個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

わからない所が1つずつわかるようになる、達成感ある授業を心がけています。

ホームブログ ≫ 抱きしめてtonight / 田原俊彦 ≫

抱きしめてtonight / 田原俊彦

1988年春、月9ドラマで「教師びんびん物語」というタイトルのドラマが入り始めました。

田原俊彦さん,野村宏伸さん,紺野美沙子さんの3人が主演の教師シリーズのドラマです。

僕は中3のころから高校1年生にかけてずっと「将来は小学校か中学校の先生になりたい」と思っていました。

理由は中学時代のサッカー部の顧問の先生がとても優しくてさわやかな先生だったため

「俺も将来は先生のように、生徒から慕われるような先生になりたいなぁ」と思っていました。

その時に月9ドラマで「教師びんびん物語」が始まりました。

当時はもちろん、教員の仕事内容も環境のことなども知らなかったため、ドラマの名場面を見て感動していました。


当時は「ラジオびんびん物語」というドラマが以前に入っていて、そのときから田原俊彦さんと野村宏伸さんはタッグを組んでいました。

ドラマを見ながら「俺もこんな教師になりたいなぁ」とおぼろげに思っていました。

もちろん、現実の世界の教員の仕事は多く、ドラマのように授業がメインの仕事ではありませんでした。

小学校の教員の実態は「職員室で自分の受け持っているクラスに関する仕事」よりも「学校単位の仕事」が多かったように思えます。

しかも学校単位の仕事というのは、全く面白みのない仕事でした(僕は雑用と心の中で思っていました)

毎日職員室に夜10時半くらいまで残って仕事をしていました(といっても僕は新採用なのでそんなに仕事がなかったのですが、

先輩教員の仕事ペースに付き合わされ、結局毎日夜22時~23時ごろまで職員室にいる羽目になりました。

もちろん今だったら「度の過ぎる残業は禁止されているため」19時くらいにはどの先生も帰られる、と思っていますが。


現実の学校は、夢見ていた僕にとっては「地獄の世界」でした。

教員の仕事は受け持っているクラスの子どもたちのための仕事(授業準備や日記などに返事を書いたりすること)ではなく、学校単位の仕事

ばかりで、「この事実を受容できた人」にしか小学校教員という仕事は務まらないと思います。

僕は授業が好きでクラスの子どもたちといっしょに過ごす時間が好きでした。

でも職員室での仕事(誰も教科書を開いて授業準備などはしていない)には、幻滅しあきらめを感じていました。

結局僕は1年もたずして教員を辞めましたが、今思うとそれで正解だったのかなと思います。

給料がちょっと高いだけで、あんなブラックな仕事は金輪際したくないと今でも思います。


さて、教師びんびん物語の主題歌「抱きしめてtonight」には振り付け(踊り)がありました。」

高校1年生のとき、僕は田原俊彦さんが歌番組で歌っている姿を録画し、必死になってふりつけを覚えていました(今はもう忘れてしまいましたが)

「歌手は大変だな。」と思いました。

教員を辞めてからは「軽トラックの運ちゃん」を半年ほどしていましたが、結局教えることと子どもが好きなことが重なるような仕事を探していました。

そして富山県家庭教師協会という大手の「家庭教師派遣会社のお世話になり、中学生(ほとんどが3年生)の家庭教師をしていました。

家庭教師時代はいろんな生徒さんを担当させてもらい、マンツーマン授業をひたすらこなしていました。

ほとんどの生徒さんが「県立高校だったらどこでもいい。県立に行きたい」という生徒さんでプレッシャーはもちろんありましたが、

でも小学校の授業とは異なり中学生は教えやすいので、楽しかったです。

ただ、休日が年間を通して20日くらいしかない現実に打ちのめされてもいました。

労働時間は短いのですが、授業準備【問題を選んだり、解いたり、解説を考えたりする時間)に膨大に時間がかかりました。

特に最初の10年は授業準備に悪戦苦闘していました。

今はもう教員という仕事に未練は全くないのですが、教員を辞めた当初は周りから「安定している公務員を辞めたん?もったいない」と

100回くらい言われました。

今でこそ笑って話せますが、教員をやめたときは、「この先どうやって生きて行こう・・・」と1年以上思っていました。

何度となくハローワークに行って、そのたびにため息をついて帰ってきていました。

ドラマと現実は大きく異なりますが、僕は「抱きしめてtonight」を聞くと高校生だったころ、教員になると燃えていたころを

思い出します。

そういう意味では、田原俊彦さんの歌を聴くと今もスイッチが入ります。
2025年05月23日 08:33