小学校教員時代
もうかなり昔の話になりますが、僕は24歳の春に新潟県三条市という所にある中規模校の小学校で,3年2組の担任として赴任しました。当時ワープロさえまともにできなかった僕にとって、教員の仕事の半分くらいを占める「ワープロを使っての仕事(主に事務仕事)が僕にとってはものすごく大変で
「大学生のうちにワープロを使っていればよかったな」と何回も後悔していました。
教育実習のときに、いろんな先生方から「佐伯さん、教員の仕事は授業と児童理解だよ」とさんざん言われていたのですが、いざ現場に入ってみると、
全く理想とは違っていました。
職員室ではどの先生方もワープロで書類を作っていたり,クラス単位の仕事ではなく、学校単位の仕事に追われていました。
僕は着任早々、4月から「なんだこれ?学校ってこんなに雑用の仕事ばっかりなん?」と幻滅していました。
今もその気持ちは変わらないのですが…。
大学時代に教育実習であれほど「指導案作成(授業中に教員がどんな質問をして子どもたちの予想される反応を書き出して、それらに対しての次なる教員の発問などを
考える、という書類のことです)」ばかりに重きを置いていた教員の仕事が現実にはほとんどなく、ひたすら事務仕事。今日も明日も事務仕事・・・
嫌気がさしてしまいました。ワープロすらろくにできない僕にとって、事務仕事は何よりも苦痛な仕事でした。まあ初歩的な問題です。
どのような授業をすれば子どもの個性が生かされるのか?宿題はどのようなペースで出せばよいのか?日記は毎日書かせるべきか?それとも週に2回~3回ほどだけ書かせるべきか?
週末土日には宿題を出すと、親からクレームが来るので絶対に出してはいけない、とか、いろんなことをいろんな先生に相談しているうちに、僕の不安な気持ちがだんだんと
大きくなっていきました。
当時教員2年目だった僕の彼女に相談すると「ゆうちゃん、それ質問しすぎだよ。とりあえず優ちゃんの思ったようにやってみればいいじゃん。
誰だって最初からうまくはいかないし、ある程度自分で判断して、自分で失敗しながら一つずつ気づいていくもんだよ」と諭すように言われました。
僕はとにかく必死で、放課後一人で教室に残り、今日の課題,今日気づいたこと、先生方から学んだこと をカセットテープに毎日のように録音していました。
かなりバカ真面目で正直だったと思います。宿題ひとつとっても、日記の場合は先生が点数をつけてやると子どもが喜ぶから点数をつけてやってください、と親御さんから
注文をつけられたり、一方他の先生に同じ質問をすると「佐伯さん、日記に点数をつけるなんて、とんでもないことだよ。まずは書いてきてくれたことを認めてあげることだよ。
と言われたり… 一つひとつのことを毎日1時間くらいかけてカセットテープにどんどん録音メモをしていきました。
4月~6月にかけては毎日職員室に夜22時過ぎまでいました。朝は7時半には職員室にいました。
小学校の教員の仕事は学年別にグループがあり、僕は「3年生のグループの一員」でした。
他の学年の先生方は既婚者の方ばかりだったので、毎日18時~19時の間には帰宅されていました。」
でも僕の学年だけは3人ともまだ若く、20代~30代前半の先生ばかりだったため、毎日最後まで職員室で仕事をしていました。
僕は赴任して最初の1週間で体重が7kgも痩せてしましました。もうほとんどやつれていました。
どの仕事もそうだと思うのですが、覚えることが山のようにあって、いったい何から手を付ければいいのか? 1年目の僕には全くわかりませんでした。
6月になると「研究授業」という、教員にとって一番嫌な「他の先生方の前で公開授業をする→その後の反省会で大変な目にあう」仕事が僕に回ってきました。
情けない話ですが、当時僕はワープロさえまともに扱えず、たとえば「改行マーク」は印刷すれば写ってしまうのか?とか罫線の引き方ひとつ知らなかったりだとか
とにかく「話にならない」有様でした。 同じ新採用教員で僕といっしょに赴任してきた、上越教育大学の女性の先生は、カタカタとブラインドタッチでワープロを扱い
慣れた手つきで次々と事務仕事をこなしていました。
新採用教員は当時、毎週2時間「初任者研修」という名の研修と「学校内での初任者研修」とがありました。
三条市で採用された1年目の先生が,毎週火曜日の午後に集まり研修を受ける→レポートを提出する という仕事があり、このときだけは周りが同じ新採用の先生ばかりだったので
安らげる時間でした。ただ研修で習ったことを上司に報告しなければならなかったので、そのレポートを書くのが大変でした。それもワープロを使って文章を書く、というだけの
仕事なのですが、当時の僕にとっては大仕事でした。研修が終わると学校へ戻ってきて職員室で2時間くらいかけてレポートを作っていました。
今思えば、なんてことのない、誰だって採用されたことは通る道だったのですが、苦しかったです。
4月15日までに、各クラスの担任が「児童名簿」をパソコンで作らなければならないことになり、パソコンを触ったこともない僕が、なかばパニックになりながら
児童名簿(名前・住所・電話番号・保護者名を書くだけの名簿)を作っていました。一週間くらい前から「俺に児童名簿が作れるのだろうか?」とずっと不安で夜もあまり
眠れないほどの緊張でした。
電話連絡網をワープロで作るとなったときには、大騒ぎでした。今だったらエクセルで1時間もあれば簡単に作れるのですが、当時は僕はエクセルという名の存在すら知りませんでした。
大学時代は普通だったら「卒論」があるので、そのときにワープロで文章を作っていくのですが、僕の場合は数学科だったため、卒論がありませんでした。
卒業発表会だけがあり、大学4年間ワープロを触ることはほとんどありませんでした。
働く前にしておかなければならないことを僕は全くしていなく、何の準備もなく職場に入ってしまいました。
当時はまだパソコンが普及する少し前で、どの先生方もまだワープロで文章を作成されていました。
僕の場合、教員を辞めた理由はほとんどが「ワープロができないから」という小さなことが大きな苦しみの元凶になっていました。
授業じたいは新採用なりに一生懸命に頑張っていました。子どもたちと触れ合うことは楽しく、自分で言うのもなんですが、子どもたちからは慕われていました。
当時僕は3年2組の担任でした。今でもクラスの子どもたちの名前と顔は一致します。27人のクラスでした。
とにかくワープロやパソコンを使わない仕事をしよう、と決め、僕は教員を辞めました。
教員を辞めた一番の理由は「パニック発作」でした。
7月になり、1学期の通知票を作る時期にさしかかり、僕は初めての大仕事に緊張しっぱなしの毎日を過ごしていました。
もしも通知票が間に合わなかったらどうしよう?と思い悩み、苦しんでいました。
本当に今思い返せば小さなことだったのですが、初めての通知票作成は新米の僕にとっては大仕事でした。
一番困ったのが、教科ごとの評定を決めることではなく、「生活態度」を評価することでした。
通知票の生活態度のらんは、児童1人につき20項目くらいもあり、たとえば「机の中をきれいにしていたか?」とか「毎朝おはようと挨拶が言えたか?」などなど。
そんなもん知らんわい!と思いながらも「どうしよう。俺は朝は毎日職員室にいたから評価できない。教室での様子をもっと見ておくべきだった」と後悔しました。
子どもたちにさせる予定の「テスト」もたくさんたまってしまい、結局テストをしないまま評価してしまった、という失敗もしました。
本当に失敗だらけ。まあ最初はそんなもんだろう、と思えればよかったのですが、僕は「なんてことをしてしまったのだろう。申し訳ない」と自分を責めました。
そんなことをしているうちに、7月に入り、ある朝6時ころに目が覚めると、心臓がものすごい勢いでバクバクしています。
えっ何これ?なんか心臓破裂しそうだ」と怖くなり、実家に電話しました。今思い返せば「パニック障害」という精神的な病気です。
不安なことや緊張状態が続くと、ある日突然心臓が激しく鼓動し、破裂しとうな錯角に陥る」という病気です。
ただ、当時はまだ「パニック障害」という言葉がなく、僕は病院へ連れていかれ、医師は「軽いうつ病です」と診断されました。
こうして僕は1学期が終わると同時に富山県へ帰省。
校長先生のはからいで「いったん夏休み1か月、富山でリフレッシュして、元気になってきてね」と言われました。
しかし富山へ帰っても僕のパニック発作は治ることなく、2学期から復帰するかどうか?というときにはさんざん苦しんで迷った挙句
休職することになりました。
あの頃はとにかく毎日、朝を迎えるのが怖くて泣いてばかりいました。
2学期が始まるとクラスの子どもたちと親御さんからの手紙、そしてクラス写真が実家に届きました。
とても申し訳なく、苦しい毎日を過ごしていました。
教員は1年目は「条件付き採用」という形で採用されます。
そのため場合によっては2年目を待つことなく「退職」になる新採用教員がいます。
僕の場合はもちろん条件付き採用だったので、校長先生がストップをかければ僕は不採用になってしまいます。
ただ、僕の場合は2学期も3学期になっても病状が治らず、それどころか悪化していきました。
友達と会うのも怖くなってしまい、何を話していいのかがわからず、自分から話すことができなくなってしまいました。
かなり重い「うつ状態」でした。
家族からも笑い声が消え、佐伯家は暗い家庭になってしまいました。
友達からは叱咤激励されたのですが、全く効果なし。パソコンスクールへも通いましたが、何をやっているのか?全然身が入らずすぐに辞めてしまう。
とにかく今までの人生の中で一番重く苦しい1年間を過ごしました。まさに厄年でした。
「このまま時間が過ぎていけば,俺はやがてホームレスになってしまう」と思い込み、あんなに明るかった僕は心の底から「暗い人」になってしまいました。
教員を辞めれば少しはすっきりして元気になるのでは?と家族も僕も思っていたのですが、教員を辞めて富山に帰ってきてもパニック発作は毎朝やってきて僕を苦しめました。
気休めに毎日職安へ行って仕事を探してくるのですが、教員しか目指していなかった僕にとっては、どの仕事も全くできないなと思っていました。
とにかくパソコンを使わない仕事を探そう、そう思って職安に行くのですが、どの仕事もパソコンを使う仕事だったり、紹介カードに「ワード・エクセル使える方」と
条件が書いてあったりで僕は職安へ行くたびに肩を落として帰ってきていました。
そうしていると、5月下旬。「家庭的な職場です」と書いてある紹介カードを見つけて「ここだ。ここに応募してみよう!」と決意し、面接に行きました。
その職場が、僕の今の原点になっている「小さな運送会社」だったのです。
2026年06月02日 15:30
