個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

わからない所が1つずつわかるようになる、達成感ある授業を心がけています。

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哀しくてジェラシー / チェッカーズ

僕が小学5年生のころ、チェッカーズというバンド(アイドル?)がデビューしました。

メンバーは福岡県久留米市出身の7人で構成されていました。

僕は当時、歌番組を全く見ていなかったので、当時の音楽事情には詳しくなかったのですが、同じクラスの同じ生活班の女子の1人が

チェッカーズの大ファンで「佐伯もチェッカーズ聴いてみて!良い曲が多いよ」と言っていました。

そうかなあと思い、歌番組「歌のトップテン」を見てました(当時富山県ではベストテンは放送されていませんでした。テレビの民間放送は

フジテレビと日テレだけ放送されていました。テレビ朝日とTBSは入っていませんでした。)


当時は「涙のリクエスト」という曲が流行っていて、この曲はチェッカーズの2枚目のシングルになります。


1984年,小学6年生になり、僕たち豊田小学校サッカー部は夏休みに「立山杯」というサッカーの大会に出場しました。

当時は豊田小学校ではなく、FC(豊田小学校,岩瀬小学校,草島小学校の3つの小学校で1つのチームを結成していました)

大会に出場していたチームの半数以上は県外の強豪チームでした。

僕は当時、嫌々サッカー部に所属していて(小学5年生からはゴールキーパーをしていました)とにかく監督がめちゃくちゃ怖くて暴力的な監督

だったため、辞めたくて辞めたくて、でも怖くて親にも言えず、半ばあきらめ状態でサッカーをしていました。

鬼のような練習時間だったため、確かに豊田小学校サッカー部はとても強く、6年生のときは50試合以上して、富山県内の公式戦で負けたのは2回のみでした。

(KNB杯という、全国大会の富山県予選4回戦で富山東部小学校に0-1で負けました。

6年生の秋に行われた島田杯という県大会で新庄小学校に0-1で負けました。)


立山杯の話に戻ります。

夏休みの暑い中、3泊4日(だったと思います)で毎日試合をしました。予選→決勝トーナメントと勝ち進んでいきました。

大会の初日が終わった夜、キャンプファイヤーをみんなでしました(これは楽しかったです!)

各チームごとに出し物をすることになり、ふと他チームの出し物を見ていました。


そのときに、金沢南FCというチーム(金沢市のいくつかの小学校が寄せ集めで作ったチーム)がチェッカーズの「哀しくてジェラシー」に合わせて

踊っていました。

僕は「あっチェッカーズだ!」と思い、金沢南FCの選手の踊りとチェッカーズの歌に夢中になっていました。

そのときのインパクトが強すぎて、僕はその日以来、チェッカーズの大ファンになりました。


当時のチェッカーズはものすごく人気があり、特にボーカルの藤井フミヤさん(通称フミヤ)が圧倒的な人気を誇っていました。

カッコよく、歌もうまく、チェッカーズの中心的人物でした。


僕は中学に上がるとますますチェッカーズのファンになり、1個下の後輩がチェッカーズのレコードを全部持っていたため、その後輩に頼んで

チェッカーズのシングル曲を全部録音してもらいました。

当時のチェッカーズの曲は、売野雅さんが作詞,芹沢廣明さんが作曲を担当されていて、どの曲も歌番組でトップ10入りしていました。


やがて僕は中学生→高校生→大学生→社会人になり、29歳~32歳くらいにかけて「1人カラオケ」を趣味にしていました。

当時は録音できるカラオケハウスがあり(富山市山室にあるカラオケ飛行船によく行っていました)録音したあと、冷静に自分一人で聴き直していました。

1人カラオケではいろんな歌を歌ったり練習したりしていましたが、チェッカーズの「哀しくジェラシー」はかなりの回数歌っていました。


今はもうほとんどカラオケには行かなくなりましたが、たまにスナックなどで歌うときは「哀しくてジェラシー」を歌うことがあります。


のちにチェッカーズは解散してしまいますが、僕は今でも車の中でチェッカーズの曲(アルバムもよく聴いています)を聴きます。

小学生~中学生にかけてチェッカーズの曲を毎日のように聴いていました。

「男と女はすれ違い 初めて本気で愛したのに  

男と女は哀しいね ふたつの寂しさ重ねたら woo  ジェラシー」

という歌詞が好きでした。
2025年05月19日 13:26