2001年4月,上越での生活が始まりました。
富山県家庭教師協会高岡事務局の担当者のおかげで、僕は新潟県家庭教師協会上越事務局で家庭教師をすることが決まりました。両親に「新潟に永住することになると思う」と告げて僕は富山県を後にしました。
富山市から上越市高田までは約120kmあります。車で下道で片道3時間かけて上越へ行き、上越教育大学の近くにある、大学生が借りるような1kのアパートに僕は引っ越しました。
高田・直江津エリア中心に僕は中学生・高校生を担当しました。
日中は浪人生と不登校の生徒さん(中学生)、夕方からは中学生と高校生の家庭教師を担当しました。 日中は午前9時半~昼過ぎまで週に3回,酒屋さんで配達のアルバイトをしていました。
僕は「この上越に永住することになるのかなぁ」と思いながら生活をしていました。上越は「海と山」が直線でつながっていて、高田から40分で妙高高原へ、高田から20分で海のある直江津に着きます。
日曜日には「長野ナンバー」の車を直江津でよく見かけました。自然の多い所で、僕は気に入っていました。
彼女は教員7年目を新しい学校で迎えていました。彼女にとって「3校目」の学校になります。
富山―上越での6年間の遠距離恋愛をしていた僕たちにとって「同じ上越に住んでいる」ということはとても大きなことでした。
「その気になればいつでも会える」という条件は僕にとってはとてもうれしいことでした。
今までのように電話代を気にしながら電話する必要もなく、気軽に電話できました。ただ、彼女は新しい赴任先だったため、仕事から帰ってくるのが20時過ぎで、22時には疲れ果てて寝ていました。翌朝5時に起きて仕事をする、という生活をしていました。
僕は22時ごろに仕事が終わるので、「すれ違いが多い」生活ではありました。
彼女の大変さを僕は知っていたので、僕は酒屋さんでのアルバイトが終わると彼女のアパートへ行き、「夕ご飯」を作って冷蔵庫に入れて、それから家庭教師へ行く、という生活スタイルの毎日を送っていました。洗濯ものを干すこともよくあり、「なんか主夫みたいだなぁ」と思っていましたが、特に違和感はなく、「先生と結婚するっちゃ、こういうことやろ」と
思っていました。
土日はゆっくりと二人で会うことができたので、「近くに彼女がいるのはいいなぁ」と思っていました。
1学期が終わり、夏休みに入ると「彼女のご両親に会いに行く」ことになりました。
どちらから言い出したのか忘れてしまったのですが、初めて彼女のご両親が住んでいる長岡に行くことになり、僕は「いよいよ結婚が現実的になってきたな」と思っていました。
もちろん、めちゃくちゃ緊張しました。真夏の暑い中、スーツを着て僕と彼女は長岡へ車を走らせました。
彼女のお父さんは建築の設計の仕事をされている方でした。酒屋さんの仕事仲間の先輩は、「佐伯君、設計の人は理系だから、論理的な話が好きだと思うから、だらだら話すのではなく、理屈っぽく話した方がいいよ」とアドバイスしてくれました。
「はい、わかりました!行ってきます」と言ってはいたものの、いざ彼女のご両親を目の前にすると僕は緊張してしまい、何を話していたのか、ほとんど覚えていません。
彼女のお母さんが、僕の大好きな「酢豚」をふるまってくれました。うれしかったです。僕は当時、彼女に「将来的には富山の伏木のときみたいに、自分の塾をやりたい」と言っていた
ので、彼女のご両親にも「今は家庭教師をしていますが、将来的には個人塾を開きたいと思っています」と言いました。
「そうか、自営業か…頑張ってください」と彼女のお父さんが言ってくれました。とてもうれしかったのを覚えています。
彼女の実家は長岡市で、彼女の勤務地は上越市。長岡と上越は60km離れていて、上越から長岡までは車で8号線をひたすら進んで1時間30分かかります。
僕は「富山県に近い上越に住みたい」と思っていて、彼女も「上越に住もうね」と言ってくれていました。
お盆休みに僕は富山に帰ってきて、仲のいい友達に「もうすぐ結婚すると思う。多分上越に住むことになるわ」と話していました。友達は「そうか、頑張れよ!」と応援してくれました。
…… 今、冷静に振り返ると「結婚秒読み」ですね? でもそんな彼女と僕は11月に別れてしまいます。 ひどい話ですね。
理由は、「教員と結婚する」という現実が僕には受け入れる自信がなかったからです。
当時の彼女は「朝5時に起きて仕事して学校へ向かい、20時すぎに家に帰ってきて22時には疲れ果てて寝る」という生活スタイルでした。
僕は朝8時に起きて9時半~13時ごろまで酒屋さんでバイト。それから彼女の分の夕ご飯を作って洗濯して洗濯物を干して、14時半から22時まで家庭教師。それから帰宅。
このまま彼女と結婚できたとして、家事はほぼ全部僕がすることになります。これでもしも子どもができたら……育児も全部俺の担当になるのかな?と考えると怖くなりました。
彼女のご両親に会いに行っておきながら、僕は迷い始めました。 もしも彼女が教員でなく、普通の会社員だったら、僕は迷うことはなかったと思います。結婚していたと思います。
友達にも相談していました。「もし、お前が仕事から帰ってきたら奥さんが寝とって、お前が洗濯して干して、家事はお前が担当することになるとしたら、お前はどう思う?」と聞くと
「確かに厳しいかもしれんの。」と言っていました。「そのうえ子どもができて、育児もお前担当だとしたら、どうする?」と聞くと「あ~それはかなり厳しいわ。俺には無理やわ」と言っていました。
僕は「それでも6年も付き合って彼女のことが嫌いではないから、家事くらいで迷ったりするな!」と自分に言い聞かせようと何回も思いましたが、「絶対に無理」と思ってしまいました。
そして、6年も遠距離恋愛をして、同じ上越に住んでいたにも関わらず、僕は「彼女と別れる」という決断をしました。
今振り返っても、あの「決断」が正しかったのか?わかりません。 何回もやり直そう、と思ったのですが「家事」「育児」という「現実」を突き付けられると彼女が教員を辞めない限り結婚はできなかったと思います。
こうして僕は1年間の上越での生活を終え、入試が終わった翌年3月に、3たび富山県に帰ってくることになりました。
24歳のときに教員として三条市に住んで、でも教員を辞めて富山へ帰ってきて、次は28歳の4月に上越に住み始めて、でも彼女と別れて富山へ帰ってきて…
「新潟県には縁がなかったなぁ」と思います。
荷物をまとめて上越のアパートを去るときは、とても複雑な思いでした。彼女に「今までありがとう。富山で頑張るちゃ」と言って僕は富山へ帰ってきました。
……人生って思うようにはいかないんだなぁ、と思いながら僕は富山へ帰ってきました。
2002年、4月 今度は「独りぼっちになって」僕の新たな生活が始まろうとしていました。
2023年08月21日 08:09