高校3年生時代 / 合格を勝ち取るまで
高校3年生になりました。僕は、仲の良かった友達と2人で、毎週日曜日は富山市立図書館へ行って、朝9時半~夕方18時まで図書館で勉強していました。3年生になっても勉強時間は変化なく、平日2時間、土曜日は3~4時間。日曜日は図書館の学習室で勉強していましたが、午前中で息切れしてしまい、結局朝9時半~閉館する18時まで学習室にはいましたが、勉強時間は4時間くらいでした。
高校3年生になり、センター試験の赤本(当時は共通1次試験の赤本)を購入し、図書館で共通1次試験の国語・数学の過去問を解いていました。
国語は現代文のみ解いていました。古文・漢文は完全に捨てていたので、最後まで勉強はしませんでした。(漢文の句法を覚えたらよい、とわかっていたのですが、覚える気にはなりませんでした。根っからの「国語アレルギー」そして「生物アレルギー」でした。
とにかく数学・英語・日本史に絞って勉強していました。
数学は高校2年生の3学期から黒本(河合塾のセンター模試の過去問集)を解いていました。文系数学だけは、好きだったので、チャート式を中心に勉強していました。
7月に進研模試があり、当時は「マーク模試」と「記述模試」の両方の成績を合わせた「ドッキング判定」が出ていました。
僕は模試があるたびに、「新潟大学小学校B過程」を第1志望にしていました。
7月の進研模試のドッキング判定は「A判定」でした。というよりも成績表をよく見ると僕は「新潟大学教育学部小学校B課程」を第1志望にしている受験生約150人中の1位でした。
「おっ1位か。まあでもこれは模試の中での話だし、新潟の2次試験とは全然問題傾向も違うし、浪人生も入っていないから。」と軽く受け流していました。
現に、僕は中3のとき模試を受けて富山東高校の合格判定は、毎回B判定でした。でも落ちました。だから模試の成績・結果は信用していませんでした。参考程度。
「来年の3月には絶対に新潟大学に合格したい!」と思って毎日勉強していました。
決して浮かれることなく、「勝ってカブトの尾を閉めよ」の精神で日々淡々と勉強していました。
時は過ぎ…夏休みになりました。当時は今みたいに「オープンキャンパス」の制度はありませんでした。
僕は図書館へ一緒にい行っていた友達に「新潟大学下見に行きたいの~」と言いました。すると友達も「確かに。俺も気になるわ」ということになり、さらにもう一人友達を誘って、
8月20日に、朝一番の鈍行列車で新潟大学まで下見に行きました。
富山駅から新潟大学前駅までは、長時間の移動でした。
早朝5時半くらい富山駅発の電車で出発し、まずは直江津駅で乗り換え。次は柏崎駅で乗り換え。そして吉田駅で乗り換え。
そして越後線に乗り換え、ようやく新潟大学前駅に着いたのは昼ごろでした。新潟大学前駅から新潟大学までは、徒歩で10分くらいかかりました。
とにかく遠い!乗り換えの待ち時間は、ひどい時は40分待ちとか、とにかく不便でした。特急だとスムーズに新潟まで行けるのですが、鈍行だったため、待たされました。
そしていざ新潟大学に着いて、最初の一言が「うわ~広い!!」
それまで僕は富山大学しか見たことがありませんでした。そのため富山大学くらいの広さをイメージしていました。
新潟大学は徒歩でキャンパスを1周すると多分40分~50分くらいかかる広さでした。圧倒されました。
僕たちはとりあえず「腹減ったし、食堂でも行ってみるけ?」と言って、キャンパス内にある第1食堂に行きました。
そこで僕は「コーンカレー」を食べました。
「来年の今頃は新潟大学の学生として、ここでコーンカレーを食べるぞ」と胸に誓い、食堂を後にしました。
僕の行きたかった教育学部は新潟大学(五十嵐キャンパス)の中では一番大きな建物でした。
僕は新潟大学の正門の写真、教育学部の木製の看板の写真を撮りました。
友達と3人で「教育学部の校舎の一番上まで行ってみようぜ」ということになり、教育学部の校舎の中に入って行き、エレベーターで9階まで行きました。
9階の窓から外を見ると、すぐ海が見え、そして佐渡島が見えました。「おぉ、これが佐渡島か!」と感動し、写真を撮りました。
当時は携帯がなかったため、写ルンですで写真を撮りました。
とにかく初めてのあこがれの新潟大学。 圧倒されました。 当時は新潟大学は日本海側の国立大学の中で最も広い大学として聞いていました。(今は金沢大学の方が広いのかな?)
新潟から実家に帰って来て、僕はできあがった写真を机に飾り、その写真を毎日見て勉強していました。とにかく新潟大学に行きたい…
11月になりセンター試験が近づいてきたころ、模試で再びマーク式模試・記述式模試のドッキング判定で1位を取りました。このときは、少しうれしかったです。
新潟まであと一息。油断せず頑張って、今度こそ合格したい、と強く思っていました。
よく「高3になると浪人生が参加するため、偏差値が5下がる」と言いますが、僕は全く下がりませんでした。逆に英語の「全国偏差値」は65にまで上がっていました。
年末になり、いよいよセンター試験まであと数週間。だんだんプレッシャーを感じ始め、僕は毎日ピリピリしていました。
そのころはもう富山東高校がどうだとか、そんなことはもうどうでもよくなっていました。自分のベストをセンターで出したい、とだけ願い勉強していました。
年が明け、センター試験の日を迎えました。
僕は富山大学でセンター試験を受けました。
ところが数学Ⅰ・Aで僕は大コケしてしまい、この時点で「あぁ、富山大学はもう無理だ」と悟り、自己採点をして、あとはテレビのセンター速報を食い入るように見ていました。
センターリサーチが帰って来て、僕の新潟大学の判定は… B判定でした。初めてのB判定。あぁ、俺はつくづく本番に弱いんやなぁ、悲しかったのですが、2次試験に向けて数学を勉強するしかありません。
僕の英語の成績は安定していたのですが、数学は1年生~ずっと変わらず偏差値60。この成績では新潟の2次数学には歯が立たないかもしれない、と焦っていました。
センターが終わり、家族会議をしました。僕は両親に「俺は教師になりたいから、新潟大学の教育学部しか行きたくない。富大はセンターでコケたから無理。新潟だけを受けたい。
もしも不合格だったら、浪人させてほしい」と言いました。 でも僕の両親は「あんたには浪人は無理。私立受けて受かった所行かれ」と言いました。
僕は「私立は英語・国語・日本史やぜ。俺の国語の成績で受かるはずないやろ!そんなに私立は甘くないよ」と説得したのですが、それでも両親は僕の言い分は聞いてはくれませんでした。
結局、僕は私立大学を受けることになりました。全く私立大学の過去問は解いてないし、最初から受かるはずがない、と思っていたので対策も0。
2月3日に神奈川大学(経営学部)の地方試験を金沢で受験。
2月8日に神奈川大学(経営学部)の試験を神奈川大学で受験。
2月13日に東京経済大学(経済学部)を受験。
そして本命の新潟大学の試験が2月25日・26日。
新潟大学を受験する前に私立大学の結果が届きました。「すべて不合格」
2月25日、新潟大学の数学の試験。2月26日に新潟大学の英語の試験を受けました。
試験が終わり、「俺の受験は終わった…」ととりあえず安心しました。
新潟の2次の数学の出来は6割くらい。英語は7割くらいだったと思います。
3月3日に富山大学を受験(センターの結果、富山大学はD判定でした。数学Ⅰ・A,の失敗が最後まで響きました) もちろん不合格。
最後に3月8日に都留文科大学の地方試験を中央予備校で受けました(小論文でした)都留文科大学の結果は電報で届きました。
中を見ると「花散る都留文」とだけ書いてありました。
※結局僕は新潟大学だけに合格できました。念願が叶いました。
3年間の努力が報われたなぁとしみじみ思いました。
高校時代、勉強に息詰まった時、いつも部屋の電気を消して真っ暗にして、その暗闇の中で、浜田省吾さんの「遠くへ」という歌を聞いては「俺も合格したい」と奮起して勉強していました。
今振り返ってみて・・・僕は富山東高校に落ちましたが、富山第一高校に行ったことは間違いではなかった、と思います。
もしも東高校に合格していたら、「入試なんて3年の冬からでも間に合う」とカン違いしていたと思います。
サッカー部に入って、流されるような毎日を送ってしまい、聞いたこともないような大学に行っていたかもしれません。
大学入試はそんなに甘くはないよ、と思い続けていたのは正解でした。あとは一高の担任の先生と数学の先生、成績を競い合っていた友達に感謝です。
たとえ県立高校に行けなくても、本人の心構え・努力次第では3年後に納得のいく結果を出すことはできます。
もちろん高校生活すべてを勉強にささげていた、というわけではありません。友達ともよく遊びました。
放課後は仲間で「放課後サッカー」を毎日していました。
東に落ちた悔しさを3年間持ち続け、モチベーションにしていました。
練習はウソをつかない。勉強はウソをつかない、今はそう思います。
2026年08月16日 12:15
