個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

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1988年3月24日、面接事件

「あなたは1年の中で何月が最も苦手ですか?」

僕は中学・高校時代,4月が一番苦手でした。

理由は「環境が変わるから」

中1から中2に上がった時、(僕は1年5組でした)、僕は2年1組になりました。

とりあえず新しいクラスメートを見ながら「1年5組だった人はおるかな?」と思ってクラスを見回してみましたが、男子の中で「もと1年5組」だった人は0人でした。

「うわ~。マジか。誰もおらん…」僕はいじけていました。

いわゆる「新しい新学年のスタートでもある4月」 毎日緊張しながら過ごしていました。

僕は極度に緊張すると当時、すぐに腹を壊していました。

とにかく新しいクラスに慣れるまで時間がかかりました。

中2→中3に上がった時はもと2年1組だった友達がいて、あとは1年生のときのクラスメートも数人いました。

そのおかげで3年生の4月は無事過ごすことができました。


時は流れ、高校へ進学。


僕は1年19組になりました。そのときも「元岩瀬中学校」」だった友達・知り合いは0人でした。

まあ仕方ない。僕の時代、岩瀬中学校から富山東高校を受験した人は18人ほどいました。その中で、僕以外、全員が東高校に合格しました。

なので、岩瀬者は19組には0人。僕だけ。

岩瀬から富山中部高校を受けて落ちたのは1人だけでした。その人は18組にいました。

「また1人からのスタートか…」 僕の「下痢」がまたもや始まってしまいました。とにかく4月は体調は悪かったです。

でも、4月にあった「宿泊学習」で石川のなんとか自然の家で合宿?があったとき、19組の男子とサッカーをしたり、部屋で雑談をしているうちに、少しずつ友達も増え、緊張感もとれてなんとか体調は治りました。


さて、話は少しさかのぼり、一高に入る前の3月24日。 僕は一高に呼び出され「特待生の試験・面接」を受ける事になりました。

この試験に通れば「特待生(奨学生)になることができる」という、大切な試験でした。科目は英語・数学・国語のテストでした。

英語の長文問題を解いていたときに、「believe(信じる)」という単語が出てきました。

僕はこの「believe」の意味がわからなくて、悩んでしまいました。

当時ちょうど浅香唯の「Believe  again」という曲が流行っていました。でも意味はわかりませんでした。


とりあえずテストを終え、次は面接でした。面接官は古典の有沢先生でした。

面接で何を聞かれたのか?もう忘れてしまいましたが、1つだけ驚いたことがありました。


面接を待っていると、その面接室から泣きながら出てきた女子がいました。「??」なんで泣いとるが?そんなに厳しい面接なん?

ちょっと焦りました。これは高校2年生の11月に知ったのですが、泣いていたのは,あ~ちゃんでした。

僕は2年生のときにあ~ちゃんと同じクラスになり、11月23日(祝日)に数学を彼女に教えていたときに「そういえば、特待の試験受けたとき、面接で泣いとる人おったなあ」とあ~ちゃんに言うと,あ~ちゃんは、少し照れながら「あ~それね、私なん」とのこと。

あ~ちゃんによると、面接のときに「どうして中部高校を受験したのですか?」と訊かれ、「はい。私の兄が中部高校だったので、兄に追いつきたくて中部を受験しました。」

と言っているうちに、いつの間にか泣いていた、と言っていました。「そうなんや。それは残念だったね」

あ~ちゃんのお兄ちゃんは、中部高校出身で京都大学を受験。しかし残念ながら不合格でした。そして滑り止めの慶応義塾大学商学部に進学することになりました。

当時は慶応大学商学部の試験科目は「英語・数学・社会」の3教科で文系でも理系でもない試験科目の構成になっていました。

すごいな、慶応か…。


3月24日の特待試験が終わり、結果は全員合格→全員特待生 になりました。よかったよかった。

今はどうなのかわかりませんが、僕たちの時代は、1年の4月に特待生が校長室に全員呼び出され、校長先生から直接、お金の入った封筒を受け取りました。

校長先生は何やら激励の言葉を言っておられました。一高の試験料、あとは入学金も全て返ってきました。 母は喜んでいました。

担任だったM島先生が「いいか、もしも成績が下がったら、2年に上がる時に特待生の資格はなくなるぞ。だからお前ら、勉強しろ」と言われました。

そうなんや、それは勉強せんならんな、と思いました。

3月24日の特待試験のときに、3教科の試験が終わった後、教室で試験監督をしていた先生が、僕たちに

「もうあなたたちとは会えないかもしれないので、一言言わせてもらいますね。

あなた方は残念ながら県立高校受験に失敗しました。今のあなた方はとても落ち込んでいると思います。それなのに今日は一高へ来ていただき、ありがとうございます」

と言ってくれました。少し救われた気持ちになりました。

結局振り返れば、僕は何とか3年間特待生で過ごすことができました。ホッとしていました。


あ~ちゃんのお兄ちゃんは、今はクリニックを開業されています。 もしかしたら、再受験で医学部を受験されたのかもしれません。本人に確認していないので詳細はわかりませんが…


先日の一高クラス会に出席していたE川君もドクターで今はクリニックを開業されているとのこと。すごいですね。

浪人時代の話をクラス会の時に彼に話を聞いたら、E川君の通っていた両国予備校はとにかく厳しい管理体制の予備校だったとのこと。

当時は両国予備校は別名「牢獄(ろうごく)予備校」と言われていた、と聞き、ウケました(笑)

ひたすら勉強させられた、と言っていました。

E川君は高校時代は医者ではなく、他の仕事に就きたかったそうなのですが、親御さんが「医者になられ」と言っていて、そのため猛勉強したとのこと。

猛勉強して医学部に入れるのだから、すごいなと思いました。


僕は東高校の受験に失敗したあとの春休み、3日間だけ、友達の父親が勤めていた塗装会社のアルバイトをしました。

人生初のアルバイト。朝8時~夕方5時まで働いて、3日間で13,500円ほどのアルバイト料をいただきました。

とにかくこの春休みは精神的に不安定でした。とにかく今の状態が辛い…

そう思っているときに、のりぴー(酒井法子)の「GUANBARE」という曲に出会い、何回も聴いているうちにのりぴーのファンになっていきました。

こうして僕の「のりぴー時代」は一高へ入学するころからスタートしました。

一高へ入学して、偶然隣の席に座っていた辻ものりぴーファンでした。僕と辻は毎日のようにのりピーの話をしていました。

当時、北日本放送のラジオ番組で平日0:15~0:30まで「のりぴー気ままにセンセーション」という番組が放送されていました。

毎日学校で辻と「昨日ののりぴー聴いた?良かったよの~」と言っていました。

何かにすがりつきたいほど不安定だった僕は、のりぴーの存在に救われ、いつの間にか熱狂的なのりぴーファンになっていました。 つづく
2026年09月24日 07:04