最後のラーメン 1987年秋 15歳
昨日の大門総合会館は中学生・高校生であふれかえっていました。ものすごい熱気を感じました。高校3年生は共通テスト,中学3年生は内申に関わる最後の期末テストが近づいています。
うわ~ すごい。頑張っとるなぁ、と思いながらいつもの502号室へ。
寺子屋生ももちろんやる気満々。特に中学3年生はこれまでの定期テストとは異なり、オーラを感じました。
授業が終わって帰り道、ふと僕の中3時代を思い出していました。最後のラーメン事件・・・
僕が中学生だった1980年代は、ファミコンの全盛期でした。ゲームの種類です。
僕は中3になった春、あまりにもファミコンばかりしていたので(スーパーマリオとか)、父親が激怒して
「お前、受験終わるまでゲーム禁止や!!」と言われ、ファミコンを没収されてしまいました。
悲しかったです。もちろん、だからといって頭を切り替えて勉強したわけではありません。
当時の父親はものすごく怖く、口答えなんぞしようものなら「お前、もう1回言ってみい」と言われ反抗期だった僕でもおびえいていました。
殴られはしませんでしたが(小学生のときは毎週のように殴られていました)怖かったです。
ゲームをとりあげられ、それでもどうしてもゲームがしたかった中3生の僕は、毎週土曜日に部活が終わると(当時は午前中学校の授業があり、午後から部活で
午後4時くらいに部活が終わっていました)友達の家に行って心おきなくファミコンをしていました。
ファミコンをしたり好きな女子の話をしたり、中学生らしい土曜日を過ごしていました。
やがて7月に部活を引退して、受験モード、のはずが僕は全く勉強せず、夏休みは週に3回は後輩と岩瀬浜に釣りに行っていました。
夏休みが終わり、学校へ行くと当時僕のライバルだった同じ部活の友達が真っ白な顔をして登校してきて、僕はめちゃくちゃ焦りました。
うわ~こいつ、真っ白や。夏休み猛勉強したんやな・・・
めちゃくちゃ後悔しました。あとで知ったのですがその友達は「毎日ビリヤード」へ行っていたそうです(笑)そりゃ顔白いわ。
ビリヤードは室内でするゲームなので、日焼けはしません。
2学期になっても僕は相変わらず毎週土曜日に午前中で学校が終わるとそのまま買い食いをして友達の家へ行き、ゲームをしていました。
月曜日~金曜日まで全くゲームができなかったので、土曜日が待ち遠しくて待ち遠しくて、たまりませんでした。
土曜日に友達4~5人で毎週集まってゲームをする。そんな土曜日を過ごしていました。
季節は過ぎて秋。 ここで「事件」が起きました。ラーメン事件。
11月に入り、こりもせず受験生という立場を忘れて土曜日になると友達の家へ行っていると、そのとき友達(一番仲の良かった友達)が突然
「来週の土曜日、ラーメン食いに行かんか?西山ラーメンでも行かんか?」
と言いました。
僕は「急にどうしたんだろう?」と思いましたが「いいよ」と言いました。
そして11月のある土曜日。いつものメンバーにさらに3人増やして合計7人で、土曜日の夕方、僕たちは「西山ラーメン豊田店」へラーメンを食べに行きました。
いつも通り、わいわいガヤガヤ楽しい時間を過ごし、ラーメンを食べ終えた帰り道・・・ ふとその友達が
「あのさ、今日で遊ぶが最後にしようぜ。受験近いし…」
僕は頭をハンマーでたたかれたような気分になりました。ものすごくびっくりしたのです。
そいつは決して成績が優秀なヤツではありませんでした。
でもそいつは当時、クラスで一番人気があって、カッコよく女子からもかなりモテているようなヤツでした。
発言力があり、友達からの人望もある、ちょっと不良っぽいヤツでした。
そんなヤツがいきなり「勉強しようぜ」と言った・・・
先生や親にことあるごとに「今勉強せんと、あとになってから後悔するよ」と何回言われても何も思いませんでしたが、
そいつが言い放った一言に僕は衝撃を受けました。
ああ、こいつマジだな。俺もそろそろ受験モードに入らんとダメなんかな?とそこで初めて自分が受験生であることに気づかされました。
……その夜はただただショックでした。あんなにちゃらんぽらんなヤツでも、切り替えたんやな。 そいつには7歳上の姉がいました。
その姉の姿を見ていたのでしょう。そろそろ受験モードに切り替えないと間に合わない・・・
自慢するわけではありませんが、僕は当時、全県模試を受けては、いつも富山東高校B判定でした。
どこかで「まぁ大丈夫だろう。B判定だし。受験近づいたら勉強すれば間にあうやろ」と慢心していました。
完全に天狗になっていました。
もちろん、受験はそんなに甘くはありません。
12月に入り、三者面談の時期になり、いよいよ周りの友達も本気モードに入ってきていました。
土曜日も友達と遊ぶことはなくなり、僕はようやくスイッチが入りました。
はっきり言って遅すぎました。 受験の神様は僕みたいな「なまくら者」には味方はしてくれませんでした。
12月に受けた育英模試で僕は初めて「富山東高校C判定」をとってしまいました。
育英センターの3者面談では「呉羽高校も考えてください」 と言われてしまいました。
ものすごく落ち込みました。僕は当時、富山東高校しか頭にはありませんでした。
呉羽高校には絶対に行きたくはありませんでした。それには「ちゃんとした理由」があったのです。
聞いて下さい。 それは呉羽高校のパンフレットを見たときのことです。
「格技大会」の写真が掲載されていました。剣道の試合をしている写真です。
その写真には、周りじゅうが大勢の女子。その中で剣道をする、という写真でした。
当時の僕にはその風景があまりにも衝撃で「こんな恥ずかしいこと、絶対にしたくない!!」とブチ切れました。
まあ当時は15歳。 もちろん女子とつきあう、なんてこともありませんでした。いたって硬派。
そんな僕が呉羽高校に行ったら・・・ 当時呉羽高校は男子:女子=1:3の割合で、圧倒的に女子が多かったのです。
もちろん、その環境が嫌とは言いません。でもあの剣道の写真・・・
冗談じゃない。あんな大勢の女子の見る前で剣道なんか絶対にしたくない!と反発しました。
あとは呉羽高校の制服も僕には気に入りませんでした。
当時は男子高校生の制服は学ランが主流でした。
もちろん、富山東高校は学ランでした。あこがれの東。 一方呉羽高校はブレザーにネクタイ。
冗談じゃない。何が悲しくてネクタイなんか… それならまだ富山第一高校の方がよっぽどマシや。
当時、富山第一高校の制服は学ランでした。 もちろん私立高校なので行きたくはありませんでしたが、
それでもブレザーよりはマシ。
と強烈に思っていました。今振り返ると、呉羽高校の方には大変申し訳ないと思うし、僕の弟は呉羽高校に通っていました。
僕の弟のクラスは男女とても仲が良く、今でも呉羽高校の友達とのつきあいがあるほど男女仲良しです。
それはそれで良かったのでは… と今でこそ思えますが、当時は血気盛んな中学生。
無理なものは無理。
何がなんでも東に行きたい!とようやく、ようやく目が覚めました。
それからの僕は人が変わったように猛勉強しました。学校から帰ってきてから夕方5時~7時まで勉強。
夕食を食べてから8時~11時までぶっ続けで勉強。そして入浴→就寝 という、毎日5時間勉強。
日曜日は7~8時間勉強しました。
そして受験。 僕が受験した1988年3月の 富山東高校の定員は400人。受験者が455人。 倍率は1.14倍でした。
僕の受験結果は… 残念ながら不合格でした。
今でもあのときの悔しさは忘れません。死ぬまで忘れることはないでしょう。
しかも当時、僕の中学校から富山東高校を受験した3年生は17人いて、落ちたのは僕だけでした。
挫折。屈辱。
あのときの不合格があったから大学入試では 合格できたのだと今では思えますが、15歳・人生初の挫折はやっぱり悔しかったです。
東高校の合格発表を見に行き、不合格なのを知ったあと、僕は泣きながら自転車をこいで家に帰りました。
帰り道・・・ 「絶対に猛勉強して3年後に東の奴らを見返してやる!!」
そう心に誓い 家に帰りました。
家に着くころには心も落ち着き、 家族が待っていました。
おにぎりがたくさん作ってあり、父親、母親、妹、弟が待っていてくれました。
僕は「ダメだった・・・」と言ったと同時に泣き崩れました。
家族全員が泣きました。
母は「お母さが、あんたに勉強しられ、勉強しられって言ったから、あんた勉強せんかったんやね?ごめんね。お母さんのせいやね。」
とかばってくれました。 本当に悔しくて、勉強しなかった自分を責めました。
高校受験に落ちた人の気持ちは、やっぱり「落ちた人」にしかわかりません。
受かった人にはわかるはずもなく、わかってほしくもありません。
今、俺が中学生と勉強していて思うことはただ一つ。 とにかくどこの高校でもいいから受かってほしい・・・
オレと同じ失敗を絶対にしてほしくない、それだけを胸に、日々指導にあたっています。
2025年11月15日 08:12
