個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

わからない所が1つずつわかるようになる、達成感ある授業を心がけています。

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2023年8月の記事:ブログ

2004年3月 31歳 福光での「佐伯ゼミナール」【後編】

夏休みが終わり、毎週土日は「さえゼミ合宿」の日になりました。
朝9時~夜9時まで、中3生を対象に合宿をしていました。

 当時,3年生の合宿は参加希望制で、「参加したい日にちのみ合宿に参加する」というシステムをとっていました。毎回中3生5人~6人が合宿に参加してくれました。
 
 授業の一番最初に生徒さん1人ずつ「今日の予定」を僕といっしょに立て、その「予定」に従って勉強していました。午前中は僕がホワイトボードを使って、英語・数学の授業をしていました。
 
  昼近くになると焼きそばを作る準備に入り、生徒さんが焼きそばを作ってくれました。

塾の外へ出て,青空を眺めながら焼きそばを食べている男子もいました。
 
午後からは1人ひとり「今日の予定」に沿って勉強していました。英語・数学・理科・社会を勉強していました。
 
 午後は、最初の1~2時間は基本的なことを習い、そのあとは「入試問題プリント」をひたすら解いていきました。入試対策として「塾教材+入試プリント+英単語カード」を使って学習していきました。
 
 
 この「合宿」は本当に楽しかったです。長時間勉強できることで、もちろん生徒さんの学力はメキメキとついていき、僕も「教えたいこと」を納得いくまで教えることができたので、多少疲れましたが充実していました。
 
 
 こうして2学期が過ぎ、3学期に入り、そして「高校入試本番」を迎えました。

「あれだけ勉強したから大丈夫。自信もって受けてこられ!」と僕が励まして送り出しました。
 
結果、中3生は高岡工芸高校、高岡商業高校,福野高校、福光高校(2人),大門高校にそれぞれ全員が合格しました。
 
1年間頑張ってきてよかったなぁ、と思いました。と同時に「これがこのテナントでの最後の授業だなぁ」とも思っていました。
 
 
170万円の借金・・・これ以上128,000円のテナントで塾をすることはできません。

僕は富山市と両親からお金を借り入れ、「4月からは授業をベルに戻して、あとは家庭教師をしよう」と決めました。
 
父からは「あんたが教えるが好きで、確かに実績も出しとる。それは認めるちゃ。でも、経営者としてはダメだね。1年間も100円ゼミ?そんなんお父さんでちゃ考えれんわ。
ボランティアやろ。仕事するっちゃそういうことじゃないよ。」と諭されました。
 
 僕はベルでの授業を週に1回(日曜日)だけにして、あとの平日・土曜日は実家に帰り富山市で家庭教師をすることに決めました。家庭教師協会にはさすがにもう戻れないので、大手学習塾の家庭教師を申し込みました。
 
大手塾に拾ってもらい、僕は富山市の実家に戻り、富山市の家庭教師と日曜日の「福光ベルでの佐伯ゼミナール」の2本の仕事をしてくことになりました。2004年4月,31歳のことです。
2023年08月29日 09:01

2003年4月 30歳 福光での「佐伯ゼミナール」【前編】

 2003年4月,僕は福光町にアパートを借り、ショッピングセンターベル2階にある「サークルルーム」で小学生~高校生対象の個別指導の個人塾を始めることになりました。

 昨年11月からの無料体験授業の生徒さんを含め,新たに塾生募集のチラシを福野・福光・城端エリアに入れてもらい塾を始めました。

 今回は「先生1人に対し生徒さん3名までの個別指導スタイル」の塾にしました。初めての1対3指導の授業スタイルに僕は困惑しながらも精一杯頑張っていました。
 
 僕の記憶によると、4月の休日は4月5日(土)だけというハードなスタートでした(4月5日は僕の中学時代の友達の結婚式のため塾を休ませてもらいました)

 ゴールデンウイークは3日ほど休みをいただき、氷見の小境海岸まで1人でドライブに行きました。

ベルでの授業は,伏木の時とは異なり、貸家ではなく、広い部屋での授業でした。ただ、22時にはサークルルームが閉まってしまうので、22時までしか授業ができませんでした。

 特に高校生は遅い時間帯での授業だったので、「もうちょっと遅くまで授業できたらいいなぁ」と思っていました。

「もしテナントが福光にあれば、家賃によってはテナントもありだなぁ」と思いながら過ごしていると、棟方志功記念館の近くに「テナント募集」の看板を見つけました。
 
 まだテナントができていなくて不動産の方に問い合わせると「今、テナントを作ろうか考えているところです」と言われました。僕は「ちなみに、そのテナントに住み込みで学習塾をすることってできますか?」と尋ねると「できますよ」とのこと。家賃を聞くと「128,000円です」と言われました。
 
 僕は迷いました。 「今住んでいる福光のアパートの家賃とベルの家賃を合わせると…」計算すると,今よりも30,000円くらい余計に払えば、新しいテナントに住み込みで塾をすることができる、といことがわかりました。

1週間考えた末、僕は「住み込みで塾をしたいのでお願いします」と不動産屋の方にお願いしました。

 こうして新しい「テナント」の工事が始まり、1カ月半ほどかけて工事も終わり、6月中旬から「新しいテナント」に住み込みで塾をすることになりました。
 
塾の名前は「佐伯ゼミナール」という名前です。業者の方にテナントに「シール看板」を作ってもらい,新しいテナントに「佐伯ゼミナール 生徒募集中!」というシールを貼ってもらい、ベルから場所を変えて「佐伯ゼミナール」での塾が始まりました。
 
 1学期はほとんど何をしていたのか覚えていません。ひたすら「授業」をしていたと思います。

1度、中学時代の友達2人が富山市から福光の僕のテナントまで遊びに来てくれました。 「佐伯、遠い所で頑張っとるの!今度は伏木からさらに遠くなったの。頑張れよ!」と応援してもらいました。うれしかったです。

 
テナントに住み込みでの生活は快適でした。好きなだけ授業準備ができて、移動時間はゼロ。これは大きかったです。弱点は「テナントに風呂がなかったこと」です。

そのため僕は福光のあらゆる「銭湯」のお世話になっていました。

ある日,生徒さんのお母さんが「先生、町民プール行かれよ~。プールだけじゃなくて風呂・サウナもついとるよ。年間券買えば、銭湯行くよりかなり安いよ!」と教えてくれました。

僕は「そうかなぁ」と思って一度町民プールへ行ってみると、確かに泳ぐことができて良い運動になり、風呂にも入れる。これはいい!ということになり、年間券(1年券)を買いました。

 当時の僕の生活は、朝5時半に起きて福光の田んぼ道を90分かけてウオーキング(約7.5km),午前中は授業準備。昼になり「バロー」へ買い物に行って昼食を作り食べる。

 午後2時から再び90分ウオーキング。それから町民プールへ。 夕方になると夕食の準備。そして17時~22時まで授業(18時30分~19時の間に夕食)。

授業が終わると3たび「90分ウオーキング」という毎日でした。

 今振り返るとめちゃくちゃ「ストイック」な生活ですね! 自分でもびっくりします。


このころギターの弾き語りの動画を一人でよく撮影していました。(寺子屋学習館のYou-tubeに僕がギターを弾き語りしている動画がアップされていますが、あの映像は当時僕が福光で撮影していたものです。)
 
 1学期が終わり、夏休みへ。この夏休みに「さえゼミ合宿」が始まります。中学3年生と高校3年生を対象にした「午前9時~午後9時!」までの昼食・夕食つき1回4,500円合宿」が始まりました。
 
 この合宿は生徒さん・親御さんからともに「大好評」でした。昼食は生徒さんと僕で「焼きそば」をホットプレートで作り食べる。夕食は前日に僕が作っておいた「カレーライス」食べ放題。

「お菓子・ジュースつき」という、いたれり尽くせりの合宿でした。12時間という長時間を3年生は嫌とも言わず「楽しそう」に勉強していました。

もちろん「休憩」も何回もはさみました。いくら受験生といえど「昼寝したくなったり休憩したくなったり」はします。

もちろん、僕も「疲れます」特に午後は「漫画タイム」を作って塾生は漫画を読んだりして、思い思いの休憩時間を満喫しながら勉強していました。

 1・2年生は合宿がなかった代わりに「90分授業を月に4回分でなんと400円」という、とんでもない授業料で夏から3月まで授業をしてしまいました。
 
 
 こうして,「格安さえゼミ合宿」「100円ゼミ」という2つの「採算度外視」授業を半年間継続した結果,僕は170万円もの借金を作ってしまいます。

家計簿とにらめっこの毎日が続きました…
2023年08月26日 15:31

2002年4月、富山県に帰ってきて再び・・・

上越を後にし、またしても富山県に帰ってきました。

僕は再び、富山県家庭教師協会高岡事務局へ出向きました。 「彼女と別れてしまい、富山に帰ってきました」と言うと担当の上司は「そうですか…こちらとしてはうれしいのですが、佐伯先生にとってはつらい選択でしたね」と励ましてくれました。

 こうして再び家庭教師をすることになりました。 4月のある日、僕はラーメン屋さんで、偶然読売新聞の記事を発見しました。射水市の中学校で「少人数指導支援講師」を募集していたのです。

 教科は数学と理科。いずれかの教員免許を持っていれば勤務できます、と書いてありました。 僕は数学の教員免許を持っていたので、ラーメンを食べた後問合せ先に電話しました。

週に18時時間、僕は射水市内の中学校で「1年生の理科と数学の少人数指導支援の非常勤講師」をすることに決まりました。主にに午前中がメインの仕事だったので、家庭教師と兼業できる形になります。

僕は「よし、頑張ってみよう」と決心し、非常勤講師と家庭教師の仕事をし始めました。


中学校で働くのは初めてだったので、とても新鮮でした。一番勉強になったのは、現場の先生方の授業を見ることができることでした。

板書の仕方、授業の進め方、生徒の呼び方などなど、いろんなことを勉強させてもらいました。数学の時間は特に机間指導をして、つまづいている生徒さんたちに説明したりしていました。今振り返っても貴重な経験だったなと思えます。

 非常勤講師の仕事は「1年限定の仕事」だったので、少し残念だったのですが、中学校の現実を見られたことは大きかったです。

家庭教師は射水市・富山市で中学生・高校生の指導に励んでいました。 6月には「日韓共催のサッカーワールドカップ」があり、旧小杉町体育館で、巨大スクリーンで試合を見ました。柳沢敦選手が試合に出ていて、体育館は「柳沢コール」で大変盛り上がっていました。

当時はまだ小杉町・新湊市・大島町など、市町村合併する前でした。なつかしいですね。

 僕は中学校と家庭教師をしながらも「まだ個人塾を持つ」ということをあきらきれませんでした。 1年かけて富山県内の会館を探して周りました。

最終的に、富山市サンフォルテ,黒部市民会館,高岡本丸会館,大門町総合会館,ラポール小杉,JR福岡駅2階,の中から1か所を選んで中高校生に教えたいと思っていました。

黒部市民会館だと桜井高校・魚津高校の生徒さん,高岡本丸会の館だと高岡南高校・呉羽高校の生徒さん,大門町総合会館だと大門高校・小杉高校・呉羽高校の生徒さん,ラポール小杉

だと小杉高校・呉羽高校・大門高校の生徒さん、JR福岡駅2階だと福岡高校・石動高校の生徒さんに、センター数学の授業をしたい、と考えていました。

 そして10月、僕は富山県内でまだ行ったことのない「砺波エリア(南砺市エリア)」へ行ってみました。

初めていく福野町・福光町など「富山県は広いなぁ」と思いました。そして福野町には「ヘリオス」がありました。「福野か。家からはかなり遠いなぁ」と思いました。

そしてさらに進んで福光町へ。とりあえず福光駅の人に「すみません。このあたりになんとか会館とか、テナントみたいな形で借りることができる所ってありますか?」と聞きました。

すると「ベルがありますよ」と教えてもらいました。 僕は福光駅から近い「ショッピングセンターベル」へ行ってみました。

中に入ると1階はスーパーで、2階部分がテナント(サークルルーム)になっていました。

部屋はとてもきれいで、広い。そしてどの会館よりも部屋代が安かったことに感動した僕は「ここだ!福光で塾をしよう」と決めました。

ただ、僕の家から福光までは車で片道1時間20分もかかります。とても通える場所ではありません。「どうしよう…福光いいけど遠すぎるなぁ」と僕は悩んだりもしました。

それでも、「とりあえずチラシを出してみて様子を見よう」ということに決め、11月に「11月8日~3月5日までの無料体験授業生徒募集!」というチラシを福光・福野エリアの新聞に

入れてみました。「毎週日曜日のみ、12人限定で塾生を募集します。」といううたい文句で募集したところ、9人の生徒さんから問い合わせがありました。

「9人も集まったか!」と僕は思いました。当時は月曜日~金曜日は中学校と家庭教師,土曜日は家庭教師,日曜日は福光ベルでの無料体験授業 というハードな生活でしたが、

福光で塾をする!という目標があったので、やる気満々で頑張っていました。

 冬が過ぎ、2月下旬で中学校の講師は契約が終わりました。家庭教師も3月で辞めさせていただくことに決め、いよいよ福光の個人塾1本に僕の仕事が決まりました。


 家から通うことはかなり無理があったので、僕は福光で「アパート」を借り、そのアパートからベルへ向かい授業をする,という生活スタイルに落ち着きました。


2003年3月。僕は福光に住むことになりました。30歳のことです。
2023年08月24日 23:27

2001年4月,上越での生活が始まりました。

富山県家庭教師協会高岡事務局の担当者のおかげで、僕は新潟県家庭教師協会上越事務局で家庭教師をすることが決まりました。

両親に「新潟に永住することになると思う」と告げて僕は富山県を後にしました。

富山市から上越市高田までは約120kmあります。車で下道で片道3時間かけて上越へ行き、上越教育大学の近くにある、大学生が借りるような1kのアパートに僕は引っ越しました。

高田・直江津エリア中心に僕は中学生・高校生を担当しました。

日中は浪人生と不登校の生徒さん(中学生)、夕方からは中学生と高校生の家庭教師を担当しました。 日中は午前9時半~昼過ぎまで週に3回,酒屋さんで配達のアルバイトをしていました。

僕は「この上越に永住することになるのかなぁ」と思いながら生活をしていました。上越は「海と山」が直線でつながっていて、高田から40分で妙高高原へ、高田から20分で海のある直江津に着きます。

日曜日には「長野ナンバー」の車を直江津でよく見かけました。自然の多い所で、僕は気に入っていました。


彼女は教員7年目を新しい学校で迎えていました。彼女にとって「3校目」の学校になります。

富山―上越での6年間の遠距離恋愛をしていた僕たちにとって「同じ上越に住んでいる」ということはとても大きなことでした。

「その気になればいつでも会える」という条件は僕にとってはとてもうれしいことでした。

今までのように電話代を気にしながら電話する必要もなく、気軽に電話できました。ただ、彼女は新しい赴任先だったため、仕事から帰ってくるのが20時過ぎで、22時には疲れ果てて寝ていました。翌朝5時に起きて仕事をする、という生活をしていました。

僕は22時ごろに仕事が終わるので、「すれ違いが多い」生活ではありました。

彼女の大変さを僕は知っていたので、僕は酒屋さんでのアルバイトが終わると彼女のアパートへ行き、「夕ご飯」を作って冷蔵庫に入れて、それから家庭教師へ行く、という生活スタイルの毎日を送っていました。洗濯ものを干すこともよくあり、「なんか主夫みたいだなぁ」と思っていましたが、特に違和感はなく、「先生と結婚するっちゃ、こういうことやろ」と
思っていました。

土日はゆっくりと二人で会うことができたので、「近くに彼女がいるのはいいなぁ」と思っていました。

 1学期が終わり、夏休みに入ると「彼女のご両親に会いに行く」ことになりました。

どちらから言い出したのか忘れてしまったのですが、初めて彼女のご両親が住んでいる長岡に行くことになり、僕は「いよいよ結婚が現実的になってきたな」と思っていました。

もちろん、めちゃくちゃ緊張しました。真夏の暑い中、スーツを着て僕と彼女は長岡へ車を走らせました。

彼女のお父さんは建築の設計の仕事をされている方でした。酒屋さんの仕事仲間の先輩は、「佐伯君、設計の人は理系だから、論理的な話が好きだと思うから、だらだら話すのではなく、理屈っぽく話した方がいいよ」とアドバイスしてくれました。

「はい、わかりました!行ってきます」と言ってはいたものの、いざ彼女のご両親を目の前にすると僕は緊張してしまい、何を話していたのか、ほとんど覚えていません。

彼女のお母さんが、僕の大好きな「酢豚」をふるまってくれました。うれしかったです。僕は当時、彼女に「将来的には富山の伏木のときみたいに、自分の塾をやりたい」と言っていた

ので、彼女のご両親にも「今は家庭教師をしていますが、将来的には個人塾を開きたいと思っています」と言いました。

「そうか、自営業か…頑張ってください」と彼女のお父さんが言ってくれました。とてもうれしかったのを覚えています。

彼女の実家は長岡市で、彼女の勤務地は上越市。長岡と上越は60km離れていて、上越から長岡までは車で8号線をひたすら進んで1時間30分かかります。

僕は「富山県に近い上越に住みたい」と思っていて、彼女も「上越に住もうね」と言ってくれていました。


お盆休みに僕は富山に帰ってきて、仲のいい友達に「もうすぐ結婚すると思う。多分上越に住むことになるわ」と話していました。友達は「そうか、頑張れよ!」と応援してくれました。

…… 今、冷静に振り返ると「結婚秒読み」ですね?  でもそんな彼女と僕は11月に別れてしまいます。 ひどい話ですね。

理由は、「教員と結婚する」という現実が僕には受け入れる自信がなかったからです。


当時の彼女は「朝5時に起きて仕事して学校へ向かい、20時すぎに家に帰ってきて22時には疲れ果てて寝る」という生活スタイルでした。

僕は朝8時に起きて9時半~13時ごろまで酒屋さんでバイト。それから彼女の分の夕ご飯を作って洗濯して洗濯物を干して、14時半から22時まで家庭教師。それから帰宅。

このまま彼女と結婚できたとして、家事はほぼ全部僕がすることになります。これでもしも子どもができたら……育児も全部俺の担当になるのかな?と考えると怖くなりました。


彼女のご両親に会いに行っておきながら、僕は迷い始めました。 もしも彼女が教員でなく、普通の会社員だったら、僕は迷うことはなかったと思います。結婚していたと思います。

友達にも相談していました。「もし、お前が仕事から帰ってきたら奥さんが寝とって、お前が洗濯して干して、家事はお前が担当することになるとしたら、お前はどう思う?」と聞くと

「確かに厳しいかもしれんの。」と言っていました。「そのうえ子どもができて、育児もお前担当だとしたら、どうする?」と聞くと「あ~それはかなり厳しいわ。俺には無理やわ」と言っていました。

 僕は「それでも6年も付き合って彼女のことが嫌いではないから、家事くらいで迷ったりするな!」と自分に言い聞かせようと何回も思いましたが、「絶対に無理」と思ってしまいました。
そして、6年も遠距離恋愛をして、同じ上越に住んでいたにも関わらず、僕は「彼女と別れる」という決断をしました。

今振り返っても、あの「決断」が正しかったのか?わかりません。 何回もやり直そう、と思ったのですが「家事」「育児」という「現実」を突き付けられると彼女が教員を辞めない限り結婚はできなかったと思います。

こうして僕は1年間の上越での生活を終え、入試が終わった翌年3月に、3たび富山県に帰ってくることになりました。

24歳のときに教員として三条市に住んで、でも教員を辞めて富山へ帰ってきて、次は28歳の4月に上越に住み始めて、でも彼女と別れて富山へ帰ってきて…

「新潟県には縁がなかったなぁ」と思います。

荷物をまとめて上越のアパートを去るときは、とても複雑な思いでした。彼女に「今までありがとう。富山で頑張るちゃ」と言って僕は富山へ帰ってきました。


……人生って思うようにはいかないんだなぁ、と思いながら僕は富山へ帰ってきました。

2002年、4月 今度は「独りぼっちになって」僕の新たな生活が始まろうとしていました。
2023年08月21日 08:09

2000年 再び「富山県家庭教師協会(高岡事務局)」へ

伏木での1年間を過ごした後、「これからどうしよう…」と僕は迷っていました。

教える仕事が好きだったので、ハローワークで「塾講師」の求人を探したりしていました。1社だけハローワークで紹介してもらいましたが、残念ながら不採用で、採用はしてもらえませんでした。

 「もう1回家庭教師協会のお世話になれないかなぁ」と思った僕は、前回の「富山県家庭教師協会富山事務局」ではなく「高岡事務局」に応募しました。

担当の方が富山事務局とは異なるため、何とか採用してもらえました。

「また1から頑張ろう!」と思い今度は高岡市・大門・小杉エリアを中心に家庭教師を始めました。

この「富山県家庭教師協会高岡事務局」で僕は恩師に出会います。大変よくしていただきました。教員時代の話とかも丁寧に聞いてもらったり、仕事の悩みにのっていただいたり、大変お世話になりました。

担当する生徒さんは主に中3生と高校生でした。

 富山事務局での「仕事量の多さ」を振り返り、今回は1日生徒さん2件まで(平日)にしてもらいました。

そして今回は土日を休みにすることにしました。代わりに平日の日中に「弁当の配達」のアルバイトを午前中のみしていました。

当時、僕には付き合っていた彼女がいて、彼女は上越で教員をしていました。「富山ー上越」の遠距離恋愛だったのですが、土日に僕が上越へ行くことが多く、大学を卒業してからの付き合いだったので、これこれ5年の月日が流れていました。

当時は彼女が将来的に富山へ来て教員試験を受け直し、僕は家庭教師を続ける、という考えだったのですが、「教員を辞める」という選択があまりにももったいないと判断し、「じゃあ俺が新潟県に行くよ」という話にまとまりました。

2000年の1年間僕は高岡で家庭教師をしていたのですが、年末に上司に「実は、結婚を考えている人がいて、入試が終わったら上越へ行くことになりました」と伝えると、

「そうですか。こちらとしては残念ですが、仕方ありませんね。ところで上越へ行かれた後は仕事はどうされるのですが?」と聞かれたので、「上越で塾講師など探してみます」と僕が

言うと「じゃあ上越事務局で家庭教師をされたらいかがですか?紹介状書きますよ」と提案してくれました。

「えっ,いいんですか?」と僕は少し驚いたのですが、「家庭教師協会は全国に事務局があるので大丈夫ですよ」と言ってもらえました。


 こうして2001年3月、僕は富山県を去り、「新潟県家庭教師協会上越事務局」のお世話になることになりました。

以前のブログでも書かせていただきましたが、「上越で1年間続いたら、結婚しよう」と当時の彼女と約束し、僕は上越へ旅立つことになりました。

いよいよ結婚か…と期待を膨らませながら僕は上越へ出発しました。2001年3月末、28歳のことです。
2023年08月19日 09:46

寺子屋学習館・伏木時代【後編】

夏休みが終わり2学期に入りました。中3・高3生はおのずとやる気が増してきます。

 新しく中2生が2人入塾してくれて、寺子屋は9人体制になりました。当時の時間割は、夕方5時~7時までが中3生の授業(週に3回),19時~23時までが高校3年生の授業(週に3回)でした。

 今と比べると高校生の場合は英単語を覚えてもらうこともなく、単語テストをしていたわけでもありませんでした。もっと単語に力を入れるべきだったなと反省しています。

数学は当時は基礎を中心に学習していました。今と異なるところはマーク模試(青本や黒本など)をほとんど解いていなかったところです。これも反省点になります。

センター試験(当時)用の勉強をもっとするべきだったなと反省しています。


 中3生は新研究を中心に学習していました。頑張り表がまだ当時はなかったので、やや「手さぐり」の中、勉強を進めていました。

秋が過ぎ、冬になると1人の高校3年生が入塾してくれます。もう受験まで日がないのですが、来てくれました。

こちらの生徒さんが中1の妹さんを連れてきてくれました。そしてその妹さんが友達(中1生)を2人連れてきてくれました。

中1生が入塾されたことによって、寺子屋はにぎやかな、少しほのぼのとした雰囲気の塾になりました。中3・高3生の授業は「真剣・本気モード」の授業が続き、中1生の授業は

「ほんわかアットホーム度満点」」の雰囲気授業になりました。


冬休みに入り、いよいよ高3生は「センター試験」に向けラストスパートを切ります。英語・数学を一生懸命に勉強されていました。

そしてセンター試験が終わり、自己採点。 一番最初に入塾してくれた新湊高校3年生の女子の生徒さんが自己採点の結果「秋田大学教育学部」A判定を取ってきました。

2次試験は「数学のみ」 他の高3生2人は「私立大学志望」に変えていました。

2月に入ると高3生は「私立大学受験ツアー」に入ります。「名古屋女子大学」「中京女子大学」「岐阜聖徳大学」など、岐阜・名古屋方面の大学を受験されていました。

一方、中3生は最後の全県模試を受け、志望校(県立高校)を決める時期にさしかかっていました。

 大門高校,伏木高校,有磯高校(今はありませんが)をそれぞれ受験することが決まり、勉強の日々が続きます。

そして大学入試が終わり、県立高校入試も終わりました。

高校3年生は「名古屋女子大学」「中京女子大学」にそれぞれ進路が決まり、そのあと「秋田大学」を受験した生徒さんが秋田大学に合格しました。寺子屋1人目の「国立大学合格者」です。

中3生は「大門高校」「有磯高校」にそれぞれ合格しました。伏木高校を受験された生徒さんは残念ながら不合格でした。

こうして怒涛の1年目が終わりました。

この1年間がむしゃらになって授業をしてきて、入試が終わり、僕は「やっと終わった…」と疲れ果てていました。充実感もありましたが、疲れていました。


 ここで大きな壁にぶつかってしまいます。それは「経営難」という大きな壁です。

1年目が終わり、僕の全財産はなんと10万円を切っていました。


当時は「借り入れをする」という発想が全くなかったため、悩みに悩んだ結果、僕は泣く泣く「寺子屋伏木校」を閉鎖することに決めました。

残された生徒さん・親御さんには大変申し訳ないことをしてしまいました。1年間頑張ってきて、せっかく「実績」も出したのに、僕は閉鎖する決断をしました。


  こうして僕の初めての個人塾「寺子屋学習館・伏木校」は1年で幕を下ろしました。

今までの人生の中で「最も忘れられない1年間」でした。最も働いた1年間でもありました。
2023年08月17日 06:30

寺子屋学習館・伏木時代【前編】

高岡市伏木の貸家で個人塾を始めることになった僕は、まずは「生徒さん募集のチラシ」を作ることから始めました。

苦手だったワープロでなんとか原稿を作り、「白色のA4用紙に黒字1色」のチラシを作り、貸家を仲介していただいた不動産の方に、僕が手書きで書いた寺子屋学習館の地図(高岡市伏木本町にある一軒家)をワープロで作ってもらい、チラシが完成しました。

できあがったチラシを見て「お~これがチラシか!」と感動しました。

次は「印刷をどこにしてもらうか?」ということになり、電話帳で富山県内の印刷会社に1件ずつ電話をかけ「すみません。A4用紙の黒1色のチラシを2,000枚印刷お願いすると、いくらになりますか?」と聞いて回りました。

20件くらい聞いて、その中で1番安かった印刷会社を見つけ、その印刷会社にチラシを印刷してもらいました(下村にある印刷会社でした)

出来上がったチラシを車に積んで、「北日本新聞」「読売新聞」の「伏木エリア」の朝刊に「折り込みチラシ」を入れてもらうことになりました。

チラシを新聞に入れてもらうときは「折り込み代」がかかります。当時はチラシ1枚につき2.8円かかりました。(チラシ枚数×2.8円)プラス「消費税」という計算になります。


1999年3月。いよいよチラシを入れてもらう日が決まり、新聞にチラシを入れてもらった日の朝、僕は「電話かかってこないかなぁ」と不安と期待の入り混じる中、電話を待ちました。

 今の寺子屋学習館(大門)のチラシには「問合せ電話番号」はフリーダイヤルの番号になっていますが、当時の寺子屋学習館・伏木校の電話番号は「PHSの電話番号」でした。

「フリーダイヤル」という発想がなく、PHS(時代を感じるなぁ)の電話番号で生徒さんを募集していました。

ドキドキしながら電話を待っていると、PHSが鳴り響きました。「来た!」と思い電話に出ると「新湊高校3年生になる女子の生徒さんの親御さん」からの問い合わせの電話でした。


「伏木駅」で後日待ち合わせして、僕はスーツ姿で生徒さんと親御さんと会い、寺子屋へ来てもらい「初めての入塾説明会」を行いました。

当時の彼女の成績は高校2年生3月にあった学研模試(マーク模試)の5教科の全国偏差値が49.8でした。

「秋田大学など、国立大学へ行きたいのですが…」というご要望でした。「どの教科も特別悪い教科はないですね。全部偏差値50近く。1年頑張れば何とかなるかもしれません」と僕が

話しました。「警察官になりたい!」と彼女は言っていました。大好きだったエレクトーン教室を辞め、勉強に専念します!と気合十分でした。

春休み、ひたすら「ベクトル」の勉強をしました。そして3年生を迎えました。

 チラシは3回入れました。その3回で「中学3年生3人。高校生4人(新湊高校3年生・氷見高校3年生・伏木高校2年生・大門高校2年生)合計7人での「寺子屋学習館・伏木校スタート」を切りました。


当時の寺子屋学習館の「宣伝文句」は「各学年5人以内の少人数指導スタイルの塾です」というものでした。

中学生・高校生ともに「ホワイトボード」を使って僕が説明しながら授業を進めていく」という授業スタイルでした。

今は僕は中学生の授業を担当していますが、当時は高校生の数学・英語も僕が教えていました。無我夢中で教えていました。ただ、貸家だったこともありとてもアットホームで少人数でもあったので(高校3年生は2人しかいなかったので)雑談を交えながらでの授業でした。


 1学期が終わり、夏休み。当時は中学3年生の授業は午前9時~12時まで。高校生の授業は午後2時~6時まで、という「長時間授業」でした。

2回ほど中3生の授業が終わった後、「いしずやラーメン」へみんなでラーメンを食べに行きました。確かラーメンが400円という格安の店だったと思います。美味しかったです。

伏木は「海沿いにある町」だったため、国分浜(こくぶはま)でバーベキューをしました。塾生と僕とで楽しいひと時を過ごしました。

かなり「アットホームな塾」だったと思います。僕が若かったこともあり、生徒さんとの距離はかなり近かったのかな、と思います。

こうして夏休みが終わり、2学期へ突入していきます。
2023年08月15日 10:53

小学校教員→軽トラ運転手→次は?

25歳の12月にお世話になった橋本急便を辞めることになりました。僕は9月ごろから、週に2回、橋本急便の仕事が終わった後19時から中学2年生に家庭教師をアルバイトでしていました。

11月に入ったころ、家庭教師先の担当の方が、「佐伯先生、うちで本格的にプロとして家庭教師やってみませんか?元教員だし、これから需要はもっと増えていきますよ」と言われました。家庭教師はアルバイトでするものだ、と僕は当時思っていたので、あっけにとられていると続けて「プロだと月40万~50万くらい稼げますよ」と言われました。

僕は、「少し考えさせてください」と言って保留させてもらいました。 橋本急便の仕事中、「月に40万円かぁ。大きいなあ」と思っていました(現在のことはわかりません。)

そして僕が出した答えは、「よし、家庭教師一本でやってみよう!」というものでした。 橋本急便の社長に辞めさせてくださいと伝え、12月、僕は橋本急便を辞めました。

僕は「富山県家庭教師協会」のお世話になることになりました。

 当時はまだ家庭教師の先生も今ほど多くはありませんでした。家庭教師協会に入ってすぐに「とりあえず1年、家庭教師本業で頑張ってください。1年後に本部の方に「プロで採用お願いします」と申請します、と言われました。

当時の僕の勤務体系は、平日は17時~19時まで中学3年生の家庭教師。その後移動して19時30分~21時30分まで次の生徒さんの家庭教師。これで終わる日もあれば、その後移動して22時~24時まで中学3年生の家庭教師 というものでした。土日は午前中10時~12時まで。次は13時30分~15時30分まで。次は16時~18時まで。最後に19時~21時まで。という勤務体系でした。


家庭教師は学生時代にやっていた塾講師とは異なり、マンツーマン指導なので教えやすく、一人の生徒さんをじっくりと教えることができることが最大の長所でした。

弱点は生徒さんがつまづくと、基本的にはそこから1歩も先に進めないので、わかるようになるまで僕が手を変え品を変え教える、というところです。

もちろん、同じ説明を繰り返してもわかってもらえることはなく、言い方を変えたり違う角度から教えたりして指導していました。

体力的にも1日3件の日はけっこうハードで、「思っていたよりきついなぁ」と感じていました。 土日は4件あったのでさらにハードでした。ただ、やりがいはありました。

特に中学3年生は受験生なので、生徒さんも親御さんも必死です。家庭にお邪魔するたびにひしひしと必死さが伝わってきました。プレッシャーを感じることも多々ありました。

 家庭教師の仕事の弱点は、休みがなかなか取れなかったことです。自分で休み(授業を入れない日)を決めれるのですが、当時の僕は何もわからず必死に教えていたので、受験が終わるまではほとんど休みはとれませんでした。

 3月が過ぎ、最初の受験シーズンを終えて、それから7月くらいまでは比較的時間に余裕のある生活になります。 夏休みが入るころになると1日2~3件の授業が入ります。

夏休みは1日4件の日がほとんどで、お盆休み意外は基本的には休みはありませんでした。(甲子園を見ることができませんでした)


この「富山県家庭教師協会」時代は本当に鍛えられました。いろんな生徒さん(ほとんどが勉強が苦手な生徒さんで、なんとか県立高校に入りたい、という生徒さんが多かったです)

いろんな問題集を使ってみたり、新研究を使ってみたりしていました。英語・数学を中心に指導していました。暇さえあれば、本屋へ行って中学生用の問題集や参考書を見ていました(それは今も変わらないのですが…今は高校生用の参考書を見ることが圧倒的に多いです)

教える仕事をすることは小学校の教員で最後だろうなあと思っていたのですが、幸い再び子ども相手の仕事をすることができることになり、うれしかったです。

ところが、家庭教師協会で家庭教師を初めて1年が過ぎたころ、「今度は自分で仕事をしてみたい!」と思うようになりました。

給料には満足していたのですが、もうひとつ「やりがいに欠ける」と思っていた僕は「自分の塾を持ってみたい」と思うようになりました。

そして27歳になる春、僕は家庭教師協会を辞めることになります。 次なる仕事は……


僕は「住まい情報」という雑誌を見ながら「安い貸家」を探していました。 貸家を借りて「個人塾」を始めることにしたのです。どこで塾をするのか?

かなり悩みました。ただ、「富山市」と「高岡市」だけは避けようと決めていました(都会のため塾がたくさんあり、絶対に僕では通用しないと思っていたからです)

富山市・高岡市以外の富山県内を対象にして僕は住まい情報と電話帳で不動産を調べて1件1件、「安い貸家はありませんか?」と電話していました。

今みたにインターネットがなかったので、電話帳と住まい情報をセットに、僕は「とにかくテナントは高くてお金が払えないから貸家にこだわろう!」と思って富山県内を車で探索していました。

そして、住まい情報の中に「高岡市伏木、家賃15,000円」という格安の貸家を見つけました。「伏木か…一応高岡だけど、伏木だったら端っこだしライバルも少なそうだな」と思い、

僕は胸を躍らせて伏木に車を走らせました。 伏木に着いて僕は驚きました。「貸家というよりは、あばら家だなぁ」と思いました。

ちょっとした台風が来たら吹き飛んでしまいそうな、古びたあばら家を見て僕は、一瞬迷いました。「あ~,どうしよう」「でも15000円は安いよなぁ」と思いました。

不動産屋へ行き、僕は「とりあえず中を見せてもらえますか?」と聞き、とりあえずあばら家の中を見せてもらいました。そこは2階建ての「2階部分」を貸し出していました。

高岡市とはいえ、伏木は「伏木中学校」しかありません。高岡市の中でも孤立している「伏木エリア」 僕の家から伏木までは、片道40分かかります。

「少し遠いけど、伏木で頑張ってみるか!」と僕は伏木の貸家を借りることに決めました。1999年のことです。この「伏木で、僕の中で一番記憶に残っている1年が始まることになりました。

初めての個人塾。塾の名前は「寺子屋学習館」 そうです。今の大門での「寺子屋学習館」と全く同じ名前の塾を27歳になる春、僕は一人で伏木で立ち上げることに決めました。
2023年08月12日 05:28

絶望の淵から僕を救ってくれた橋本急便

あれだけあこがれていた小学校の教員。辞めた後の喪失感は大きかったです。

教員を辞めて富山県に帰ってきた僕(と僕の家族は)絶望の淵にいました。

何もする気が起きない。これから先の人生、どうしよう…と焦ってばかりいました。

高校生のころから「将来は小学校の教員になる」と決めていたので、教員以外の仕事が全く浮かばず、あとは3年2組の子どもたちへの罪悪感もあり、僕は無気力状態になっていました。

僕を心配してくれた中学・高校時代の友達が、「佐伯、大丈夫か?」と訪ねてきてくれましたが、僕は何も話すこともなく、無表情で友達と会っていました(会ったうちには入らないですね。)

僕から笑顔が消え、両親からも笑顔が消え、妹と弟も心配そうな表情。佐伯家はどん底でした。教員を辞めてから、ハローワークへも何回も行きました。新しい仕事を探すために一通り

ハローワークにある職業を見て回りましたが、どの仕事も僕には響かず、ハローワークへ行くたびに落ち込んでいました。


「いつまでこの地獄が続くのだろう…何とかしなくては」と気持ちは焦るのですが、二言目には「今度はワープロやパソコンを使わない仕事がいいなぁ」と思っていました。

とりあえずパソコンだけは買い、「覚えなくては。」と思い、説明書を見てもさっぱりわからず、「どうせ俺なんか…」とまた落ち込む。

泥沼の中で必死にもがいていました。 幸い両親は「焦っても仕方ない。1年かかってもいいからゆっくり次の仕事探され」と言ってくれました。

自動車で通っていたハローワークへも、車を運転する気力もなくなり、30分かけて自転車でハローワークへ通うようになりました。

 大学時代の長野に住む友達も来てくれて「佐伯はけっこう悩んでしまう性格だから、ゆっくり焦らずに。」と励ましてくれました。本当にうれしかったです。


これだけ周りの環境に恵まれているのに、どうして俺だけ… と約半年もの間、僕は前に1歩も進めませんでした。

パニック発作は教員を辞めても治らず、本当にどうなってしまうのだろう…?と不安でいっぱいでした。

25歳になり、いつものようにハローワークへ行った僕は、一つの求人カードを見つけます。「この仕事ならなんとかできるかも!」とかすかな光がようやく見えました。

その「求人カード」には、次のように書いてありました。

「小さな家庭的な職場です。」 僕は「これだ!」と思いました。その求人カードには「橋本急便」と書いてありました。

従業員は10人以下の小さな運送会社です。運転の仕事か。しかも家庭的かぁ。パソコンも必要なさそうだな。何とか拾ってもらえるかもしれん。と思い、6月に僕は橋本急便へ応募しました。

 家庭的、といよりも「橋本ファミリー(家族経営)」の会社でした。橋本さんばかりの運送会社。僕の友達は「大丈夫か?お前、道とか詳しかったっけ?」・・・ 僕は富山市民です

が、富山市もろくに車で運転したこともない「方向オンチ」でした。もちろん高岡市や滑川市・魚津市なども一度も車で行ったことがありませんでした。


 「家庭的な職場です」この一言を頼りに、僕はすがるような思いで橋本急便に応募しました。幸い社長は面接の時に、「将来大型の運転手になりたいとか言い出さないけ?小型の車でもいいけ?」と聞いてくれました。

 僕は「はい!小型の車で頑張ります」と言いました。 そしてその場で採用が決まりました。社長の名前はもちろん「橋本さん」です。

「よかった…この仕事を頑張ってみよう!」と不安の中、僕は橋本急便のお世話になることになりました。25歳の6月のことです。

勤務日初日。僕の仕事は「午前中」「午後その1」「午後その2」と3種類の仕事に決まっていました。

運送会社では「集荷(しゅうか)」という仕事があります。これはどんな仕事かというと、橋本急便にお客さんから電話がかかってきて「荷物取りに来て!」と言われたら、そのお客さん(会社や店など)に荷物を取り行く、という仕事です。

 僕の午前中の仕事は「富山市を集荷」をすることでした。無線で会社から連絡があり「〇〇」と言われるとその〇〇へ荷物と取りに行きます。そしてそこで「送り状」という伝票をもらい、何か所かで荷物を集荷してから会社に一度帰る、という仕事です。

会社に戻ると、待ち構えていた橋本急便の方たちが僕の軽トラックの荷台から荷物をすさまじい勢いで取り出し、各々のトラックにその荷物を詰め込み会社を出て目的地(富山市内の会社や店)に向け出発する、という流れです。これが「午前中」の仕事。

 あとは「スポット便」と言って、僕は当時のセルラーという名前の携帯ショップ(今でいうauショップです)を富山市内の2店舗間を2往復して、古くなったバッテリーを運んでいました。

 「午前中」の仕事が終わり、橋本急便へ戻って弁当を食べ、少し休憩したあと「午後その1」の仕事に向かいます。僕の「午後その1」の担当エリアは「大沢野」でした。

国道41号線を富山市から大沢野方面へ向かって行き、(僕にとっては初めての大沢野エリアでした)住宅地図を車に積んで、午後の仕事がスタートしました。

大沢野方面へ行き、北日本新聞の「夕刊の新聞記事の一部」を受け取り、一度橋本急便へ帰ってくる、という簡単な仕事でした。僕は方向オンチで道を全く当時知らなかった、ということを橋本急便の方は皆知っていたので、僕は一番負担の少ない「大沢野エリア」を任されていました。

「午後その1」の仕事が終わり、一度会社に戻ると、そこには荷物がたくさん置いてあります。

次はその荷物を軽トラに詰め込んで再び大沢野方面へ向かう「午後その2」の仕事が始まります。ただ、この「午後その2」の仕事は配送エリアがふくらみ、「大沢野」「八尾』「婦中」エリアへと一気に範囲が広くなりました。

もちろん僕はパニックに… 地図とにらめっこしながら、少しずつ道を覚えていきました。


とにかく「時間に追われる仕事」でした。目的地につくのが少しでも遅いと無線が入り「あと何分くらいで〇〇に着くけ?」と聞かれます。

最初のころは無線がなるたびにドキドキしていました。

橋本急便の方は若い方が多く、20代・30代のメンバーが半分以上でした。昔はやんちゃしてました!というタイプの方も少なくなく、入りたてのころは「あんたみたいに先生が務まる

がけ?オレたちとは対極の人間やよ?」とよく言われました。

 それでも男気のある方が多かったので、僕が道に迷ってパ二くっていると無線が入り「さえちゃん、大丈夫け?あわてんでもいいよ!」とフォローしてくれました。本当にうれしかったです。

また、よくからかわれもしました。「俺たちの仕事は時間との戦いやぞ。先生みたいにのんべんたらりとはしとらんぞ!」ともよく言われました。

それでも仕事にもなれ8月になるころには、かわいがってもらえました。みなさんとても自分に自信を持って誇りをもって仕事をしており、「こんなに前向きに仕事してもいいんやなぁ」と初めて僕も自信を持って仕事ができるようになりました。

集金の月末になると仕事は地獄で「運転しながら伝票を書いたり地図を見たり、無線に応答したり…」てんてこまいになって運転していました。

それでも運ちゃんの仕事は楽しかったです。仕事も18時にはちゃんと終わるし、橋本急便の方は僕が失意で教員を辞めたことを知ってくれていたので、優しくしてくれました。

夏休みが近づくと、富山市内の小学校に荷物(夏休みの宿題など)を届ける仕事があったのですが、「さえちゃん、学校行くが嫌やろ?俺が代わりに行くちゃ!」と助けてくれました。

人の親切さが本当に身に沁みました。「本当に家庭的な職場なんだなぁ」と思いました。

8月になると「橋本急便メンバー」で岩瀬浜にバーベキューにも行きました。社長はとても優しい方で「佐伯君、いっぱい食べられ!」と言ってくれました。


 半年以上、一人で暗い毎日をさまよっていた僕にとって、「橋本急便」はまさに「絶望の淵から僕を救ってくれた」職場でした。今でもあのころを思い出すと胸が熱くなります。

なんの役にも立てなかった当時の僕を温かく迎い入れてくれ、手荒く扱われることもありましたが、仕事が終わると雑談してから笑顔で帰宅できる橋本急便。僕は橋本急便が大好きでした。 もしあのとき橋本急便に勤めていなかったら今の僕はないと思います。感謝でいっぱいです。

 道も富山県に関しては詳しくなりました。 今の僕は大門総合会館まで片道40分かけて通っていますが、「すぐそこ」です。橋本急便時代のあのすさまじさに比べたら、地図も必要ない、お客さんが待っていることもない、8号線をまっす進むだけ… ちょっとしたドライブ気分で大門まで通っています。

そんな楽しかった「橋本急便」も12月で辞めることになってしまうのですが、僕は橋本急便には一生頭が上がりません。本当に勤めて良かった、と今も思っています。

今でもたまに富山市内を運転していると橋本急便のトラックを見ることがあります。「よし、頑張ろう!」と思えます。

こうして僕は橋本急便の方々のおかげで いつの間にか「パニック発作」もおさまり、「うつ状態」からも完璧に抜け出すことができました。

橋本急便の次の仕事は…25歳12月。ここからが今の僕の仕事の「原点」になる仕事に就くことになります。
2023年08月09日 11:22

平成8年8月8日、24歳夏:妙高高原自然の家で僕が感じたことは…

僕は二度目の新潟県小学校教員採用試験で合格し、23歳の4月に、新潟県三条市というと所にある、中規模の小学校に採用されました。 3年2組の担任として赴任しました。

平成8年4月1日に赴任し、「やっと教員になれた。頑張るぞ!」と胸を躍らせて教員として働き始めました。

ところが、勤務初日に僕はパニックになってしまいました。「職員室でどの先生も教科書を開いていない…」

さんざん大学時代に経験した「教育実習」で「佐伯さん、教員の一番の仕事は授業準備だよ。教材研究だよ」と現場の先生方から教え込まれていた僕は、職員室での「教科書のない光景

に圧倒されてしまいました。

 どの先生方も「学校単位の仕事」をされているのです。4月1日は「職員会議」から始まり、春休み最中でしたが、「新年度の初日」ということもあり、事務仕事のオンパレード。

僕は大学時代、数学科だったので「算数部会」という部会に所属することになり、その「算数部会」での仕事(何月にどういう単元を勉強してどういう風なことを指導するのか?などについて話あったりする)、公務分掌という、学校単位での仕事。そして4月のため提出書類の多さにびっくりしてしまいました。

 当時の僕はパソコンを持っていなく、どの先生方も「ワープロ」で文章を作成されていました。

大学時代に数学科だったため、「卒論」がなく「ゼミ単位での卒論発表会」があっただけで、僕はワープロというものをほとんど使ったことがありませんでした。


教育実習に行った時も、指導案を書くのに(今では当たり前のようにパソコンを使って指導案を作成しますが)当時は手書きで指導案(どんなふうに子どもどもたちに質問して、そのさまざまな子どもたちの反応(発言)に対する教師側の発言・問いかけ・評価の観点などを細かに書いていく書類のことです)を作成していました。

そういう「大変な苦労をした経験」があったので、僕はてっきり職員室での教員の仕事は「毎日の授業の指導案作成」がメインの仕事になるのだろうな、と思っていました。

でも実際は授業の準備などする時間は職員室では0でした。この「現実」に僕はイラっときました。

初日の勤務を終えて、当時付き合っていた彼女(上越で小学校の教員をしていました。彼女は1回目の教員試験で合格していたので、教員2年目に突入していました)その彼女に僕は

電話で「教師ってなんなん?なんで職員室で誰も教科書を開いてないが??ひたすら会議したりワープロで書類作ったり事務仕事ばっかりだし…がっかりしたわ!」と八つ当たりしました。彼女も僕の言い方が気に食わなかったのか、10分ほど話したところで途中で電話を切りました。

 パソコンどころか、ワープロさえ満足に使えない僕は「この改行マークって印刷したら写ってしまうのかなぁ」とか「上書き保存て何?」という有様だったため、教科書を開くどころか、ワープロのことで頭がいっぱいになり、軽いパニックが毎日のように続きました。

 毎日朝7時半に職員室について、帰るのは(僕の学年の先生だけなぜか)22時~23時くらい。 今で言うと「ブラック企業」状態でした。他の学年の先生方は18時~19時の間には

帰宅される中、僕の学年(3年生)の先生だけは22時すぎに帰宅の途についていました。

それから家に帰ってから「明日の授業の準備」 こんなことを毎日していたら、そりゃ精神的にもおかしくなってしまいます。


 僕は「事務仕事」がほとんど間に合わず、大学時代にワープロを使っておかば良かった…と毎日後悔していました。

そして6月。初めての初任者研修の「研究授業」が僕の番に回ってきました。たった45 分の算数の「円」の導入授業をするために、3週間くらいもかけて「指導案」を書き続けました。

過去の先生方の「円」の導入の授業の指導案を観たり、教師用の指導書を読んだりして指導案を作っていきました。

授業中は自分のクラス【3年2組】の子どもたちと楽しく授業していて楽しかったのですが(もちろん失敗もたくさんしました。その都度反省をしていました)職員室に帰ると「またワープロとの格闘か…」とブルーな気分になっていました。


 7月に入り「通知票」をつける期間にさしかかると、僕のパニック度は極限に達しました。通知票の項目の多さに圧倒され、例えば「机の中がいつも整頓されている」という項目や

「いつも大きな声であいさつができる」などなど。僕がふだん目にしていないことが通知票の項目にはたくさん書いてありました。

「うわ~こんなんもん、わかるかよ!」と思いながら放課後の教室で一人ひとりの机の中を確認したりしていました。

「あいさつができているか?」これは僕が朝職員室にいるため、把握できていません。当時僕のクラスには27人の児童がいたのですが、1人につき25項目くらいもの「評価らん」が設けられています。「わかりっこない…」正直、勘で書いた通知票も項目によってはありました。


 こんな目まぐるしい毎日が続く中、僕の体にある日、異変が起きました。「通知票が間に合わなかったらどうしよう…」と焦りに焦って、夜も安心して眠れない日々が続き、

ある朝6時くらいに目覚めると、心臓がバクバクなっています。「あっ、心臓破裂する!」と思いながら安静にしていると、10分くらいたつと治まります。

ところがこの症状が7月に入ってから毎日のように続き、朝6時になると心臓がバクバク激しく揺れます。当時はまだわからなかったのですが、今でいう「パニック発作」を起こしていました。急いで初任者研修の担当の先生に報告しました。

その先生も「パニック発作」のことを知らなかったので、「そのうち治るて!」と言われましたが、2週間たっても3週間たってもパニック発作が収まらず、ついに「心療内科」の先生に診てもらうことになりました。

長岡にある病院にまで行き、先生に話すと「軽いうつ病ですね」と言われました。

富山に住んでいる両親や友達にも電話で相談していました。両親はびっくりして、三条の僕のアパートまで来てくれました。

「もう教師辞めたい…」と両親にこぼしました。 「あんなになりたかった教師をまだ3か月しか働いてないのに辞めるのか?その程度の思い入れだったんか?」と父に言われました。


でもパニック発作は治らず、校長先生と相談しあった結果、「とりあえず、夏休みは学校に来なくていいから、富山で静養してきなさい。そして夏休みの終わりに今後佐伯さんがどうするか?教えて」と校長先生に言われました。

 夏休みが入ると同時に僕は三条を後にし、富山に帰ってきました。中学時代の友達に会い「ワープロできんでパニックになってしまった」と言うと友達は「ワープロできんゆうて

教師辞めたい?話ならんぞ」ときつく言われました。そして友達は2時間くらいかけてワープロの使い方や機能について僕に教えてくれました。

今でこそワープロはもう使われることなく、パソコン主流になり、こんな僕でもワードで文章を作ったりエクセルでちょっとした資料を作ったり、メールでのやり取りもできるようになりましたが、当時は何もわからなく「ワープロ恐怖症」でした。


 そんな中、夏休みは過ぎていき、8月8日を迎えました。

この8月8日は「妙高高原自然の家」にて、新潟県の新採用教員が集まって合宿スタイルの「2泊3日の初任者研修」が行われた日でした。

妙高高原自然の家で、久しぶりに大学の同級生に会って、悩みを聞いてもらいました。友達は「えっワープロが原因で教師辞めるの?もったいないよ~。せっかく教員になれたんに」

「彼女かわいそうだね。彼女も苦しんでない?」など、いろんなアドバイスを受けました。でも僕の心は「教員をやっていく自信がない…」の一点張りでした。


8月8日の夜になり、初任者教員をいくつかのグループに分け、各グループごとに「出し物」を企画して披露する、ということになりました。

この初任者研修は、うつ病気味だった僕には「ほかの先生もみんな1年目で苦労しとる。最初からうまくいくはずがない」と思えて、救われた研修でした。

自然の家で同じ部屋になった人たちとも楽しく会話したり学校の愚痴を言ったりして、少し生き返りました。

8月8各の夜になり、野外で各グループの出し物を見て、そのあと、缶ビール片手にキャンドルファイヤーの炎を観ながら僕は、ぼう然と立ち尽くし「この中で辞めるかもしれん人は俺くらいだろうなぁ」とむなしく感じていました。


意気消沈して自然の家の部屋に帰る途中、一人の男先生が公衆電話から、教え子に電話していました。

「今日誕生日だよね?おめでとう!」と笑顔で子どもに電話している先生を見て「いいなぁ。俺も本当は子ども思いなんだけど、こんな状態じゃ電話もできないなぁと泣きそうになりました。

この時のこの場面が心にずっと残っていて、僕は寺子屋で塾生の誕生日には塾生に「誕生日おめでとう!」と言って気持ちばかりの図書カードをプレゼントしています(今年度からのことです)

結局僕は妙高高原自然の家での初任者研修を最後に、教員の仕事を辞めてしまいました(ワープロで書類を作ったり報告書を書いたりすることができないまま教員を辞めました)


平成8年8月8日、この日の出来事は死ぬまで忘れることはできないと思います。

あれから27年… 今日は僕は大門で中学生に授業をします。当時は「二度と教える仕事はできないだろうなぁ」と思っていましたが、今、教える仕事をしています。

こんな無名の塾に来てくれている生徒さん・親御さんには本当に感謝しています。ありがとうございます。

あの悪夢のような8月8日。先のことなんて全く考えることができないくらいに壁にぶちあたっていたころ。

今の環境に感謝しながら、今日は特別な思いで1日を過ごします。
2023年08月08日 10:06