運送会社時代 / 1997年 25歳
小学校の教員を辞めて、富山に戻ってきてから、職安へ通う日々。5月下旬に「家庭的な職場です」という一言に心動かされ、僕は職安を通してその「小さな運送会社」で面接をしてもらうことになりました。
富山市中心部にあるその会社の面接のときに「将来的に大型のバスとかトラックとかに乗りたいって言わないかな?言わないんだったら採用するよ」
と社長に言われました。
「はい、言いません」」と答え、その結果採用されました。
1997年6月のことです。25歳でした。
当時、僕は富山市内の道でさえろくに知らない「ド素人でかつ方向オンチ」でした。
勤務時間は朝8時~夜18時まで。
最初の1カ月間は先輩社員の方が,僕に仕事のアドバイスや道案内の地図を書いてくれたりしました。
午前中は富山市内で荷物を預かってくる仕事(集荷:しゅうか)をしました。
そして午後からは大沢野方面へ2回、荷物を届けに行っていました。
大沢野方面には一度も行ったことがなかったため、最初のうちは先輩社員が書いてくれた地図と、住宅地図を持って運転していました。
勤務し始めて,最初の1カ月間は大沢野方面の荷物だけを運んでいました。少しずつ道にも慣れてきました。
そして1カ月が過ぎたころに、新たに「八尾・婦中方面の荷物」も運ぶことになりました。
住宅地図を持って初めて八尾や婦中方面へ行きました。
あまりにものエリアの広さに、かなり焦りましたが、「もし道わからんかったら無線で聞け」と言われていました。
この「無線で聞く」のが僕は当時大嫌いでした。理由は、「無線で発言すると、すべての車に無線が流れるため恥ずかしい」からです。
僕の会社での名前は「18号車」でした。そのため、会社から無線で呼ばれるとき、僕はいつも「18どうぞ」と言われていました。
仕事上、名前では呼ばれることがなく、日常会話のときも「18は~?」というかんじで名前ではなく「18」と呼ばれていました。
めやくちゃ違和感があったのですが、誰も「佐伯」とは呼んではくれませんでした。
「なんか刑務所におる囚人みたいやなぁ」と思っていました。
名前で呼ばれないことに少なからずショックを受けていました。
八尾・婦中方面の運転をするときに、大切なことというか目印として、八尾→婦中→旧富山市 へ続いている道は2本しかありませんでした。
その2本の道さえ覚えてしまえば、あとは細かい場所を覚えるだけで良かったので、配達エリアこそ広いのですが、富山市に比べると道は覚えやすかったです。
こうして僕は午前中は旧富山市,午後は大沢野・八尾・婦中エリアを担当して荷物を運んだり、荷物を預かりに行ったりしていました。
勤務し始めたころは、ことあるごとに「だからあんた先生って言われるがやぜ」「勉強だけできてもこの世界では通用せんよ」など言われていました。
僕の勤務先の従業員の人たちの学歴は○○工業高校中退、とか私立高校OBなど、勉強のできるような高校出身の方はいませんでした。
僕だけが異色の経歴で、集荷先の人たちからも「先生から運転手って変わっとるね!」と何回も言われました。
まぁ僕はそんなことを気にせず、ただ必死に働いていました。
休日は「道を覚えるチャンス」だったので、一人で八尾・婦中方面へ地図を持って運転しながら配達先を覚えていきました。
勤務中は余裕がなく、視野も狭いのですが、休日は心に余裕があるのでゆっくりと道を覚え直すことができました。
会社の人たちは最初こそ怖かったのですが、慣れてくると普通に話しかけてくれるようになり、8月に入るころにはそれまでの「18」という呼ばれ方から
「さえちゃん」と呼ばれるようになりました。うれしかったです。
教師を辞めたころは「この先どういう人生を俺は歩んでいくのだろう・・・」と毎日途方に暮れていましたが、この小さな運送会社で働き続けているうちに
少しずつ自分に自信が持てるようになってきました。
パニック発作もいつの間にか治っていました。
とにかくこの会社で働くことができたおかげで、僕は精神的にかなり強くなれました。
教員時代、あれだけ先輩の先生に質問するのが苦手だったのですが、運送会社では毎日何回も道に迷い、無線で聞きまくっていました。
「聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥」そのものの毎日でした。
先輩の方々も無線で道を尋ねると、丁寧に道を無線を通して教えてくれました。
昼休みに地図を書いてくれていたのですが、その地図が住宅地図よりも見やすく、丁寧な地図だったので、僕は毎回「うわ~詳しいな!すごい。」と驚き、感動していました。
休日こそ少なかったのですが(日曜日・祝日・あとは月に1回土曜日休み)という具合で連休はほとんどありませんでした。
ただ、「明日のことや未来のことを考え、思い詰めていた毎日」から解放されて、僕は毎日が楽しく感じることができるようになりました。
それまでの「優柔不断で人目を気にして、先輩に質問できなかった教員時代の性格」から
「プライドを捨て質問しまくる」という毎日を通して少しずつ自信を持ってタフに仕事ができるようになった性格に進歩できたことがすごく嬉しかったです。
友達とも普通に会話できるようになり、こうして僕は1年以上かけてようやく「復活しました。」
この運送会社に勤めて本当に良かった、と今でも思います。
職安で偶然見つけた会社。ラッキーでした。
先輩社員の方々には今でもとても感謝しています。
もしこの会社に勤務していなかったら、今ごろ僕はどうなっていただろう…
この会社で僕は1から根性をたたき直されました。
25歳の6月~12月上旬までの期間,僕はこの小さな運送会社で働かせてもらいました。
2026年06月03日 06:06
