絶望の淵から僕を救ってくれた橋本急便
あれだけあこがれていた小学校の教員。辞めた後の喪失感は大きかったです。教員を辞めて富山県に帰ってきた僕(と僕の家族は)絶望の淵にいました。
何もする気が起きない。これから先の人生、どうしよう…と焦ってばかりいました。
高校生のころから「将来は小学校の教員になる」と決めていたので、教員以外の仕事が全く浮かばず、あとは3年2組の子どもたちへの罪悪感もあり、僕は無気力状態になっていました。
僕を心配してくれた中学・高校時代の友達が、「佐伯、大丈夫か?」と訪ねてきてくれましたが、僕は何も話すこともなく、無表情で友達と会っていました(会ったうちには入らないですね。)
僕から笑顔が消え、両親からも笑顔が消え、妹と弟も心配そうな表情。佐伯家はどん底でした。教員を辞めてから、ハローワークへも何回も行きました。新しい仕事を探すために一通り
ハローワークにある職業を見て回りましたが、どの仕事も僕には響かず、ハローワークへ行くたびに落ち込んでいました。
「いつまでこの地獄が続くのだろう…何とかしなくては」と気持ちは焦るのですが、二言目には「今度はワープロやパソコンを使わない仕事がいいなぁ」と思っていました。
とりあえずパソコンだけは買い、「覚えなくては。」と思い、説明書を見てもさっぱりわからず、「どうせ俺なんか…」とまた落ち込む。
泥沼の中で必死にもがいていました。 幸い両親は「焦っても仕方ない。1年かかってもいいからゆっくり次の仕事探され」と言ってくれました。
自動車で通っていたハローワークへも、車を運転する気力もなくなり、30分かけて自転車でハローワークへ通うようになりました。
大学時代の長野に住む友達も来てくれて「佐伯はけっこう悩んでしまう性格だから、ゆっくり焦らずに。」と励ましてくれました。本当にうれしかったです。
これだけ周りの環境に恵まれているのに、どうして俺だけ… と約半年もの間、僕は前に1歩も進めませんでした。
パニック発作は教員を辞めても治らず、本当にどうなってしまうのだろう…?と不安でいっぱいでした。
25歳になり、いつものようにハローワークへ行った僕は、一つの求人カードを見つけます。「この仕事ならなんとかできるかも!」とかすかな光がようやく見えました。
その「求人カード」には、次のように書いてありました。
「小さな家庭的な職場です。」 僕は「これだ!」と思いました。その求人カードには「橋本急便」と書いてありました。
従業員は10人以下の小さな運送会社です。運転の仕事か。しかも家庭的かぁ。パソコンも必要なさそうだな。何とか拾ってもらえるかもしれん。と思い、6月に僕は橋本急便へ応募しました。
家庭的、といよりも「橋本ファミリー(家族経営)」の会社でした。橋本さんばかりの運送会社。僕の友達は「大丈夫か?お前、道とか詳しかったっけ?」・・・ 僕は富山市民です
が、富山市もろくに車で運転したこともない「方向オンチ」でした。もちろん高岡市や滑川市・魚津市なども一度も車で行ったことがありませんでした。
「家庭的な職場です」この一言を頼りに、僕はすがるような思いで橋本急便に応募しました。幸い社長は面接の時に、「将来大型の運転手になりたいとか言い出さないけ?小型の車でもいいけ?」と聞いてくれました。
僕は「はい!小型の車で頑張ります」と言いました。 そしてその場で採用が決まりました。社長の名前はもちろん「橋本さん」です。
「よかった…この仕事を頑張ってみよう!」と不安の中、僕は橋本急便のお世話になることになりました。25歳の6月のことです。
勤務日初日。僕の仕事は「午前中」「午後その1」「午後その2」と3種類の仕事に決まっていました。
運送会社では「集荷(しゅうか)」という仕事があります。これはどんな仕事かというと、橋本急便にお客さんから電話がかかってきて「荷物取りに来て!」と言われたら、そのお客さん(会社や店など)に荷物を取り行く、という仕事です。
僕の午前中の仕事は「富山市を集荷」をすることでした。無線で会社から連絡があり「〇〇」と言われるとその〇〇へ荷物と取りに行きます。そしてそこで「送り状」という伝票をもらい、何か所かで荷物を集荷してから会社に一度帰る、という仕事です。
会社に戻ると、待ち構えていた橋本急便の方たちが僕の軽トラックの荷台から荷物をすさまじい勢いで取り出し、各々のトラックにその荷物を詰め込み会社を出て目的地(富山市内の会社や店)に向け出発する、という流れです。これが「午前中」の仕事。
あとは「スポット便」と言って、僕は当時のセルラーという名前の携帯ショップ(今でいうauショップです)を富山市内の2店舗間を2往復して、古くなったバッテリーを運んでいました。
「午前中」の仕事が終わり、橋本急便へ戻って弁当を食べ、少し休憩したあと「午後その1」の仕事に向かいます。僕の「午後その1」の担当エリアは「大沢野」でした。
国道41号線を富山市から大沢野方面へ向かって行き、(僕にとっては初めての大沢野エリアでした)住宅地図を車に積んで、午後の仕事がスタートしました。
大沢野方面へ行き、北日本新聞の「夕刊の新聞記事の一部」を受け取り、一度橋本急便へ帰ってくる、という簡単な仕事でした。僕は方向オンチで道を全く当時知らなかった、ということを橋本急便の方は皆知っていたので、僕は一番負担の少ない「大沢野エリア」を任されていました。
「午後その1」の仕事が終わり、一度会社に戻ると、そこには荷物がたくさん置いてあります。
次はその荷物を軽トラに詰め込んで再び大沢野方面へ向かう「午後その2」の仕事が始まります。ただ、この「午後その2」の仕事は配送エリアがふくらみ、「大沢野」「八尾』「婦中」エリアへと一気に範囲が広くなりました。
もちろん僕はパニックに… 地図とにらめっこしながら、少しずつ道を覚えていきました。
とにかく「時間に追われる仕事」でした。目的地につくのが少しでも遅いと無線が入り「あと何分くらいで〇〇に着くけ?」と聞かれます。
最初のころは無線がなるたびにドキドキしていました。
橋本急便の方は若い方が多く、20代・30代のメンバーが半分以上でした。昔はやんちゃしてました!というタイプの方も少なくなく、入りたてのころは「あんたみたいに先生が務まる
がけ?オレたちとは対極の人間やよ?」とよく言われました。
それでも男気のある方が多かったので、僕が道に迷ってパ二くっていると無線が入り「さえちゃん、大丈夫け?あわてんでもいいよ!」とフォローしてくれました。本当にうれしかったです。
また、よくからかわれもしました。「俺たちの仕事は時間との戦いやぞ。先生みたいにのんべんたらりとはしとらんぞ!」ともよく言われました。
それでも仕事にもなれ8月になるころには、かわいがってもらえました。みなさんとても自分に自信を持って誇りをもって仕事をしており、「こんなに前向きに仕事してもいいんやなぁ」と初めて僕も自信を持って仕事ができるようになりました。
集金の月末になると仕事は地獄で「運転しながら伝票を書いたり地図を見たり、無線に応答したり…」てんてこまいになって運転していました。
それでも運ちゃんの仕事は楽しかったです。仕事も18時にはちゃんと終わるし、橋本急便の方は僕が失意で教員を辞めたことを知ってくれていたので、優しくしてくれました。
夏休みが近づくと、富山市内の小学校に荷物(夏休みの宿題など)を届ける仕事があったのですが、「さえちゃん、学校行くが嫌やろ?俺が代わりに行くちゃ!」と助けてくれました。
人の親切さが本当に身に沁みました。「本当に家庭的な職場なんだなぁ」と思いました。
8月になると「橋本急便メンバー」で岩瀬浜にバーベキューにも行きました。社長はとても優しい方で「佐伯君、いっぱい食べられ!」と言ってくれました。
半年以上、一人で暗い毎日をさまよっていた僕にとって、「橋本急便」はまさに「絶望の淵から僕を救ってくれた」職場でした。今でもあのころを思い出すと胸が熱くなります。
なんの役にも立てなかった当時の僕を温かく迎い入れてくれ、手荒く扱われることもありましたが、仕事が終わると雑談してから笑顔で帰宅できる橋本急便。僕は橋本急便が大好きでした。 もしあのとき橋本急便に勤めていなかったら今の僕はないと思います。感謝でいっぱいです。
道も富山県に関しては詳しくなりました。 今の僕は大門総合会館まで片道40分かけて通っていますが、「すぐそこ」です。橋本急便時代のあのすさまじさに比べたら、地図も必要ない、お客さんが待っていることもない、8号線をまっす進むだけ… ちょっとしたドライブ気分で大門まで通っています。
そんな楽しかった「橋本急便」も12月で辞めることになってしまうのですが、僕は橋本急便には一生頭が上がりません。本当に勤めて良かった、と今も思っています。
今でもたまに富山市内を運転していると橋本急便のトラックを見ることがあります。「よし、頑張ろう!」と思えます。
こうして僕は橋本急便の方々のおかげで いつの間にか「パニック発作」もおさまり、「うつ状態」からも完璧に抜け出すことができました。
橋本急便の次の仕事は…25歳12月。ここからが今の僕の仕事の「原点」になる仕事に就くことになります。
2023年08月09日 11:22