事が思い浮かばず、呆然としていました。
そんなことを繰り返しているとき、「家庭的な職場です」と書いてある会社案内を見て、僕は「ここに応募してみよう」と決意し申し込みました。
結果、採用してもらいました。それが小さな家族経営をしている運送会社でした。
午前中は富山市内で荷物を預かったり携帯のバッテリーを店舗間で運んだりしていました。
午後は大沢野方面へ2往復して、大沢野・八尾・婦中エリアに荷物を届けていました。
僕は当時、富山県の地理には全く詳しくなくて、毎日地図を見ながら、時間に追われながら荷物を届けていました。
夏くらいになると少しずつ仕事にも慣れてきて、10月に、仕事が終わった後、家庭教師をしようと思い、
某大手の家庭教師派遣会社(ハイジのCMさんではありません)に面接に行きました。
そして、とりあえず当時、富山大学付属中学校に通っている生徒さんを担当させてもらうことになりました。
富山高校を志望校にしている生徒さんで、附属中学の2年生でした。
12月の報告日に担当の上司から「先生、なかなか評判いいね。うちでプロでやってみない?頑張れば頑張っただけ稼げるよ」と言われました。
1週間考えさせてもらい、僕はお世話になった運送会社を辞め、その家庭教師の会社で家庭教師専門の仕事をさせてもらうことになりました。
当時、その会社では社会人教師、プロB、プロA,プロs,プロSS だったと思いますが、プロにもランクがあり、そのランクによって時給が異なっていました。
僕はまずは1年間専属家庭教師で務めてみて、会社に認めてもらえればプロ契約してもらえる、という条件で採用されました。
学生時代に2年ほど家庭教師のバイトと塾講師のバイトをしてたのですが、本格的に家庭教師のみで生活をする、というスタイルになってみると,
最初はかなり違和感がありました。
当時の話になってしまいますが、僕の勤務体系は以下のような感じでした。
夕方5時~7時まで家庭教師,その後コンビニのパンを食べながら移動して19:30~21:30まで家庭教師 この2人で仕事が終わるパターン
もうひとつは夕方5時~7時まで家庭教師(中3生)その後19:30~21:30まで家庭教師 そして移動して22:00~24:00 まで家庭教師。合計3人の家庭教師を夜中までしていました。
休日はなくて土日は3~4件の家庭教師をしていました。
毎月総支給で25万円~28万円くらいの給料だったかと思います。(現在の給料体系についてはわかりません)
思っていたよりもかなりハードでした。中3生は高校受験があるため、親御さんも含めて異様な雰囲気のあるご家庭が大半でした。
教えている僕も、相当のプレッシャーの中で毎日過ごしていました。
もちろん、授業内容は今とは比べ物にならないくらい下手でしたが、情熱は今と変わらず、一生けん命に授業していました。
ところが僕は無理をしすぎて体調を壊してしまい、家庭教師の仕事をいったん辞めてしまいました。
26歳の夏に再び採用してもらい、家庭教師を始めました。八尾や山田村など、へき地にも行くことがありましたが、仕事じたいは楽しかったです。
家庭教師をしている間、なんとなく「いつかは自分の塾を持ちたいなぁ」と思うようになりました。
家庭教師の良いところはマンツーマンなので、教えやすいというところです。
ただ、1度の説明ではなかなかわかってもらえず、手を変え品を変え教えることも多々ありました。
「生徒さんに鍛え上げられました」、そんなかんじです。
エリアは決まっていなく、富山市・高岡市・滑川氏・魚津市・旧山田村・旧婦中町などなど、富山県内をあちこち移動しながら家庭教師をしていました。
僕が所属していたその家庭教師派遣会社は、親御さんからの評判が良く、ネットなどで検索してみても、クレームなどはあまりありません。
評価されている会社だと思います。事務的なことは会社が全部やってくれて、先生は教えることに専念できる、とても働きやすい会社でした。教師とは大違い。
休みが極端に少ないことだけが弱点でした。休日も先生の方で希望すれば休みにできるので、個人個人の判断によります。
鍛えられました。特にノルマもなく、叱られることもほとんどないのですが、指導報告の日はブルーな気分になっていました。
当時は僕はまだ「教え方の型」が定まっておらず、生徒さんによって教え方が異なっていました。悪く言えば一貫性のない指導をしていました。
ただ、熱血だったため、担当する生徒さんはほとんどが中3生でした。
家庭教師時代は週に何回も本屋さんに通い、問題集を見たり、問題を解いたりしていました(今もその習慣はあまり変わっていませんが)
今みたいにネットがまだなかった時代なので、暇さえあれば本屋へ行き、参考書や問題集をあれこれ見ていました。
家庭教師時代は大変でしたが、あれこれ自分なりに試行錯誤しながら必死に授業をしていました。
あのころのように「熱い思いで教えているのかな?」と節目節目に自問自答しています。
PS:大門での今の経験も、いつの日か振り返るときがくるかと思います。
「大門時代は良かった」と振り返ることができるよう、今年も一生懸命に授業していこう、と思っています。
あとはやる気ある生徒さんに応えられるよう、日々勉強だと思い頑張ります。
2026年01月03日 11:20
