小学校教員→軽トラ運転手→次は?
25歳の12月にお世話になった橋本急便を辞めることになりました。僕は9月ごろから、週に2回、橋本急便の仕事が終わった後19時から中学2年生に家庭教師をアルバイトでしていました。11月に入ったころ、家庭教師先の担当の方が、「佐伯先生、うちで本格的にプロとして家庭教師やってみませんか?元教員だし、これから需要はもっと増えていきますよ」と言われました。家庭教師はアルバイトでするものだ、と僕は当時思っていたので、あっけにとられていると続けて「プロだと月40万~50万くらい稼げますよ」と言われました。
僕は、「少し考えさせてください」と言って保留させてもらいました。 橋本急便の仕事中、「月に40万円かぁ。大きいなあ」と思っていました(現在のことはわかりません。)
そして僕が出した答えは、「よし、家庭教師一本でやってみよう!」というものでした。 橋本急便の社長に辞めさせてくださいと伝え、12月、僕は橋本急便を辞めました。
僕は「富山県家庭教師協会」のお世話になることになりました。
当時はまだ家庭教師の先生も今ほど多くはありませんでした。家庭教師協会に入ってすぐに「とりあえず1年、家庭教師本業で頑張ってください。1年後に本部の方に「プロで採用お願いします」と申請します、と言われました。
当時の僕の勤務体系は、平日は17時~19時まで中学3年生の家庭教師。その後移動して19時30分~21時30分まで次の生徒さんの家庭教師。これで終わる日もあれば、その後移動して22時~24時まで中学3年生の家庭教師 というものでした。土日は午前中10時~12時まで。次は13時30分~15時30分まで。次は16時~18時まで。最後に19時~21時まで。という勤務体系でした。
家庭教師は学生時代にやっていた塾講師とは異なり、マンツーマン指導なので教えやすく、一人の生徒さんをじっくりと教えることができることが最大の長所でした。
弱点は生徒さんがつまづくと、基本的にはそこから1歩も先に進めないので、わかるようになるまで僕が手を変え品を変え教える、というところです。
もちろん、同じ説明を繰り返してもわかってもらえることはなく、言い方を変えたり違う角度から教えたりして指導していました。
体力的にも1日3件の日はけっこうハードで、「思っていたよりきついなぁ」と感じていました。 土日は4件あったのでさらにハードでした。ただ、やりがいはありました。
特に中学3年生は受験生なので、生徒さんも親御さんも必死です。家庭にお邪魔するたびにひしひしと必死さが伝わってきました。プレッシャーを感じることも多々ありました。
家庭教師の仕事の弱点は、休みがなかなか取れなかったことです。自分で休み(授業を入れない日)を決めれるのですが、当時の僕は何もわからず必死に教えていたので、受験が終わるまではほとんど休みはとれませんでした。
3月が過ぎ、最初の受験シーズンを終えて、それから7月くらいまでは比較的時間に余裕のある生活になります。 夏休みが入るころになると1日2~3件の授業が入ります。
夏休みは1日4件の日がほとんどで、お盆休み意外は基本的には休みはありませんでした。(甲子園を見ることができませんでした)
この「富山県家庭教師協会」時代は本当に鍛えられました。いろんな生徒さん(ほとんどが勉強が苦手な生徒さんで、なんとか県立高校に入りたい、という生徒さんが多かったです)
いろんな問題集を使ってみたり、新研究を使ってみたりしていました。英語・数学を中心に指導していました。暇さえあれば、本屋へ行って中学生用の問題集や参考書を見ていました(それは今も変わらないのですが…今は高校生用の参考書を見ることが圧倒的に多いです)
教える仕事をすることは小学校の教員で最後だろうなあと思っていたのですが、幸い再び子ども相手の仕事をすることができることになり、うれしかったです。
ところが、家庭教師協会で家庭教師を初めて1年が過ぎたころ、「今度は自分で仕事をしてみたい!」と思うようになりました。
給料には満足していたのですが、もうひとつ「やりがいに欠ける」と思っていた僕は「自分の塾を持ってみたい」と思うようになりました。
そして27歳になる春、僕は家庭教師協会を辞めることになります。 次なる仕事は……
僕は「住まい情報」という雑誌を見ながら「安い貸家」を探していました。 貸家を借りて「個人塾」を始めることにしたのです。どこで塾をするのか?
かなり悩みました。ただ、「富山市」と「高岡市」だけは避けようと決めていました(都会のため塾がたくさんあり、絶対に僕では通用しないと思っていたからです)
富山市・高岡市以外の富山県内を対象にして僕は住まい情報と電話帳で不動産を調べて1件1件、「安い貸家はありませんか?」と電話していました。
今みたにインターネットがなかったので、電話帳と住まい情報をセットに、僕は「とにかくテナントは高くてお金が払えないから貸家にこだわろう!」と思って富山県内を車で探索していました。
そして、住まい情報の中に「高岡市伏木、家賃15,000円」という格安の貸家を見つけました。「伏木か…一応高岡だけど、伏木だったら端っこだしライバルも少なそうだな」と思い、
僕は胸を躍らせて伏木に車を走らせました。 伏木に着いて僕は驚きました。「貸家というよりは、あばら家だなぁ」と思いました。
ちょっとした台風が来たら吹き飛んでしまいそうな、古びたあばら家を見て僕は、一瞬迷いました。「あ~,どうしよう」「でも15000円は安いよなぁ」と思いました。
不動産屋へ行き、僕は「とりあえず中を見せてもらえますか?」と聞き、とりあえずあばら家の中を見せてもらいました。そこは2階建ての「2階部分」を貸し出していました。
高岡市とはいえ、伏木は「伏木中学校」しかありません。高岡市の中でも孤立している「伏木エリア」 僕の家から伏木までは、片道40分かかります。
「少し遠いけど、伏木で頑張ってみるか!」と僕は伏木の貸家を借りることに決めました。1999年のことです。この「伏木で、僕の中で一番記憶に残っている1年が始まることになりました。
初めての個人塾。塾の名前は「寺子屋学習館」 そうです。今の大門での「寺子屋学習館」と全く同じ名前の塾を27歳になる春、僕は一人で伏木で立ち上げることに決めました。
2023年08月12日 05:28