1997年 秋 25歳 / 配送運転手時代
25歳の春、僕は毎日のように職安へ通い、この先どうするか? 迷いながら、とりあえず「世の中にはどんな仕事があるのか?」ひと通り調べていました。当時の僕は、「ワープロさえできない」有様で、パソコンも普及し始めてきている時期でした。
職安では、どの仕事も「ワープロができる方募集」と書いてありました。職安へ行っては落ち込む、という日々が続いていました。
そんなある日「とても家庭的な職場です」と書いてある職安の仕事案内カードを見て僕は「これしかない!」と思い、よく見るとそこには「配送運転手募集」と書いてありました。
僕は当時、富山市の地理(道)すらほとんど知らなかったのですが、「運転手ならとりあえずワープロとは無縁だな」と思い、思い切ってその運送会社に応募しました。
富山市内にある、とても小さな「家族経営」の会社でした。従業員は確か9人だったと思います。
こうして25歳の6月初旬、僕は「軽トラックの運転手」として新しい仕事にチャレンジすることになりました。
午前中は富山市内の集荷(お客さんの所に荷物を取りに行く仕事)をして、午後からは大沢野と富山市を2往復する、その間に荷物を配達したり荷物を取りに行ったりする
という仕事をしていました。
当時は「スーパー農道」さえ知らず、また「国道41号線」さえも知らず、本当にひどい有様でした。
最初の1か月間は、毎回会社の人が丁寧に大沢野の地図を書いて下さり、道を教えてくれました。
道を知らなかった僕は、ただただ必死に道を覚えながら毎日朝8時~18時まで、昼休憩は10分くらいしかなく、ひたすら運転するか地図を見る、という毎日を過ごしていました。
当時はカーナビはまだそんなになく、また運転手の場合、普通、道を全部頭の中にインプットしているので、地図を見ながら運転していたのは僕だけでした。
僕は「18号車」に乗っていたため、最初の2か月間は会社の人から「18」と呼ばれていました。
「なんか囚人みたいやなぁ」と思いながら毎日仕事をしていました。慣れるまでは本当に地獄でした。
とにかく一番困るのが、送り状を束のようにかかえ、目的地に向かっている途中で無線が入り「18○○へ行って」と言われ、そのたびに僕は焦って方向転換したり、
急バックしたりしてしまい、かなり危ない運転をしていました。
8月に入るころにようやく大沢野の配達先をほぼ全て覚え、道も完璧に覚えました。
「大沢野はもう大丈夫だな」と判断され、次は大沢野に加えて「八尾・婦中エリア」を新たに担当することになりました。
大沢野と八尾は神通川沿いに道がつながっていて、エリアはかなり広かったのですが道は少なかったので、富山市内を運転するよりは、道も覚えやすいし、
運転もしやすく、3週間くらいで八尾・婦中セットで覚えることができました。
教員時代は「とても真面目で誠実な大人の世界」で仕事をしていたのですが、今度は一転、「ちょっと気性の激しい元ヤンの世界」での仕事になりました。
最初のころは、道に迷ったり、会社に帰って来るのが遅れると、そのたびに「だからあんた先生って呼ばれるがやぜ!」としかられてばかりいました。
やがて8月になるころには「18」→「さえちゃん」に昇格(笑) 僕は番号からニックネームで呼ばれるようになりました。
確かに見た目はやや怖い方が多かったのですが、慣れるととても「男気のある優しい方」ばかりでした。20代~30代の方々が大多数でした。
僕は当時日産の「サニー」という乗用車に乗っていました。
あのころに「ステーションワゴンブーム」が起こり、僕は毎日運転しながら、「レガシ―」を見ては「カッコいいな」とあこがれていました。
とにかく仕事中、運転しながらすれ違うステーションワゴンを全て見ていて、車種を一瞬で言えるほど、ステーションワゴンの魅力にとりつかれていました。
そして僕は「カローラツーリングワゴン」か「カルタスクレセントワゴン」にするか悩んだ挙句、スズキの「カルタスクレセントワゴン」というステーションワゴンを買いました。
とてもうれしかったですね。今まで乗ってきた車の中で一番好きな車でした。
今はあまり車にはもう興味関心はありませんが、運転手をしていたころは、毎週のように仕事帰りに「オートバックス」に立ち寄っていました。
車というかオートバックスが好きだったんでしょうね…
僕のいた運送会社はとにかく午前中が忙しく、無線が鳴りっぱなしでした。
運転していていきなり「18どうぞ」と言われるので、僕はそのたびに緊張しながら「はい」と答えていました。
すべての車に無線がつながっていたので、とても恥ずかしく、今でたとえると「グループライン」のような感覚です。
すべてのグループの人に自分のコメントが載ってしまう、という感覚です。
とにかく嫌でした。「18どうぞ」と言われるたびにドキドキしていました。
午後からは各運転手それぞれ別々のエリアに運転手が散っていくので、無線からはほぼ解放されていました。
そのため、夕方ごろからは運転中にKNBラジオ「相本商店」を聞きながら運転する心の余裕ができていました。
…… 右も左もわからない、25歳の若造を拾ってくださった運送会社の社長には、とても感謝しています。
「小さな運送会社」から学んだ最大の良かったことは「自分に自信を持って働いても良い」ということでした。
とにかくどの方も堂々と仕事をされていて、最初は面食らいました。
一度だけ、荷物を届けるのが大幅に遅れてしまい、その会社の社長さんみたいな方が「おい、社長呼んでくれ」と言われ、僕が恐る恐る会社に無線で「すみません、社長呼べって怒っているんですけど…」と言うと、
「あ~言わせておいて。そんなんいちいち相手にしとるほど暇じゃないから」とバッサリ。
全く遠慮したり、悩んだりせず、どの方も前向きにひたむきに仕事をされていました。初めて「あぁ、自分に自信を持って仕事しても大丈夫なのだなぁ」と思いました。
とにかく「小さな運送会社」の方々には、甘い僕の根性をとことん鍛えられました。
「人に聞く」、ということがとにかく多く、恥ずかしかったのですが、そんな悠長な事を言っていては、僕が集荷してきた荷物を、それぞれの目的地へ運ぶために待っている他の運転手の方々に迷惑がかかります。
毎日恥ずかしい思いをしながら働いていたことで、変なプライドを捨て、わかる人に聞く、ということを教えられた職場でした。
PS:当時1度だけ、会社のメンバーでカラオケに行きました。そのときに1個下の男の子がスピッツの「チェリー」を熱唱していました。
その日以来、僕はチェリーをよく聴くようになり、いまだに2週間に1回は必ずYoutubeでチェリーを視聴しています。
サビの部分になるとボーカルの草野正宗さんがギターを弾き始めるところが最高にカッコよく、毎回のように感動しています。
でももう「めちゃくちゃ時間に追われて危険を伴う」配送運転手の仕事をすることはないと思います。
2026年10月01日 07:42
