平成8年8月8日、24歳夏:妙高高原自然の家で僕が感じたことは…
僕は二度目の新潟県小学校教員採用試験で合格し、23歳の4月に、新潟県三条市というと所にある、中規模の小学校に採用されました。 3年2組の担任として赴任しました。平成8年4月1日に赴任し、「やっと教員になれた。頑張るぞ!」と胸を躍らせて教員として働き始めました。
ところが、勤務初日に僕はパニックになってしまいました。「職員室でどの先生も教科書を開いていない…」
さんざん大学時代に経験した「教育実習」で「佐伯さん、教員の一番の仕事は授業準備だよ。教材研究だよ」と現場の先生方から教え込まれていた僕は、職員室での「教科書のない光景
に圧倒されてしまいました。
どの先生方も「学校単位の仕事」をされているのです。4月1日は「職員会議」から始まり、春休み最中でしたが、「新年度の初日」ということもあり、事務仕事のオンパレード。
僕は大学時代、数学科だったので「算数部会」という部会に所属することになり、その「算数部会」での仕事(何月にどういう単元を勉強してどういう風なことを指導するのか?などについて話あったりする)、公務分掌という、学校単位での仕事。そして4月のため提出書類の多さにびっくりしてしまいました。
当時の僕はパソコンを持っていなく、どの先生方も「ワープロ」で文章を作成されていました。
大学時代に数学科だったため、「卒論」がなく「ゼミ単位での卒論発表会」があっただけで、僕はワープロというものをほとんど使ったことがありませんでした。
教育実習に行った時も、指導案を書くのに(今では当たり前のようにパソコンを使って指導案を作成しますが)当時は手書きで指導案(どんなふうに子どもどもたちに質問して、そのさまざまな子どもたちの反応(発言)に対する教師側の発言・問いかけ・評価の観点などを細かに書いていく書類のことです)を作成していました。
そういう「大変な苦労をした経験」があったので、僕はてっきり職員室での教員の仕事は「毎日の授業の指導案作成」がメインの仕事になるのだろうな、と思っていました。
でも実際は授業の準備などする時間は職員室では0でした。この「現実」に僕はイラっときました。
初日の勤務を終えて、当時付き合っていた彼女(上越で小学校の教員をしていました。彼女は1回目の教員試験で合格していたので、教員2年目に突入していました)その彼女に僕は
電話で「教師ってなんなん?なんで職員室で誰も教科書を開いてないが??ひたすら会議したりワープロで書類作ったり事務仕事ばっかりだし…がっかりしたわ!」と八つ当たりしました。彼女も僕の言い方が気に食わなかったのか、10分ほど話したところで途中で電話を切りました。
パソコンどころか、ワープロさえ満足に使えない僕は「この改行マークって印刷したら写ってしまうのかなぁ」とか「上書き保存て何?」という有様だったため、教科書を開くどころか、ワープロのことで頭がいっぱいになり、軽いパニックが毎日のように続きました。
毎日朝7時半に職員室について、帰るのは(僕の学年の先生だけなぜか)22時~23時くらい。 今で言うと「ブラック企業」状態でした。他の学年の先生方は18時~19時の間には
帰宅される中、僕の学年(3年生)の先生だけは22時すぎに帰宅の途についていました。
それから家に帰ってから「明日の授業の準備」 こんなことを毎日していたら、そりゃ精神的にもおかしくなってしまいます。
僕は「事務仕事」がほとんど間に合わず、大学時代にワープロを使っておかば良かった…と毎日後悔していました。
そして6月。初めての初任者研修の「研究授業」が僕の番に回ってきました。たった45 分の算数の「円」の導入授業をするために、3週間くらいもかけて「指導案」を書き続けました。
過去の先生方の「円」の導入の授業の指導案を観たり、教師用の指導書を読んだりして指導案を作っていきました。
授業中は自分のクラス【3年2組】の子どもたちと楽しく授業していて楽しかったのですが(もちろん失敗もたくさんしました。その都度反省をしていました)職員室に帰ると「またワープロとの格闘か…」とブルーな気分になっていました。
7月に入り「通知票」をつける期間にさしかかると、僕のパニック度は極限に達しました。通知票の項目の多さに圧倒され、例えば「机の中がいつも整頓されている」という項目や
「いつも大きな声であいさつができる」などなど。僕がふだん目にしていないことが通知票の項目にはたくさん書いてありました。
「うわ~こんなんもん、わかるかよ!」と思いながら放課後の教室で一人ひとりの机の中を確認したりしていました。
「あいさつができているか?」これは僕が朝職員室にいるため、把握できていません。当時僕のクラスには27人の児童がいたのですが、1人につき25項目くらいもの「評価らん」が設けられています。「わかりっこない…」正直、勘で書いた通知票も項目によってはありました。
こんな目まぐるしい毎日が続く中、僕の体にある日、異変が起きました。「通知票が間に合わなかったらどうしよう…」と焦りに焦って、夜も安心して眠れない日々が続き、
ある朝6時くらいに目覚めると、心臓がバクバクなっています。「あっ、心臓破裂する!」と思いながら安静にしていると、10分くらいたつと治まります。
ところがこの症状が7月に入ってから毎日のように続き、朝6時になると心臓がバクバク激しく揺れます。当時はまだわからなかったのですが、今でいう「パニック発作」を起こしていました。急いで初任者研修の担当の先生に報告しました。
その先生も「パニック発作」のことを知らなかったので、「そのうち治るて!」と言われましたが、2週間たっても3週間たってもパニック発作が収まらず、ついに「心療内科」の先生に診てもらうことになりました。
長岡にある病院にまで行き、先生に話すと「軽いうつ病ですね」と言われました。
富山に住んでいる両親や友達にも電話で相談していました。両親はびっくりして、三条の僕のアパートまで来てくれました。
「もう教師辞めたい…」と両親にこぼしました。 「あんなになりたかった教師をまだ3か月しか働いてないのに辞めるのか?その程度の思い入れだったんか?」と父に言われました。
でもパニック発作は治らず、校長先生と相談しあった結果、「とりあえず、夏休みは学校に来なくていいから、富山で静養してきなさい。そして夏休みの終わりに今後佐伯さんがどうするか?教えて」と校長先生に言われました。
夏休みが入ると同時に僕は三条を後にし、富山に帰ってきました。中学時代の友達に会い「ワープロできんでパニックになってしまった」と言うと友達は「ワープロできんゆうて
教師辞めたい?話ならんぞ」ときつく言われました。そして友達は2時間くらいかけてワープロの使い方や機能について僕に教えてくれました。
今でこそワープロはもう使われることなく、パソコン主流になり、こんな僕でもワードで文章を作ったりエクセルでちょっとした資料を作ったり、メールでのやり取りもできるようになりましたが、当時は何もわからなく「ワープロ恐怖症」でした。
そんな中、夏休みは過ぎていき、8月8日を迎えました。
この8月8日は「妙高高原自然の家」にて、新潟県の新採用教員が集まって合宿スタイルの「2泊3日の初任者研修」が行われた日でした。
妙高高原自然の家で、久しぶりに大学の同級生に会って、悩みを聞いてもらいました。友達は「えっワープロが原因で教師辞めるの?もったいないよ~。せっかく教員になれたんに」
「彼女かわいそうだね。彼女も苦しんでない?」など、いろんなアドバイスを受けました。でも僕の心は「教員をやっていく自信がない…」の一点張りでした。
8月8日の夜になり、初任者教員をいくつかのグループに分け、各グループごとに「出し物」を企画して披露する、ということになりました。
この初任者研修は、うつ病気味だった僕には「ほかの先生もみんな1年目で苦労しとる。最初からうまくいくはずがない」と思えて、救われた研修でした。
自然の家で同じ部屋になった人たちとも楽しく会話したり学校の愚痴を言ったりして、少し生き返りました。
8月8各の夜になり、野外で各グループの出し物を見て、そのあと、缶ビール片手にキャンドルファイヤーの炎を観ながら僕は、ぼう然と立ち尽くし「この中で辞めるかもしれん人は俺くらいだろうなぁ」とむなしく感じていました。
意気消沈して自然の家の部屋に帰る途中、一人の男先生が公衆電話から、教え子に電話していました。
「今日誕生日だよね?おめでとう!」と笑顔で子どもに電話している先生を見て「いいなぁ。俺も本当は子ども思いなんだけど、こんな状態じゃ電話もできないなぁと泣きそうになりました。
この時のこの場面が心にずっと残っていて、僕は寺子屋で塾生の誕生日には塾生に「誕生日おめでとう!」と言って気持ちばかりの図書カードをプレゼントしています(今年度からのことです)
結局僕は妙高高原自然の家での初任者研修を最後に、教員の仕事を辞めてしまいました(ワープロで書類を作ったり報告書を書いたりすることができないまま教員を辞めました)
平成8年8月8日、この日の出来事は死ぬまで忘れることはできないと思います。
あれから27年… 今日は僕は大門で中学生に授業をします。当時は「二度と教える仕事はできないだろうなぁ」と思っていましたが、今、教える仕事をしています。
こんな無名の塾に来てくれている生徒さん・親御さんには本当に感謝しています。ありがとうございます。
あの悪夢のような8月8日。先のことなんて全く考えることができないくらいに壁にぶちあたっていたころ。
今の環境に感謝しながら、今日は特別な思いで1日を過ごします。
2023年08月08日 10:06