個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

わからない所が1つずつわかるようになる、達成感ある授業を心がけています。

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Period of Blue / 浜田省吾さんのDVDを見ています

今日も暑いですね。

寺子屋は今日から授業が再開します。とても楽しみです。お盆休みの話などを生徒さんから聞きたいと思っています。

さて、最近僕は、浜田省吾さんのライブDVDを見ています。

今日は「Period  of Blue 」というタイトルのライブDVDを見ていました。

このライブDVDはアルバム{Father's  son 」と「誰がために鐘は鳴る」という2つのアルバムが中心に構成されています。

「誰がために鐘は鳴る(たがために 鐘は鳴る)」は1990年夏に発売されました。僕が高校3年生のときに発売されたアルバムです。

僕は高校2年生の冬から、浜田省吾さんのファンになりました。きっかけは中学時代の友達、高校時代の友達が2人とも偶然浜田省吾さんの大ファンで、僕はなんとなく彼らから浜田省吾さんのアルバムを借りて聞いたのがきっかけです。

当時はアルバム「SAND  CASTLE 」や「J BOY」をよく聴いていました。

最初は特に何も思わす、「こんなもんかなぁ」と思って聴いていたのですが、高校3年生になりだんだんいろんな曲を聴いているうちに浜省ワールドに引き込まれて行きました。

決定的だったのが、高校3年生の7月31日に初めて浜田省吾さんのコンサートを友達3人で見に行ったことでした。

当日は代ゼミのマーク模試があり、模試が終わった後、富山市公会堂で友達と待ち合わせして、そして最前列で浜田省吾さんのコンサートを見ました。

最初は浜田省吾さんはスーツ姿で歌っておられました。

そしてアンコールで、浜省はいつもの「ジーンズに白いTシャツ姿」で登場し、「風を感じて」を歌われました。

この曲を聞いた時に全身に電流が走りました。カッコいい!

鳥肌が立ちました。その日以来、僕は浜田省吾さんの大ファンになりました。


今日見ているライブDVDはまさに僕が高校3年生の夏によく聴いていたアルバム「誰がために鐘は鳴る」の曲がたくさん収録されているので、今までのどのライブDVDよりも好きです。

夜に部屋を暗くしてこのライブDVDを見ると、最高の気分になります。

僕はロックな曲よりもバラードの方が好きです。

浜田省吾さんはライブのときに毎回必ず「今日もコンサートに来てくれてありがとう。こんな素晴らしいお客さんの前で演奏できる俺たちは、本当に幸せ者です。最後まで楽しんでいってください」と言ってくれます。

浜田省吾さんは20代のころは全く売れず、ソロデビューしてから5~6年間は暗黒時代を過ごされました。

コンサートというよりも、スーパーの屋上で歌ったり、キャバレーの席で歌ったり、コンサートをしてもお客さんは会場の半分も埋まらない状態が続きました。

歌詞が書けなくなり、失語症になったこともあったとのことです。

アルバム「J BOY」で初めてチャート1位を獲得しました。

それからはどこでコンサートを開いても常に満席、なかなかチケットが取れないアーティストになりました。

今年の12月29日で74歳になる浜田省吾さん。

行けるうちに浜田省吾さんのコンサートに行きたいなと思っています。
2026年08月18日 16:32

富山第一高校サッカー部 / インターハイ結果

先日、母校富山第一高校のサッカー部のインターハイの結果を検索してみました。

最近、甲子園(高校野球)はたまに見ているのですが、サッカーはテレビでは放送されていないので、すっかり忘れていました。

インターハイのサッカーの結果を調べてみると、富山第一高校は、1回戦勝利。2回戦の相手は強豪、千葉県代表の市立船橋高校でした。

僕が高校時代のときは市立船橋高校サッカー部は全盛期でベスト8以上はもちろん、全国優勝もしていました。

ちなみに僕が高校3年生のとき、冬の選手権大会では、富山第一高校は1回戦沖縄県代表の高校に3-0で勝ち、2回戦で千葉県代表の習志野高校(この年は市立船橋高校は出場していませんでした)と対戦しました。

結果は惜しくも1-0で敗れました。


さて、話は戻って。 今回のインターハイ2回戦で富山第一高校は市立船橋高校と対戦し、同点でPK戦の末、勝ちました。

「久しぶりに3回戦まで行ったな」と思い、ネットで3回戦を検索すると、3回戦は宮崎県代表の高校と対戦し、負けていました。

3回戦止まり。

とはいえ、あの市立船橋高校に勝ったのだからすごいことだと思いました。

冬の選手権(全国大会)が今年は楽しみです。

最近、富山第一高校は、全国大会ではなかなか勝てず、1回戦または2回戦負けが続いています。

今年の冬はぜひ、ベスト8以上をねらってほしいと思います。

今どきの高校サッカーは(僕たちの時代もそうでしたが)各県の私立高校には寮があり、他県からサッカー留学してくる高校生がたくさんいます。

たとえば新潟県の帝京長岡高校の場合も、一昔前は県予選で負ける弱いチームでした。

でも最近、冬の選手権でベスト4まで上り詰めた結果、全国から高校生が集まってくるようになりました。

まさに「私立パワー」サッカーする環境が整っています。

新潟県代表のチームは僕が新潟大学にいたころは、全国大会ではいつも1回戦負けの県でした。とても弱い。

しかし今は帝京長岡高校を筆頭に新潟明訓高校など強いチームがたくさん出てきて激戦区になりました。

高校生最高峰の「プレミアリーグ」にも帝京長岡高校は所属していて、強豪と互角に戦っています。

一方、富山第一高校はどうか・・・?

一高は「富山県人のみでチームを構成しています」寮も存在せず、全国から問い合わせが来るのですが、丁重にお断りしているそうです。

かつて富山第一高校が冬の選手権で優勝した時に、当時の大塚監督が「富山みたいな片田舎のチームでも全国で優勝できることを証明したかった」とインタビューでおっしゃていました

かなり珍しいと思います。実際最近ではチームに1人・2人ほど県外の選手が一高サッカー部に所属されていますが、その場合、親戚が富山にあるから、など特殊な例が多いと聞きます


まだまだ先の話ですが、今年の冬の選手権での富山第一高校サッカー部のご活躍を願っています。

その前にまずは、富山県予選を勝たないといけないのですが…


PS:お盆休みが終わり、今日から仕事復帰されている方が多いと思います。連休明けの初日、お疲れ様でした。

熱中症に気をつけて、できる範囲で仕事頑張っていきましょう。
2026年08月17日 13:46

高校3年生時代 / 合格を勝ち取るまで

高校3年生になりました。僕は、仲の良かった友達と2人で、毎週日曜日は富山市立図書館へ行って、朝9時半~夕方18時まで図書館で勉強していました。

3年生になっても勉強時間は変化なく、平日2時間、土曜日は3~4時間。日曜日は図書館の学習室で勉強していましたが、午前中で息切れしてしまい、結局朝9時半~閉館する18時まで学習室にはいましたが、勉強時間は4時間くらいでした。

高校3年生になり、センター試験の赤本(当時は共通1次試験の赤本)を購入し、図書館で共通1次試験の国語・数学の過去問を解いていました。

国語は現代文のみ解いていました。古文・漢文は完全に捨てていたので、最後まで勉強はしませんでした。(漢文の句法を覚えたらよい、とわかっていたのですが、覚える気にはなりませんでした。根っからの「国語アレルギー」そして「生物アレルギー」でした。

とにかく数学・英語・日本史に絞って勉強していました。

数学は高校2年生の3学期から黒本(河合塾のセンター模試の過去問集)を解いていました。文系数学だけは、好きだったので、チャート式を中心に勉強していました。

7月に進研模試があり、当時は「マーク模試」と「記述模試」の両方の成績を合わせた「ドッキング判定」が出ていました。

僕は模試があるたびに、「新潟大学小学校B過程」を第1志望にしていました。

7月の進研模試のドッキング判定は「A判定」でした。というよりも成績表をよく見ると僕は「新潟大学教育学部小学校B課程」を第1志望にしている受験生約150人中の1位でした。

「おっ1位か。まあでもこれは模試の中での話だし、新潟の2次試験とは全然問題傾向も違うし、浪人生も入っていないから。」と軽く受け流していました。

現に、僕は中3のとき模試を受けて富山東高校の合格判定は、毎回B判定でした。でも落ちました。だから模試の成績・結果は信用していませんでした。参考程度。

「来年の3月には絶対に新潟大学に合格したい!」と思って毎日勉強していました。

決して浮かれることなく、「勝ってカブトの尾を閉めよ」の精神で日々淡々と勉強していました。


時は過ぎ…夏休みになりました。当時は今みたいに「オープンキャンパス」の制度はありませんでした。

僕は図書館へ一緒にい行っていた友達に「新潟大学下見に行きたいの~」と言いました。すると友達も「確かに。俺も気になるわ」ということになり、さらにもう一人友達を誘って、

8月20日に、朝一番の鈍行列車で新潟大学まで下見に行きました。

富山駅から新潟大学前駅までは、長時間の移動でした。

早朝5時半くらい富山駅発の電車で出発し、まずは直江津駅で乗り換え。次は柏崎駅で乗り換え。そして吉田駅で乗り換え。

そして越後線に乗り換え、ようやく新潟大学前駅に着いたのは昼ごろでした。新潟大学前駅から新潟大学までは、徒歩で10分くらいかかりました。

とにかく遠い!乗り換えの待ち時間は、ひどい時は40分待ちとか、とにかく不便でした。特急だとスムーズに新潟まで行けるのですが、鈍行だったため、待たされました。


 そしていざ新潟大学に着いて、最初の一言が「うわ~広い!!」

それまで僕は富山大学しか見たことがありませんでした。そのため富山大学くらいの広さをイメージしていました。

新潟大学は徒歩でキャンパスを1周すると多分40分~50分くらいかかる広さでした。圧倒されました。

僕たちはとりあえず「腹減ったし、食堂でも行ってみるけ?」と言って、キャンパス内にある第1食堂に行きました。

そこで僕は「コーンカレー」を食べました。

「来年の今頃は新潟大学の学生として、ここでコーンカレーを食べるぞ」と胸に誓い、食堂を後にしました。

僕の行きたかった教育学部は新潟大学(五十嵐キャンパス)の中では一番大きな建物でした。

僕は新潟大学の正門の写真、教育学部の木製の看板の写真を撮りました。

友達と3人で「教育学部の校舎の一番上まで行ってみようぜ」ということになり、教育学部の校舎の中に入って行き、エレベーターで9階まで行きました。


9階の窓から外を見ると、すぐ海が見え、そして佐渡島が見えました。「おぉ、これが佐渡島か!」と感動し、写真を撮りました。

当時は携帯がなかったため、写ルンですで写真を撮りました。

とにかく初めてのあこがれの新潟大学。 圧倒されました。 当時は新潟大学は日本海側の国立大学の中で最も広い大学として聞いていました。(今は金沢大学の方が広いのかな?)

新潟から実家に帰って来て、僕はできあがった写真を机に飾り、その写真を毎日見て勉強していました。とにかく新潟大学に行きたい…


11月になりセンター試験が近づいてきたころ、模試で再びマーク式模試・記述式模試のドッキング判定で1位を取りました。このときは、少しうれしかったです。

新潟まであと一息。油断せず頑張って、今度こそ合格したい、と強く思っていました。

よく「高3になると浪人生が参加するため、偏差値が5下がる」と言いますが、僕は全く下がりませんでした。逆に英語の「全国偏差値」は65にまで上がっていました。


 年末になり、いよいよセンター試験まであと数週間。だんだんプレッシャーを感じ始め、僕は毎日ピリピリしていました。

そのころはもう富山東高校がどうだとか、そんなことはもうどうでもよくなっていました。自分のベストをセンターで出したい、とだけ願い勉強していました。

年が明け、センター試験の日を迎えました。

僕は富山大学でセンター試験を受けました。

ところが数学Ⅰ・Aで僕は大コケしてしまい、この時点で「あぁ、富山大学はもう無理だ」と悟り、自己採点をして、あとはテレビのセンター速報を食い入るように見ていました。


 センターリサーチが帰って来て、僕の新潟大学の判定は… B判定でした。初めてのB判定。あぁ、俺はつくづく本番に弱いんやなぁ、悲しかったのですが、2次試験に向けて数学を勉強するしかありません。

僕の英語の成績は安定していたのですが、数学は1年生~ずっと変わらず偏差値60。この成績では新潟の2次数学には歯が立たないかもしれない、と焦っていました。

センターが終わり、家族会議をしました。僕は両親に「俺は教師になりたいから、新潟大学の教育学部しか行きたくない。富大はセンターでコケたから無理。新潟だけを受けたい。

もしも不合格だったら、浪人させてほしい」と言いました。 でも僕の両親は「あんたには浪人は無理。私立受けて受かった所行かれ」と言いました。

僕は「私立は英語・国語・日本史やぜ。俺の国語の成績で受かるはずないやろ!そんなに私立は甘くないよ」と説得したのですが、それでも両親は僕の言い分は聞いてはくれませんでした。

結局、僕は私立大学を受けることになりました。全く私立大学の過去問は解いてないし、最初から受かるはずがない、と思っていたので対策も0。

2月3日に神奈川大学(経営学部)の地方試験を金沢で受験。

2月8日に神奈川大学(経営学部)の試験を神奈川大学で受験。

2月13日に東京経済大学(経済学部)を受験。

そして本命の新潟大学の試験が2月25日・26日。

新潟大学を受験する前に私立大学の結果が届きました。「すべて不合格」

2月25日、新潟大学の数学の試験。2月26日に新潟大学の英語の試験を受けました。


試験が終わり、「俺の受験は終わった…」ととりあえず安心しました。

新潟の2次の数学の出来は6割くらい。英語は7割くらいだったと思います。

3月3日に富山大学を受験(センターの結果、富山大学はD判定でした。数学Ⅰ・A,の失敗が最後まで響きました) もちろん不合格。

最後に3月8日に都留文科大学の地方試験を中央予備校で受けました(小論文でした)都留文科大学の結果は電報で届きました。

中を見ると「花散る都留文」とだけ書いてありました。

※結局僕は新潟大学だけに合格できました。念願が叶いました。

3年間の努力が報われたなぁとしみじみ思いました。

高校時代、勉強に息詰まった時、いつも部屋の電気を消して真っ暗にして、その暗闇の中で、浜田省吾さんの「遠くへ」という歌を聞いては「俺も合格したい」と奮起して勉強していました。


 今振り返ってみて・・・僕は富山東高校に落ちましたが、富山第一高校に行ったことは間違いではなかった、と思います。

もしも東高校に合格していたら、「入試なんて3年の冬からでも間に合う」とカン違いしていたと思います。

サッカー部に入って、流されるような毎日を送ってしまい、聞いたこともないような大学に行っていたかもしれません。


大学入試はそんなに甘くはないよ、と思い続けていたのは正解でした。あとは一高の担任の先生と数学の先生、成績を競い合っていた友達に感謝です。

たとえ県立高校に行けなくても、本人の心構え・努力次第では3年後に納得のいく結果を出すことはできます。

もちろん高校生活すべてを勉強にささげていた、というわけではありません。友達ともよく遊びました。

放課後は仲間で「放課後サッカー」を毎日していました。

東に落ちた悔しさを3年間持ち続け、モチベーションにしていました。

練習はウソをつかない。勉強はウソをつかない、今はそう思います。
2026年08月16日 12:15

お盆休みいかがお過ごしでしょうか?

今日はお盆休みの方が多いかと思われます。

今日の予定はいかがでしょうか?

僕は墓参りはもう終わり、今日は中学時代の友達と富山駅前の店で飲み会です。

前回(ゴールデンウイークのとき)は4人での飲み会でした。

今回もメンバーは少し異なりますが、4人での飲み会になります。

鶏料理の店なので、焼き鳥を食べたりしながら語ります。

僕の友達は「熱い人」が多いため、話はかなり盛り上がります。楽しいです。

話す内容は家族のことだったり、仕事のことだったり、あとは中学時代の思い出話などなど、多岐にわたります。

メンバーの中では僕が一番記憶力があり、毎回「佐伯、よくそんな昔のこと覚えとるの~!」と感心されます。

僕はなぜか10代のころの記憶が異常にあり、特に高校時代のことは、昨日のことのように覚えています。

でも「じゃあ昨日の夕食は何だったん?」と不意に聞かれると「忘れた!笑」となります。

直近のことは忘れていて、遠い昔のことはよく覚えています。


さて、今日は朝から理科のシケ対プリント(試験対策プリント)と入試問題のプリントをファイルしたり解いたりしていました。

酸化グラフ問題や還元問題,電流の基礎問題と電流の入試問題など、解いていました。

毎回の授業のときに、僕は一応授業で解く問題は事前に解き直します。

ぶっつけ本番では納得のいく授業はできないので、まずは問題を解いて、生徒さんがつまづきそうな所を把握してから授業に入ります。

中3生に関しては、8月30日の全県模試の範囲を塾で勉強しています。

全県模試はテスト範囲が1・2年生の内容がメインなので、今は塾では1・2年生の範囲を学習しています。


生徒さんが良い点数を取ってくると、やっぱりうれしいものです。

無条件にほめちぎります。

生徒さんを褒めて認めて「よいしょ」することで、「やる気がさらに出るように」接しています。

生徒さんが悪い点数を取って来ると「あ~俺の教え方がイマイチだったかな」と少し落ち込みます。

ただ、同じミスを繰り返さないよう、間違えた問題に関しては、後々解き直したり、似たような問題を解いたりします。


このお盆休みは、ゆっくりできました。昨日は富山市~伏木~福光 まで1人でドライブに行って来ました。

何回訪れても、伏木と福光には特別な思い入れがあります。昨日はヘリオスで少し読書してから福光方面へ向かいました。

福光の「青龍」で酢豚を食べたかったのですが、オープン前から行列ができていたので、あきらました。

福野へ戻りいつもの定番「マリモラーメン」へ入ろうと思ったのですが、マリモも行列でした。お盆だから仕方ないか~と思い、結局家に着いてから「焼きそば」を作って食べました。


さて、伏木に「プラザ伏木」というマンションっぽい建物があります。僕が27歳のとき伏木で個人塾「寺子屋学習館」を経営していたときに、「3年後くらいにはこのプラザ伏木に住みたいなあ」と思っていました。

あのころの気持ちが今もあって、伏木に行くたびに「プラザ伏木」の最上階までエレベーターでのぼり、伏木の町並みを見下ろしています。

そのたびに、元気が出ます。 僕にとっての「ちょっとしたパワースポット」になっています。

その後,城光寺球場の近くにある墓地へ行き、30代のころ大変お世話になったおじいちゃんの墓参りに行って来ました。

年に3~5回ほど、そのおじいちゃんの墓参りに行っています。


 伏木から福光までは車で1時間ほどかかります。なかなか遠い道のりです。

僕の場合、福光に行くとたいてい小矢部川の河川敷に行って、しばらくの間、小矢部川を見ながらぼ~っとしています。

あとは「道の駅福光」へ立ち寄り、ソフトクリームを買って食べています。おいしいです。

福光の中心地をぐるっと車で周ると、元気が出ます。31歳~33歳のころまで、福光で個人塾をしていたので、福光にも特別な思い入れがやっぱりあります。

苦労した所なので、そんなに良い思い出はないのですが、でも,行くとホッとします。


福光からの帰り道は2パターンあって、

【1】359~山の中を抜けて帰る

【2】156号線から帰って戸出狼の信号で曲がり、大門を抜けて8号線から帰る というどちらかのパターンで家に帰ります。

僕は一人ドライブが大好きなので、2か月に1回くらいの割合でドライブしに行きます。ほとんど伏木か福光か氷見(小堺海岸)方面へ行きます。

来週の土曜日は、仕事が一区切りつくので、上越市へドライブに行き、高田で1泊してくる予定です。

毎回同じホテルです。

上越時代(29歳のとき)も僕にとっては特別な1年でした。

楽しい思い出と寂しい思い出があります。上越に行くと必ず「とんかつの銭形」へ行きます。銭形のとんかつはおいしいです。

長々と思いつくままに書かせていただきました。

読んで下さり、ありがとうございます。

8/20を過ぎれば少し落ち着くので、今はただ「8/20まで頑張ろう」と思っています。


PS:昨日ネットで調べた所、母校(富山第一高校サッカー部)はインターハイで1回戦を勝ち、2回戦で強豪「市立船橋高校」と対戦し、PK戦の末 、勝ちました。

3回戦で残念ながら宮崎県代表の高校に負けてしまいましたが、冬の全国大会が楽しみになりました。

2026年08月15日 12:22

富山第一高校 2年生時代 / 和田秀樹先生の著書に出会う

高校2年生になりました。

勉強時間は1年生のときとそれほど変わらず、平日は1日2時間、土日は1日4時間勉強していました。

勉強時間が長い方ではありませんでした。

高校2年生の夏休み、魚津に住んでいる友達の家に何人かで遊びに行ったときのことです。その友達は「和田秀樹」先生の本を数冊持っていました。

和田秀樹先生とは、関西出身の方で灘高校から現役で東大の理科3類(医学部)に合格された方で、当時受験本をたくさん書いておられました。

その和田先生の本で友達の部屋に「偏差値50から早慶を突破する法」という本があり、僕はなんとなく10ページほど読んでみました。

……体に電流が走りました。「これはすごい本だな」と思い、実家に帰った後すぐさま本屋さんへ行き、その本を注文しました。

和田先生の本の中で一番衝撃だったのが、「大学入試は自分の得意科目の配点が高くて、自分の苦手科目の配点が低い大学を探せ」という文言でした。


たとえば、富山県立高校入試の科目別の配点は、英語40点,数学40点,国語40点,理科40点,社会40点で合計200点満点ですよね?

僕は大学入試の配点も、各教科100点満点(200点満点)なのかなと思っていました。

当時は僕は英語・数学・日本史の全国偏差値がだいたい60~63くらい。国語と生物は全国偏差値49。

英語・数学・日本史が得意で、国語・生物が苦手でした。

英語・数学・日本史の配点が高くて、国語・生物の配点が低い国公立大学をまずは探してみよう」と決め、教育学部の「センター試験の配点」「2次試験の配点」を

自分の興味があった大学順に徹底的に調べていきました。

まずは富山大学教育学部の配点を調べて紙に書いていきました。(当時の配点になります)

富山大学教育学部の配点は以下のようなものでした。

センター試験: 国語200点,数学(ⅠA・ⅡB)で200点,英語200点,日本史100点,生物100点 合計800点満点。

2次試験:英語・国語・数学の中から1教科を選んで200点。 合計でセンター試験+2次試験で1000点満点でした。

※僕の得意科目の配点は、英語200点,数学400点,日本史100点で合計700点。 

 僕の苦手科目の配点は,国語200点、生物100点で合計300点。

 得意科目:苦手科目の配点=700点:300点でした。

また、富山大学は「センター試験:2次試験の配点=800点:200点」 つまり「センター重視型の配点」になっていました。

センターが良ければ合格、センターでコケたら終わり。


このような調子で僕は金沢大学教育学部→信州大学教育学部→そして新潟大学教育学部を調べていきました。


そして「新潟大学教育学部小学校B課程」の配点を調べたときに、「ここだ!」と確信しました。


当時の新潟大学教育学部小学校B課程の配点は以下のようなものでした。

センター試験:国語150点,数学(ⅠAまたはⅡB)150点,英語150点,日本史150点,生物150点  合計750点満点。

2次試験:英語300点,数学300点 で2次試験は600点満点。 

センター試験+2次試験で1350点満点

※得意科目の配点は、センター試験+2次試験で

英語450点,数学450点,日本史150点で合計1050点。

苦手科目の配点は、センター試験+2次試験で

国語150点,生物150点で合計300点。

センター試験:2次試験の配点=750点:600点 / やや2次重視な傾斜配点です。

新潟大学教育学部小学校Bの配点は,僕の得意科目は1350点満点中の1050点(77.8%)

僕の苦手科目の配点は国語・生物で合計300点のみ(22.2%)

新潟大学教育学部小学校B課程は僕にとってはとても有利な配点になっていました。


僕は、「新潟大学で決まりだな。今日からは英語・数学・日本史を徹底的に勉強していこう。苦手な国語・生物は捨てよう。配点も22%しかない。」

と心に決め、高校2年生の夏休みからは英語・数学・日本史を中心に勉強の仕方を切り替えました。

この夏休みの体験(魚津の友達の家で偶然読んだ和田秀樹先生の本,蛍雪時代を調べて新潟大学に決めた体験)は僕の大学受験のターニングポイントになりました。

魚津の友達に感謝です。もしあのとき、偶然 和田秀樹先生の本を読んでいなかったら… 僕は富山大学を志望校にしていたと思います。

こうして高校2年生の夏休み~新潟大学の2次試験が終わるまで、僕は新潟大学を志望校に決めました。


新潟大学のセンター試験の数学は「数学Ⅰ・Aまたは数学Ⅱ・B」だったこともラッキーでした。

とりあえずセンター試験を受けて数学Ⅰ・Aか数学Ⅱ・Bの点数が良かった方」で150点に換算されるので、僕にとっては有利でした。


2次試験は英語300点、数学は当時の「代数幾何・基礎解析で300点」今でいう数学Ⅰ・A・Ⅱ・Bで300点」でした。

当時は1次変換・行列が2次試験の試験範囲に入っていました。

「新潟大学は俺にとっては好都合な大学や。絶対に新潟大学に行きたい。いや、新潟しか合格できる国立大学はない!

と思っていました。


僕にとって一番やっかいだったのが「日本史」でした。

当時は「代ゼミ菅野の日本史実況中継」という、代ゼミの菅野先生が「授業で話している言葉をそのまま活字にして、わかりやすくまとめてある受験本」がありました。

ただ僕は2年生のときは、その本の存在を知っていながらも特に気にしていませんでした。中身も全く読んでいませんでした。高3の11月に初めて読んで、後悔しました。

もっと早く菅野先生の実況中継を読むべきだったと…

当時の僕の日本史の勉強は、山川出版から出ている「日本史一問一答」という、日本史受験のバイブル本。この1冊のみ勉強していました。

毎日5ページずつ暗記していく、と決めてひたすら読んで、紙に書いて覚えていきました。

当時はその1冊のみを勉強して、進研模試では全国偏差値60~63くらいでした。

新潟大学の2次試験の数学は出題傾向がだいたい決まっていて、「ベクトル」「微分法・積分法」「1次変換」「数列」これら4単元が中心になって出題されていました。

僕は当時「数列」が苦手だったため、とりあえずは「ベクトル」「微文法・積分法」「1次変換」に絞って「チャート」を中心に勉強していました。


英語に関しては、新潟大学の英語は毎年のように「下線部和訳」「説明する問題」「英作文」こられ3セット以外の出題はありませんでした。

そのため、僕は本屋さんへ行き、長文対策の問題集(長文の入試問題が掲載されている問題集)を買ってきて、和訳の練習から始めました。


英作文に関しては、2年生の4月に学校で配られた桐原の「即戦ゼミ3」の第1章に書いてある問題文をそのままカードにして全部暗記しました。

単語カードにして300枚くらいだったかと思います。「桐原の即戦ゼミ3」は今でも人気のある問題集です。

ただ、こらら300枚の英作文を暗記するのは、かなり大変でした。来る日も来る日も英作文を書いて書いて、1文ずつ覚えていきました。

ただ、今振り返れば英語・数学に関しては青本・黒本・白本を「センター対策用」として解くべきでした。当時はそこまで勉強はできていませんでした。


PS:大学受験を振り返り、「和田秀樹先生の著書との出会い」がなければ、俺はどうなっていただろう?と思い返すことが度々あります。

魚津の友達に感謝です。和田秀樹先生の本は、今でも数冊持っていて、読み返すことは多いです。
2026年08月14日 03:34

帰省してきている中学時代の友達と久ぶりに会いました。

今日の午前中、愛知県に住んでいる中学時代の友達が帰省してきているので、会って話してきました。

午前8時に僕が車で彼を迎えに行き、その後2人で飯野にあるカフェへ行きました。まだ8時過ぎなのに店内は混んでいて40分くらい待たされました。

待っている間、僕の車の中で2人で話しました。今年のゴールデンウイークは、彼の娘さんがゴールデンウイーク明けにテストがあったため、帰省せず会えませんでした。

今年のお盆は今日の午前中のみ、彼のスケジュールが空いていたので8時に迎えに行きました。

娘さんの高校での勉強の話や大学受験の話を一通りした後、僕の塾・家庭教師の話を聞いてもらいました。

彼は熱心に30分ほど、僕の塾や家庭教師についてアドバイスしてくれました。ありがたかったです。

彼が教えてくれたことをメモに書きました。

カフェの次はスーパー銭湯へ行きました。露天風呂で話したあと、僕はのぼせてきたので風呂から上がりました。

彼はもう少し露天風呂でゆっくりしていました。

時刻は10時50分。次はココスへ行きました。

ちょうどココスが開店したところでまだお客さんはいませんでした。

ココスで30分ほど、お互いのことについて話をしました。

久しぶりに友達と会って話ができたので、僕は大満足でした。

彼とはゴールデンウイーク、お盆、年末しか会う機会がないので、今日は貴重な午前中になりました。

食事代は友達がごちそうしてくれました。

今、お盆休みの方が多いかと思います。中学時代の友達や高校時代の友達、大学時代の友達と会ってリフレッシュするのは良いですね。

友達からのアドバイスで「大手の塾にはできなくて、佐伯のできることを考えて行動に移してみれば?」と言われました。

とても大きな一言でした。

これから考えてみます。

佐伯優一郎の指導の最大の強みは何??
2026年08月13日 13:00

富山第一高校1年生時代 / 勉強の仕方がわからないなりに勉強していました。

もう何度もこのブログでお話させてもらっていますが、僕は中学3年生のとき、富山東高校を受験して、倍率1.14倍の戦いに負け、不合格になりました。

そして「一高なんか行きたくない!」と言いながら富山第一高校へ入学することになりました。以後3年間、何とも言えない「敗北感」を抱いたまま、高校時代を過ごしました。

もちろん、入学してからは友達にも恵まれ、クラス替えもほとんどなかったため、男子の友情は固く、今でも仲良くさせてもらっている友達は数名います。

さて、僕は高校1年生のときは「俺は高校受験で失敗した。だけど受験のシステム・勉強の仕方に関してはとりあえず理解できた」と思っていました。

一度高校受験を経験していたため、「3年生になってから慌てても、もう手遅れ」とういこと「大学入試は高校入試とは次元が違う。早めの対策が必要」ということを理解していました。 


僕は高校1年生のときは「将来小学校の教員になりたい。そのために富山大学に合格したい!」と思っていました。

富山県人なので、当時身近で知っている大学といえば、富山大学と金沢大学くらいでした。

当時、富山第一高校から国公立大学に合格するには、「学年順位で20番以内」と言われていました。

僕は入学直後の「入学おめでとうテスト」で20番をとりました。「ギリギリ国立ラインに立っているな」と思っていました。

ただ、当時僕のクラス(特進クラス)と隣のクラス(特進クラス)の合計人数は約85名。

そのうち富山中部高校を落ちた人は約50人、富山東高校を落ちた人は約50人いたため、僕の成績は予想するに「50番~100番くらいだろう」と思っていました。

中部高校を落ちた人たちとは「スタートライン」からして異なります。大きく出遅れています。

それにもかかわらず、入学直後のテストでいきなり20番・・・正直驚きました。「この成績を3年間キープできたらいいのに」と思っていました。

僕は部活には入っていなかったため、家に着くのはだいたい16時前。 早い。中学時代よりも家に帰って来るのが早い。

入学当時、僕は気合だけは充分にありましたが、大学受験のノウハウは何も持っていませんでした。

とりあえず母親が買ってくれた「学研のマイコーチ」というワークを勉強していました。

5月に入ると数学の「因数分解のたすき掛け問題」でつまづいてしまい、同じ東高校を落ちた友達にしょっちゅう電話して因数分解の解き方を教えてもらっていました。

「英語と数学がとにかく大切」と聞いていたので、英語と数学だけは毎日勉強していました。と言っても毎日2時間くらいしか勉強できませんでした。

学校へ行くとき、僕は自転車で高校まで通っていました。すると毎日「富山東高校の生徒」とすれ違っていました。(東高校の女子は青いリボンをしているので、すぐにわかります)

なぜか、僕の通る道は必ず「逆風」でした。そしてすれ違う東高校の生徒の自転車は「追い風」でした。

僕が一生懸命に自転車をこいでいるのに、東高校の生徒は楽楽自転車をこいでいます。「くそ~。こいつら。毎回毎回追い風やの!こいつらにだけは絶対に負けたくない!」

と思いながら高校へ毎日通っていました。

僕が一番みじめな思いをしたのは「冬:電車通学で高校へ通うとき」でした。

雪が降ると自転車では通えないので「富山港線」というJRで僕は富山駅まで行き、それから乗り換えて「えばら駅」で降りて、そして徒歩で10分かけて高校へ通っていました。

この「富山港線」に乗ると、僕の地元の中学OB生がたくさん乗っています。しかもほとんどの生徒が県立高校。僕は私立高校。

電車に乗ると、恥ずかしくて前を堂々とは見れませんでした。一高に通っていることが、コンプレックスでした(今はもうなんとも思いませんが、当時は若かったのでみじめでした)

あぁ、俺はしょせん私立なんやなぁ、と電車に乗るたびに落ち込んでいました。でも「3年後には必ず富山大学に合格してやる!」と思っていました。

7月に入り、初めて全国模試を受けることになります。進研模試です。

模試が終わり、家で自己採点すると、英語も数学も55点~60点くらいでした。「うわ~悪い」と落ち込んでいたのですが、結果が帰って来て見てみると、英語・数学ともに全国偏差値は60を少し越えていました。ちょっとびっくりしました。

中学時代のテストとは異なり、高校の模試は平均点が100点満点で50点以下、というこに初めて気づきました。

進研模試の僕の学年順位はだいたい20番~25番くらいでした(1年生のときです)


1年生の2学期の三者面談のときは、担任から「今のお前の成績は、ぎりぎり国立に受かるか?落ちるか?という成績だ。もうちょっと頑張れ。特に古文。

お前の点数は100点満点中の30点や。この点数を説明すると…君は古文に関しては「お荷物だ」と言われました。

僕は文系だったのですが、英語と数学は得意で国語(古文・漢文両方とも)全く勉強せず、進研模試の全国偏差値も卒業するまで49でした。50を越えることは一度もありませんでした。

国語をなんとかしないといけない…頭ではわかっているのですが、古文の勉強をしていると、助動詞レベルでつまづいてしまい、古文単語も100ほどしか覚えられず・・・

完全に国語は「捨てていました。」

1年生の2月のこと。当時僕は総曲輪通りにあった「清明堂」」という、高校生の問題集がたくさんそろっている本屋さんへ毎月のように自宅から40分かけて自転車で通っていました。

その清明堂で初めて「富山大学教育学部の偏差値はだいたい54くらい」ということを知りました。

当時の僕の進研模試の全国偏差値は、英語60,数学60,国語49 3教科合計で全国偏差値がだいたい56くらいでした。

「おぉ、今の成績なら富大なんとか合格できるかもしれん!」と嬉しい気持ちになりました。

当時は「高校受験の失敗は繰り返したくない」と強く思っていたので、僕は1年生の冬から英語は「共通1次テスト用の英語の問題集」を解き始めていました。

当時はセンター試験に代わる前の「共通1次テスト」が実施されていました。僕が高校2年生のときになると「共通1次テスト」→「センター試験」に切り替わりました。

僕はこの「共通1次テスト用の英語の問題集(文法編)」を2月から毎日勉強するようになりました。」

英語のリーディングの勉強はほとんどせず、グラマーの授業を真剣に勉強していた僕は文法には少し自信がありました。

でも、共通1次テスト用の対策問題集」を解いていると、学校では習っていない問題がたくさんあり、面食らってしまいました。

理屈では高校1年生の3学期で「高校時代の文法の勉強は終わる」と言いますが、僕は自慢の文法問題が解けず、改めて「勉強せんならんなぁ」と思いました。

英単語に関しては、7月の進研模試を受けた時に、あまりにも自分の知らない単語が長文の中で連発して出て来ていたので「これは単語を知らないと長文はお手上げだな」とわかり,1年生の7月から3月までの間に600語くらいの単語を覚えました。

文房具屋さん(本屋さん)で売っている「単語カード」を購入し、カードの表には「英単語」、裏には「意味」を書き、暇さえあれば英単語を覚えていました。その結果、1月に受けた進研模試では、長文問題がなんとなくわかるようになってきました。

こうして僕の高校1年生時代は「英語」「数学」に絞って勉強していました。

数学に関しては習っていた先生が2人いらっしゃたのですが、1人の先生がものすごく教えるのが上手で、放課後、職員室へ問題集を持って、その先生に質問しに行っていました。

数学に関しては「2次関数の場合分け問題」に苦戦しました。あとは一時ですが数学の先生が代わってしまい、代わりに来た65歳くらのじいちゃん先生に「三角比」を習ったのですが

あまりにもの「授業の下手さ」にぶつかってしまい、三角比は全く理解できませんでした。

結局三角比も前出の教えるのが上手な先生に質問しに行って、なんとか理解できるようになりました。65歳の先生の授業は、今冷静に思い返してみても「素人」の先生で最悪でした。

高校3年間、英語と数学の先生に恵まれ、なんとか1年生の成績は20番台をキープして終えることができました。

ただ、この番数はあくまでも「進研模試」と「校内実力テスト」の順位です。

中間・期末テストは当時からバカにしていたので英語・数学以外はほとんど勉強しなかったため、80番くらいでした。もちろん、全く気にしていませんでした。

定期テストでどんなに良い番数をとっても、肝心の入試には全く役には立たない」と中学時代のことを思い出し、テスト範囲の広い模試にのみ絞って勉強していました。

よく、定期テストは成績がいいけど、模試になると成績が落ちる生徒さんは、正直に申し上げて「実力不足」だということです。

勉強の仕方を間違えている可能性大です。あくまでも入試に合格することが、高校3年間の勉強です。

テスト範囲の狭い定期テストで良い点数が取れるからといって、範囲の広い「模試」でも点数が取れる、ということはありません。

理想は「定期テストも進研模試も好成績」なのですが、両方のテストの勉強を両立させることはなかなか難しく、下手すると「あぶはち取らず」になってしまうかもしれません。

要領が大切です。抜くところは適当に。でも重要な問題は繰り返し解く。

今は僕の時代とは異なり、ネットを検索すると「武田塾」さんの動画があります。

武田塾さんの動画は今でも趣味程度に見ることが多いです。

高校生にとっては貴重な「受験情報」や「参考書ルート」などを教えてくれるので、ぜひ一度ご覧になってほしいと個人的には思います。

参考書も今は予備校の先生が書かれている名著がたくさんあるので、一度大きな本屋さんに行って半日かけてじっくりと参考書を手に取って読み比べてほしいなと思います。

僕の高校1年生のときの成績をまとめると・・・ 定期テストは80番。 進研模試・校内実力テストは20番~25番。

国立ギリギリラインでした。
2026年08月12日 16:24

連立方程式が解けない浪人生が数学の全国偏差値63にまで上がった話

僕は29歳のとき、新潟県上越市に住んでいました。今日はそのときにインパクトのあった生徒さんの話をさせていただきたいと思います。

4月に僕は某大手家庭教師派遣会社に所属していました。

そのときに「浪人生」の指導を担当させてもらいました。

その浪人生は職業科の高校を卒業したあと、どうしても大学に行きたいため、予備校に通っていました。

しかし高校時代に全く勉強をしていなかったことと、そもそも職業科の高校出身だったため高校では習っていなかったことを予備校で普通に習うため、予備校の授業に全くついていけず

4月の段階で予備校の授業に見切りをつけ、家庭教師をメインに受験勉強する、という体制に切り替えていました(授業料を納めていたため、予備校には一応通っていました)


僕は、その浪人生を紹介されたとき、会社の人から次のように説明されました。

「とりあえず、全く予備校の授業にはついていけていません。特に英数は厳しいです。ちなみに4月にあった模試では数学の点数は200点中の6点でした。

佐伯先生には中学校の数学から丁寧に指導してほしいと考えています。できますか?」

僕は「はい。やれるだけやってみます」と言いました。


その浪人生の授業は2時間授業を週に3回。日中に指導することになりました(夜は中学生・高校生の指導をしていました)

僕は初回指導のときに、「とりあえず、この問題を解いてもらえる?」と言い、連立方程式の加減法の問題(中2レベル)を解いてもらいました。

すると彼はとりあえずさらっとその問題を解きました。僕は内心「よかった」と思い、続けて代入法の問題を解いてもらいました。

すると彼は「…わかりません」と言いました。

「えっマジで?!」僕は一瞬固まりました。そうか、確かにこのレベルでは模試で6点取って来るはずやな、と確信しました。


とりあえず4月・5月は中学生の数学の計算問題を徹底的に復習しました。当時彼は「東京工芸大学または神奈川工科大学に行きたいです」と言っていました。

東京工芸大学は偏差値にして50~55くらい。神奈川工科大学は偏差値40くらい。

僕は「今のうちに正直に俺が思ったことを言わせてもらうけど…はっきり言って今の成績は話にならんよ。まず無理だよ。週に3回の俺の家庭教師の宿題を完璧に1年間やれる?」

と聞きました。彼は「はい、頑張ります」と言いました。「わかった。じゃあ東京工芸大学目指して頑張ってみようか」と言いました。

6月に入り相変わらず予備校の授業は全くついていけていませんでした。そりゃそうでしょう。連立方程式も解けないのに高校の授業を一通り終えていることを前提に授業をしている

予備校の授業についていけるはずがない。逆にわかったら怖い。

僕は数学Ⅰ・Aを優しめなワークから説明し、例題をある程度解いてから「じゃあこの問題解いてみるけ」と言って青本(駿台予備校の出しているマーク式のセンター試験対策の模試を

集めた問題集)をガンガンに解いてもらいました。週に3回家庭教師があったので、毎回授業の終わりに3~5時間くらい分の量の宿題を出しました。

彼は深いため息をつきながらも、とりあえずわからないなりにその青本の問題を解きました。

僕は「センター試験で必要な数学を解けるようになるには、マーク模試を徹底的に解かせるしかないやろ」と思い、カンタンな問題は授業中で終え、あとはひたすら青本を解いてもらい

ました。1月のセンター試験まで残された期間は7カ月しかありません。普通の高校生みたいにチャートを時間をかけて解いている余裕などありません。

青本が終わると次は黒本(河合塾のセンター試験対策用のマーク模試)をガンガンに解いてもらいました。

7月の模試では数学の全国偏差値はかろうじて40台に届き始めました。

僕は文系出身なので、彼の指導はセンター試験数学のみ。もう一人の家庭教師の先生は化学と英語を指導されていました。

彼は確かに200点中6点しか取れないスタートだったのですが、教えたことはまずます理解できていました。

あとは宿題を毎回ちゃんとやっていたので、もしかしたら伸びるかもしれん、と僕は思っていました。


夏休みが終わり、9月に入るころには数学Ⅱ・Bの勉強を始めました(数学Ⅰ・Aに関しては70%くらい終えたところで数学Ⅱ・Bの指導に切り替えました)


数学Ⅱ・B、に関しては僕は「微分・積分」から指導を始めました。センター試験に必ず出て、配点も高かったためです。

微分の仕方、積分の仕方。接線の式の求め方(2通り)、面積の求め方を一通り教えたあと、青本の問題を宿題に出しました。ただし、正答率の低い問題(各問いの最後の方の問題)は

飛ばしました。

こうして、「微分・積分」「ベクトル」「図形と方程式」「三角関数」「指数・対数関数」を1つずつ指導していきました。難しい「数列」に関しては等差数列・等比数列まで。

Σは指導しませんでした。あくまでも当時のセンター試験レベルに届くか届かないかくらいまでの範囲しか指導しませんでした。とにかく「要領」を重視して指導していました。


そして11月に入るころには「センター試験の過去問」を解き始めました。そのころには彼の全国模試の数学の全国偏差値は55まで伸びていました。

僕は「やればできるもんだな。頑張っとるな」と少し安心していました。とりあえず数学に関しては東京工芸大学には届いていました。

こうして12月もセンター試験の過去問、新たな青本・黒本をひたすら解いてもらい、最後の模試では数学Ⅰ・A・Ⅱ・Bの全国偏差値が63にまで伸びていました。

彼は結果、「センター利用」試験で東京工芸大学に見事合格されました。

僕はこの1年を振り返り「センター数学だったら、努力次第では偏差値60くらいまでは伸びるもんなんやなぁ」としみじみ思いました。

あくまでもセンター試験レベルまでの話です。国公立大学の2次レベルでの話ではありません。


こうしてセンター数学の指導に自信を持った僕は、富山県に帰って来てから福光で「センター数学専門塾」を開き、福光・福野に住んでいる高校生(福野高校・福光高校・砺波高校の

生徒さん)にセンター数学の対策授業を展開しました。授業の仕方は上越時代と全く同じ。ある程度基礎を教えてからはひたすら青本・黒本の問題を解いてもらいました。

あとは予備校の先生が書かれた本を徹底的に勉強して(坂田アキラ先生の本、志田晶先生の本,   代ゼミ今野先生の本)、「センター数学ノート」を作成して、

本屋さんに置いてある「センター数学」というタイトルがついている問題集はほとんど購入し、毎日4~5時間、「センター数学」の勉強をしていました。

何かにとりつかれたように数学の勉強をしていました。でも楽しかったです。

センター数学ノートは単元ごとにノート1冊分作り、当時で9冊作り上げていました

。特に坂田アキラ先生の「面白いほどわかるシリーズ本はめちゃくちゃわかりやすく、鳥肌が立ちました。

今野先生のセンター数学対策本も、迫力があり、うなりながら勉強させてもらいました。


自分で言うのもなんですが、当時僕はものすごい結果を出し続けていました。

進研模試(11月実施)の数学の全国偏差値が49の福野高校1年生の女子生徒さん→1月の進研模試の数学の全国偏差値が63にまでUP

福野高校での順位が120番→12番になり、それを聞きつけた福野高校1番の生徒さんが入塾してくれました。

福光高校の1年生(夏休みに入塾:7月の進研模試の全国偏差値40→1月の進研模試の数学の全国偏差値が64)

同じく福光高校1年生の女子生徒さん(7月の進研模試の全国偏差値38→1月の進研模試の数学の全国偏差値が55)

福野高校1年生の女子生徒さん(10月入塾)は7月の進研模試の全国偏差値42。学校の授業に全くついていけません。と言って入塾。→1月の進研模試の数学全国偏差値が58)

などなど、ことごとく生徒さんの数学の偏差値がUPしていきました。楽しかったです。

当時の僕の塾「佐伯ゼミナール」の高校生数学の評判は確かなものでした。


残念ながら「センター試験」が終わり「共通テスト」に切り替わったところで、問題を一瞥して僕は「終わった。もう俺の授業では共通テストでは結果が出せないな」と見切りをつけ

現在は高校生の数学の指導は一切行っていません。とても残念な話です。

僕が一番ショックを受けました。 今の共通テスト(数学)を目にすることはもうありません。

数学の努力が全く報われない共通テストの数学の問題。あれでは一生懸命に頑張って勉強している生徒さん(特に文系の生徒さん)が、あまりにもかわいそうです。

それくらいに傾向が全くガラッと変わってしまった共通テスト。


僕が高校生に指導することはもう二度とありませんが、センター試験時代は面白いように教え子さんの数学の成績が上がっていきました。

今は「平均点以下の中学生」の成績をなんとか平均点にまで上げることを第一の目標に、中学生の英語・数学・理科・社会の家庭教師を頑張っています。


PS:共通テストの数学の問題を見たときの衝撃は一生忘れることはないと思います。
2026年08月11日 00:11

大学時代の塾講師をしていたころの話(大学3年生夏~3年生の終わり)

僕は大学2年生の終わり~大学3年生の終わりまで、新潟県三条市という所にある大手の塾で、中学生に英語・数学を教えていました。

昨日のブログのつづきを書かせていただきます。

大学2年生の終わり~僕は2つのクラスを担当させていただくことになりました。

そのうちの、あるクラスのことについて述べさせていただきます。

そのクラスの授業は、とても楽しく、1クラス8人くらいいたのですが、男女ともに半分ずつ、というクラス構成でした。

授業をしていても、私語をする生徒さんはいなく、むしろ僕の方から授業を脱線して、クラスの皆で笑って盛り上がる、というとても雰囲気の良い授業を毎回していました。

もちろん、僕自身も楽しく、そのクラスの授業があるときは、1日楽しい気分で過ごしていました。

授業のときは毎回10分くらい脱線して雑談をしたり、笑い話をしたりして、一体感ある授業をしていました。


 ところが・・・ある日のことです。当時1番仲の良かった女子生徒が、授業中ずっとおしゃべりをしていて、授業に集中できていませんでした。

僕は最初は「〇〇さん、俺の話聞いとる?」と軽く注意したのですが、無視。全く僕の言うことを聞かず、クラスの友達とおしゃべりをしていました。

彼女はとても良く話をする生徒さんで,僕に「先生、岡村孝子の「夢をあきらめないで」っていう歌知ってる?あの歌すごくいいんだよ。音楽の授業で歌ったよ。

”心配なんてずっとしないで、似てる誰かを愛せるから” っていう歌詞がすごく好きなんだ」 と言っていました。


とにかく明るくてなんでも話してくれる、そんな親しみのある女子生徒さんでした。

僕は話の止まらない彼女に、再び「〇〇さん、今,授業中だよ。勉強しようね」と注意したのですが、それでも話が終わりません。

僕はついに「このクラスどうなっとるん? 女子めちゃくちゃうるさいよ。男子だけで授業したいわ」と吐き捨てるように言いました。

するとその話続けていた彼女が突然泣き出しました。

クラスの雰囲気は一気に気まずくなり、その女子生徒は授業が終わるまでずっと泣いていました。

僕は「これはまずいことになったな。どうしよう」と焦っていました。


 そのクラスの授業は週に2回あったのですが、次の塾の日、その泣いていた彼女は塾を休みました。

その彼女なしで授業をしていた時、僕が「前回の授業はごめん。ちょっと言い過ぎた」と生徒さんに謝りました。すると1人の女子生徒が

「先生があやまることないよ。〇〇ちゃん、先生のことが好きなんさ。先生に話を聞いてほしくて話してたんだっけ、注意した先生は悪くないよ。

先生はいつもうちらの味方だっけ、悪くない。先生が言いたいことあったら、うちらに言ってよ。聞くよ」

 僕は何も言えませんでした。


泣いていた彼女は、塾に来てくれるようになったのですが、授業中の態度は変わってしまい、僕に話しかけることもなくなり、ノートもとらず、落書きをかいていたり

他の女子生徒と話したりしていました。

僕は「そのうち機嫌治ってまた前のように楽しく会話できるやろ」と思っていました。


しかし、僕がその塾を去るまでの半年間,彼女は僕と話すことはありませんでした。お互いに無視している、という状態が半年間続きました。

毎回塾があるたびに、僕は今まで一番楽しみにしていたはずのそのクラス授業が、最も苦痛な授業になってしまいました。


当時は僕は21歳。大学3年生でした。 その生徒とどうやって和解するべきなのかわからず、ただただ授業をしていました。

……  辛かったですね。どうしようもない気まずい雰囲気の中、授業だけを淡々としていました。


そんなある日のこと、僕がいつものように、授業が始まるので教室に入って、黒板をふと見たときに、黒板に大きな文字で

「死ね!」と書いてありました。

僕はびっくりしたのと同時に、ムカッときました。

僕はその「死ね!」という文字を消すことなく、そのままの状態で授業をして黒板に説明することを淡々と書いていきました。

生徒さんは、表情が硬く「先生怒ってるな」という表情をしていました。

 授業が終わり、生徒さんが帰った後、僕は上司に「こんなことを黒板に書かれてしまいました」と報告し、その黒板を上司に見てもらいました。

上司は絶句し、「これはひどいですね。でも佐伯先生も大人げないですよ。」と言われました。

その事件以降、僕はその塾へ行くのが嫌になってしまいました。


今まではとても楽しかったクラスだったのですが、女子生徒とは完全に決別。全く会話のない授業をするだけ、という日々が約半年続きました。

3月になり学年が上がるタイミングで僕は、その塾を辞めることにしました。

修復不可能。

とても寂しい気持ちを残して、僕はその塾を去りました。

大学4年生に上がる前の3月の話です。


何が良くなかったのだろう… 僕は塾の先輩とファミレスに行き、話を聞いてもらいました。

先輩は「そうらね。女子は難しいね。こればっかりは佐伯君にしかわからない苦しみだよね。まぁ佐伯君が辞めたいというのもよくわかるよ。いいよ。そんなに悩まなくても」

と僕をかばってくれました。

僕は「特に女子生徒と関わるのは難しいな」と痛感しました。あんなに仲が良かったのに、たった1日の出来事が原因でこんなことになってしまうのか…」

「女子生徒と,どういうスタンスで関わっていけばいいのだろう?」 僕は悩み考えました。

僕は「とにかく生徒を注意するときは、言葉づかい、あとは言い方に気をつけよう。万が一,気まずくなってしまったら、その生徒に謝ろう」と結論づけました。

多感な中学生(高校生)。言葉ひとつで、言い方ひとつで傷つけてしまう。

だからといって、全部が全部、俺が悪いわけではない。もともとは注意しても態度を改めなかった生徒も悪い。

必要以上に卑屈になる必要はない。堂々としていればいい、とも思いました。

ただ、女子生徒さんとの関りには本当に注意・配慮が必要なのだなと思いました。


PS:岡村孝子さんの「夢をあきらめないで」を聴くと、当時のことを思い出します。

言葉づかいには本当に注意しよう、と思っています。

友達と話すときもそう。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉を意識しながら関わっていきたいと思っています。
2026年08月09日 04:01

大学時代の塾講師をしいていたころの話(大学3年生)

大学3年生になり、僕は新潟県三条市という所にあった,大手の学習塾で中学生の2つのクラスの担当をすることになりました。

教える科目は英語・数学でした。

新潟大学から三条市までは電車を2回乗り継いで、片道1時間くらいかかりました。

遠かったです。塾が終わって下宿に着くのは夜の23時を越えていました。

三条での塾の非常勤講師のとき、僕には2つの大きな出来事がありました。

今振り返ると「若かったな」と笑い飛ばせるのですが、当時の21歳の僕には深刻な出来事でした。

僕は、今もそうなのですが、授業中に生徒さんに大声を上げて叱り飛ばす、ということはほとんどありません。

大門での「寺子屋学習館」7年4カ月間の中では一度も生徒さんをどなりつけた、ということはありません。

かなり穏やかで、落ち着いた授業をしています。生徒さんとの雑談を楽しみながら授業をしています。


さて、話は大学3年生に戻って・・・

三条市での塾の講師をしていたときでした。

僕が担当していたクラスに、「かなり授業態度の悪い女子生徒さん」が1名いました。

塾の先生方は彼女にやや振り回されていて、その生徒さんを警戒していました。

僕が初めてその女子生徒さんと対面して授業をしたとき、彼女は笑顔で

「先生って一太郎って名前なんだ?」と質問してきました。

「いいえ、先生の名前は優一郎だよ」と交わしたのが彼女との初めての会話でした。

僕は特別悪い印象をもったわけでもなく、素直な子なんだな、と思っていました。

ところが、次第に僕の授業になれてきたころ、彼女の問題行動がちらほらと出始めました。

まずは、「授業中にうるさい」ということです。他の生徒さんが真剣に問題を解いているのに、彼女だけは他の生徒さんに話しかけたり、授業とは全く関係のない話を僕に

何回もしてきました。

最初のうちは僕も真面目にこたえていたのですが、しだいに彼女の態度はエスカレートしていき、「授業妨害レベル」にまで発展していきました。

僕はすっかり困ってしまい、同じ塾で講師をしていた先輩に相談しました。先輩は

「そうらね~。難しいところだね。でも佐伯君が授業をしているんだっけ、佐伯君の好きなようにやればいいよ」

とおっしゃりました。

僕は下宿に帰って、下宿仲間にも相談していました。彼らは「まぁ子どもは甘やかすとつけあがるからね。でも女子生徒?ちょっと難しいね」

と言っていました。僕も男子生徒だったら、しかったりするのですが、女子生徒だったため、どう対応していいのかわからず、「怒ったとしたら下手したら塾をやめてしまうだろうな」

と思っていました。

この女子生徒さんにはかなり苦しめられました。まず言葉づかいがものすごく悪い。

たとえば授業中に僕が黒板にチョークで文字を書きながら説明していると、彼女は

「黒板書くか説明するか、どっちかにしれいや!!」と大声で僕に言ってきました。

僕は一瞬ムカっときたのですが、確かに彼女の言う通りだなと思ったので、黒板を書くのをやめ、説明しました。

そういったふうに、いちいち小言を言って彼女は僕にからんできました。

ろくにノートも書いていないのに文句だけは一人前。

そんなことが続いたある日、毎度のように彼女はノートもとらず、一人で騒いで周りの生徒さんに迷惑をかけていました。

ついに僕の堪忍袋の尾は切れました。

僕は彼女の机の所につかつかと歩いていき、彼女のノート、塾のワーク、そして机の横にかけてあった彼女のバッグを全部とりあげ

それらを廊下に投げ捨て「お前、もう帰れ!邪魔や。何回同じこと言わせるんよ?ここはお前だけの塾じゃないんやぜ。みんなの塾なんよ。迷惑なんやぜ。帰れ!!」

と鬼の形相で彼女を大声で罵倒しました。

彼女は半べそをかきながら廊下に出て教科書やワークを拾い、バッグを持って教室へ黙って入ってきました。

  それ以上は僕は何も言わず、そのまま授業を続けました。彼女は静かになり最後まで授業を受けていました。

これが僕の30年以上にわたる塾・家庭教師経験の中で、唯一生徒さんにブチ切れた事件です。

帰り道、僕は電車の中で1日を振り返り、とても落ち込んでしまいました。

生徒をどなりつけてしまった。しかも女子生徒。

悪ガキの男子生徒ならいざしらず、女子生徒さんを罵倒してしまったことがすごくショックでした。

当時の僕は教育書を熱心に読んで勉強していました。その中に、ことあるごとに

教師が生徒をどなりつけるのは、教師の指導力のなさが原因。生徒は悪くない。自分の教育力のなさを恥じるべき」と繰り返し書いてありました。

当時僕は、塾の授業があった日は下宿に帰って来てから毎回「日誌」をつけていました。こんなことを〇〇君に言ったら喜んでいた。

連立方程式の応用問題を説明しているとき、ほとんどの生徒が理解できず、「わかんね」と言っていた。などなど。

思いつくままにその日あった出来事を書き連ねていました。大学生にしては、かなり真面目で熱血だったと思います。まぁ大学卒業後は小学校の教員になると決めていたので

当たり前と言えば当たり前なのですが…

そのどなりつけてしまった彼女は、まあ相も変わらず授業態度は変わらなかったのですが、ただ彼女の良いところは「過去を引っ張らない」ところでした。

どなりつけてしまった次の塾のときも、ケロッとして僕に話しかけてきました。僕はとても救われた気持ちになりました。


彼女のことは今でもよく覚えていて、僕が万が一ブチけれそうになったときはいつもあの出来事のことを思い出しています。

ただ、確かに教師が生徒をどなりつけるのは悪いことかもしれませんが、「授業態度が悪くて、周りの生徒さんに迷惑をかけている場合」はやっぱり叱る必要はあると思います。

優しくさえしていればいい、というわけではありません。


話は少し飛びます。

  僕は大学3年生の10月から中3クラスを担当していました。

中3生は1年生・2年生とは異なり、受験生なので授業中はもちろん皆真剣に授業を受けています。私語をしている生徒さんはいません。

静かな環境の中、日々の授業が進んでいきます。

その3年生クラスの最後の授業の日、僕は3年生にアンケートを書いてもらいました。

「この塾に来てよかったこと」そしてもう一つは「佐伯先生にはこんな先生でいてほしい」ということを書いてもらいました。

そのアンケートの答えの中に、仲良くしていた男子生徒が「いつも楽しい授業をしてほしい。でもしかるときはちゃんとしかる。そんなケジメのつけれる先生でいてほしい

と書いてありました。

当時の3年生に書いてもらったアンケートに書いてあったことは、今でも覚えています。僕にとっては「貴重な財産」になっています。


以上、僕が唯一生徒さんにブチ切れてしまった、出来事について述べさせてもらいました。

自己嫌悪と後悔の念がありましたが、当の生徒さんがあっさりした生徒さんだったことが救いでした。

次回はもうちょっと「僕にとってはショッキングで深刻だった事件」について書かせていただきます。


PS:人に物を教えるということは「優しさ」と「忍耐」が必要だと思います。

大学時代に僕はいくつかのアルバイトをしていましたが、(メインは塾講師・家庭教師のアルバイトでした)

単発のアルバイトのときに、ことあるごとに僕らバイト生に感情の赴くままに怒鳴りつけ、「仕事を教える」というよりは「勝手に一人で切れている人」が数名いました。

僕はそのたびに「なんよコイツ。俺は絶対にコイツみたいな感情のおもむくままに人をどなりつけるような教え方はせんぞ」と思っていました。

当時僕が読んでいた教育書にこんな一文が書いてありました。

「言って聞かせて、やってみせて、やらせてみせて、ほめてやらねば人は動かじ」

大日本帝国の海軍軍人で、太平洋戦争開戦時の際の連合艦隊司令長官を務められた 山本五十六さんの名言です。

大学4年生のときに僕はこの言葉に出合い、今でも生徒さんと接するときに、一番大切にしている言葉です。

感情的にしかりつけても説得力は0。だれも聞いてはくれない。人に物を教えるときには「優しさ」「忍耐力」そして一番大切なのが「ほめて、認めること」

だと思います。何も教えることだけに大切な言葉ではありません。

人と接するときにもとても大切な言葉だと、僕はいつも思っています。
2026年08月08日 10:30