富山県NO.1 サッカーplayer バケ
今日は僕の友達について少しお話させていただきます。
僕は小学校2年生~中学校3年生までサッカー部に所属していました。
まだ幼い小学3年生~僕が通っていた豊田小学校は、サッカーが強くてまあまあ富山県では有名な学校でした。
ただし、強いからには、もちろん理由がありました。
それは「とにかく練習時間が長い!!」 僕のサッカー部地獄は小学3年生の夏休みから始まりました。
当時は小学生だった僕は、サッカーよりも野球の方が好きでした。野球の方がサッカーよりも断然楽しくて野球部に入りたい!と何回も思っていました。
小学3年生の夏休み、僕たちサッカー部の練習は「朝練」と「午後練」の二部構成でした。
午前中は朝8時~12時まで練習。一度家に帰って昼寝をして午後は16時~20時まで4時間ぶっ続けで練習。最後にグラウンド20周。
とてもハードな練習でした。
たかだが小学3年生にして毎日8時間練習。
当時は「練習中に水を飲むのはいけない」と言われていました。そのため練習中はいっさい水は飲めず、休憩時間も0。全くありませんでした。
「早く夏休みが終わってほしい」と毎日思っていました。
まぁそれだけ練習していれば、当然強くもなりますよね?
小学4年生のときは「富山市育成リーグ」というリーグがあり、前期と後期に別れて合計12チーム(豊田小・大広田小・針原小・新庄小・草島小・倉垣小・月岡小・総曲輪小・星井町小浜黒崎小学校など)で総当たり2試合ずつ対戦して、上位3チームにはメダルがもらえる、というシステムでした。
小学6年生のときは夏休みに東京よみうりランドで「全国大会」が行われ、毎年富山県から1チームが出場できました。
小学4年生のとき、僕たち豊田小学校は最後に総曲輪小学校との激戦に勝ち、見事「富山育成リーグ」で優勝しました。
チームメイトも監督も「6年のときは全国大会へ行こう!」と僕以外の人は燃えていました。
僕は(今もそうなのですが)練習は嫌いではないのですが、とにかく「試合」が大嫌いでした。 理由は一言「監督が怖いから」
試合中やふだんの練習中など、ちょっとでも手を抜いたりだらしなくしていると、監督が「〇〇、ちょっと来い」と呼び出され、全員の前で○○君の腹を思いっきり蹴り上げる、そして「往復ビンタ」 殴る蹴るの暴力。
初めて小学校3年生のときに、6年生の先輩がその監督に呼び出され、グラウンドで腹を蹴られ、泣いているのにビンタ・蹴りの応酬… 僕たちは震えあがりながらその光景を見ていました。
冗談じゃない。こんなひどいめにあわされてまでサッカーなんかしたくない! みんなそう思っていました。でも親には言えず、仕方なく僕はサッカーを続けました。
僕らが小学5年生に上がるとその監督が僕たち5・6年生の担当(監督)になりました。
僕らはみなその「リンチ」が怖くて、怯えながらサッカーをしていました。僕は「ドッジボールが上手い」という理由で小学5年生からゴールキーパーになりました。
僕から志願してキーパーになったものの、冷静に考えると「キーパーって一番失敗したら目立つポジションだよな?」と気づきましたが時すでに遅し。
あまりにもの僕の反射神経の良さ・キャッチング技術・そしてキック力があったため、監督はほぼ強制的に「ゆうすけ、お前がキーパーや」と言われました。
そもそも僕は「優一郎」という名前です。しかし僕の両親は(今もなのですが)僕のことを「優すけ」と呼びます。その呼ばれ方が何よりも嫌いでした。
「俺の名前は優一郎なんやけど!!」と思っていたのですが、監督は僕のことを「ゆうすけ」と呼び続けていました。
僕はその呼ばれ方がこの世の中で「最も嫌いな呼ばれ方」でした。まあ今もそうなのですが、母親はなんのためらいもなく僕のことを「優すけ」と呼びます。
高校時代の友達に「ゆうすけ」という名前の友達と出会った時「これが本当のゆうすけや!」とうれしく思いました。
小学5年生になり、今度は先輩方との連合チームになりました。多少チーム力は弱くなりましたが、それでも「打倒大広田小学校」「打倒新庄小学校」を合言葉に僕たちは日々猛練習をしていました。
当時の大広田小学校の6年生の方には、やがて一高サッカー部のキャプテンになる方がいて、とにかく大広田小学校とは毎回激戦になりました。
大広田小学校の監督も「鬼監督」で怖い監督でした。新庄小学校も毎年強く、マンモス校だったため、やたらと「部員が多い」
僕が小学5年生のときのKNB杯(全国大会の予選)決勝戦は「新庄小学校」対「小杉FC」でした。
「あっあいつ試合出とる!」 当時小学5年生のH山君は新庄小学校のレギュラーとして試合に出ていました。
いいなあ、と思いました。
そして,小学5年生の秋に「新人戦(5年生大会)」が行われ、僕たち豊田小学校は準決勝は強豪「倉垣小学校」と対戦し、1-1の同点。コイン抽選の結果勝ちました。
そして決勝戦。相手は宿敵新庄小学校でした。
新庄小学校のキャプテンだったH山君は富山市内ではけっこう有名な選手でした(上手でした)
豊田小学校のキャプテンもかなりサッカーが上手で僕は当時「豊田のキャプテンが富山県内で1番サッカーがうまい」と思っていました。
新庄小学校との対戦は0-0のまま試合が進み、「延長戦かなぁ」と思っていた試合終了直前、新庄にゴールを決められ、僕たち豊田小学校は準優勝に終わりました。
このとき(5年生の秋)までは富山県で一番強い小学校は新庄小学校でした。豊田小学校は次。
ところが、5年生の11月ごろ、とても衝撃的な情報が豊田サッカー部に届きました。
監督が「来週、練習試合するから。相手は富山東部小学校」
「??」僕たちは初めて聞く小学校の名前に全員ポカンとしていました。
続けて監督は次のように言いました。
「富山東部小学校は最近サッカー部ができて、練習試合で新庄とやって6-0で勝ったらしいわ」
と言いました。僕たちは顔を見合わせ「えっ,新庄が6-0で負けた??まさか。ウソやろ?」
富山県チャンピオンの新庄小学校と試合して6-0?しかも最近できたサッカー部って…
このときの衝撃は今でも覚えています。
富山東部… 新庄に6-0。何かの間違いやろ と思いながら1週間後、豊田小学校で僕たちは「黒船ペリーのような富山東部小学校」と練習試合の日を迎えました。
僕たちは試合前円陣を組んで「とりあえず新庄のことは忘れよう。いつも通り豊田のサッカーをしよう」とキャプテンが言いました。
そして運命の試合開始のホイッスルが鳴りました。そしてわずか7秒後。僕たちは富山東部のT村君に強烈な左足のシュートをゴールネットに決められ、失点しました。
あまりにもの弾丸ライナーのシュートに、キーパーだった僕は一歩も動けませんでした。
「やっぱり新庄の話は本当だったんや…強い。」
それからは息をのむ大接戦になり、結果は2-2の引き分け。
当時の富山東部のメンバーはとにかく背が高く、異常な強さでした。
その中の一員に、やがて一高で同じクラスメートになり、一高サッカー部のキャプテンになったN川君。通称「バケ」がいました。
また通称「ヘルさん」も富山東部小のサッカー部のレギュラーでした。
当時僕は「ヘルさん」の存在を知らず、高校2年の時に本人から「俺も東部におったよ(笑)」と言っていました。
19組だったM崎君も,サッカー部ではありませんでしたが、富山東部小学校OBです。
さて、息をのむ大接戦を終え、僕たちはミーティングで監督から「これからは打倒富山東部や。東部を倒さんかぎり全国大会へは行けんぞ!」
僕たちは全員が「東部か… 勝てる自信ないよの~」と言っていました。
先日バケから話を聞いたのですが、富山東部小学校はもともとバスケ部があり、強かったのですが、バケのお父さんが新たにサッカー部を立ち上げ、そしてバスケ部メンバーがそのままサッカー部に流れて行った。
そしてできたチームだったとのこと。だから新人戦には出場していなかった(はず)
富山東部小学校は当時「富山市育成リーグ」には所属していませんでした。
そのため練習試合を含め、豊田小学校が富山東部小学校と対戦したのは翌年6年生の「KNB杯4回戦」でした。
全国大会出場を決める大切な試合。とうとう宿敵:富山東部小学校との対戦の日が来ました。
監督・選手・親御さん含め全員が「東部に勝てば全国大会に行ける!!」と燃えていました。
ヘルさん・バケ率いる富山東部小学校。
試合当日は小雨模様でした。
前半、富山東部小学校のコーナーキックのチャンスが訪れました。僕は身構え、「高いボールが来たら飛び出そう!」と決めていました。
そしてコーナーキック。蹴るのはバケでした。バケは雨が降っていたため、「とんつく(足の先っぽで蹴るキック)」でボールを蹴りました。
ふわふわとボールはゴール前に上がりました。これは取れない、と思い僕はシュートに備えて構えました。
するとそのボールに東部小学校のキャプテンのY田君が見事なまでのボレーキック(ボールをトラップしないで直接蹴るキック)でシュートしました。
ボールは無情にもゴールのサイドネットにつきささりました。僕はこのときも一歩も動けませんでした。完璧なシュートでした。
ああ~というため息が豊田ベンチから聞こえてきました。
1-0で前半を終え、試合は後半へ。
後半も一進一退の攻防が続き,豊田も粘りましたが、結果1-0で試合終了。
僕たちのよみうりランド(全国大会)への道はここで終了しました。
豊田イレブンは全員が泣いていましたが、僕は「やっとこれで猛練習・監督の暴力から逃れられる」のが嬉しくて泣いていました。
ホッとしたというか開放されたというか…
富山東部小学校は結局その後も勝ち進み、決勝戦で「西田地方小学校」に3-0で勝ち優勝。全国大会に出場しました。
当時の新庄小学校6年生のキーパーであった「Y下君」もとても上手で、当時は富山県NO.1キーパーと呼ばれていました。彼は一高3年生のときの正ゴールキーパーでした。
左利きの正確なキック。キャッチングもズバ抜けていました。
やがて僕は小学校を卒業し、中学校も無事卒業。そして富山第一高校へ進学しました。
僕は1年19組でした。そして驚いたことにバケが隣のクラスにいました!
「えっN川も特進か!」と僕は驚きました。
一番驚いたのは、高校1年生の6月。富山第一高校のインターハイ出場を賭けた決勝戦を見ていたときのことです。
なんとバケが1年生ながら、しかも6月にもかかわらず「一高の左サイドバック」として1年生の中でただ一人、レギュラーとして出場していました!
「マジで…N川ってこんなにサッカー上手いがや…」衝撃でした。と当時にバケのすごさをひしひしと感じました。
当時の一高サッカー部のキャプテンは僕と同じ岩瀬中学校の先輩でもあったU野さんがキャプテンをされていました。
そのU野さんでさえ、1年生の春は補欠でした。1年生の冬の大会のときに初めて1年生ながらレギュラーとして試合に出場されていました。
それなのにバケはまだ春なのにレギュラー。
僕は当時、誰から聞いたのかは忘れたのですが、「どうして〇川がバケと呼ばれているのか?」理由を聞きました。
「バケモンみたいにサッカー上手いからバケっていうんやぜ」と聞かされ、納得がいきました。
まあ僕の学年でサッカーをしている人ならば誰もが知っているであろうバケ。まあ当時からオーラはありました。
圧倒的な存在感。そして高校2年に上がった時、バケは19組になりました。僕も19組。
「ついにN川と同じクラスか…なんか夢みたいやな」と思っていました。
小学5年生から知っていたバケ。バケも僕のことは「豊田のキーパー」だったことを覚えてくれていました。
ところが、ここからが僕の「試練」と「葛藤」の日々が始まりました。
僕は2年生になった当時バケのことを「バケ」とは呼べず「N川」と呼んでいました。「バケ」と気やすく呼ぶのにとても抵抗があったからです。
「王者バケ」。僕ら豊田小学校サッカー部の誰もがそう思っていました。
僕はとにかく当時「1日でも早くバケと呼べるようになりたい」と思っていました。
休み時間に何回もN川に向かって「バケ」と言いかけるのですが、途中で尻込みしてしまい、なかなかバケとは呼べませんでした。恐れ多いというか…
そして運命の日はやって来ました。
それは「球技大会サッカーの試合」の中での出来事でした。
試合中に僕ら19組のスローインになったときのことです。
N川がスローインをしようとして、ボールを投げようとしていました。
そのときにとっさに僕は「バケ!」と大声で叫びスローインをバケから受け取りました。
僕は内心「やっとバケと呼べた…」と安心しました。
この日を境に僕はN川のことをためらいなく「バケ」と呼べるようになりました。
僕の長かった試練の日は、こうして報われました。
まあそれほどバケは存在が大きく、とても同じ学年のメンバーとは当時は思えませんでした。
はるか「遠い雲の上の存在」でした。
時は流れ、今でもバケと飲むことがあります。毎回サッカーの話で盛り上がります。
なんとバケは「今もサッカーをしています」
「明日朝7時から一高グランドで練習や」とよく言っています。
「まだサッカーしとるんか?!本当にサッカー好きなんやの!」
素晴らしいと毎回思っています。バケのチームは(シニアの部だったはず),全国大会にしょっちゅう行っています。強豪チームです。
昨日の一高クラス会のときに、ふと「バケとの出会い」を思い出していました。
PS:ちなみに小学6年生のときの「富山市育成リーグ」のときは豊田小学校が優勝。そして準優勝は「Sさん」率いる月岡小学校でした。
sさんとも、いまだに小学校時代のサッカー談義で盛り上がります。
Sさんは月岡小学校のキャプテンでした。Sさんもサッカーが上手で、一高時代僕たちは「放課後サッカー」を校舎の裏にあるハンドボールのコートで毎日のようにサッカーをしていました。
Sさんは僕よりもやっぱりサッカーが上手く、小学校時代は確か中盤だったはず。〇〇嵐君も月岡小学校のサッカー部でした。
サッカーつながりで楽しい話ができてうれしく思います。当時の監督は確かに怖かったのですが、言い換えればそのおかげで豊田は強かった、と今では感謝しています。
PS:監督とは20代のときに、一度だけ偶然,北陸銀行の豊田支店でばったり会ったのですが、やっぱり怖かったです(笑)
思わず「うわっ!」と言いそうになりました(笑)
昭和のころのサッカー部。豊田の監督以上に怖かったのが、「立山中央小学校のサッカー部の監督さん」でした。
R太郎君は当時、立山中央小学校のサッカー部で、一高では2年からレギュラーでした。R太郎君とは小学6年生のときに偶然KNB放送で「ビバクイズ」の収録現場で会い、それ以来
お互いの存在を知っていました。立山中央も強かったなぁ~。
