なぜ僕は塾生をめったに叱らないのか?
僕は塾生にはとても甘く、しかったりすることはほとんどありません。何でこんなに甘いのだろう?と考えてみました。
答えは僕の小学生時代にさかのぼります。
僕は小学2年生の6月1日からサッカー部に入りました。当時の豊田小学校のサッカー部は富山市内では結構強く、特に高学年の先輩たちは上手で、富山県の中でもベスト4には入るほどの強さでした。
僕は小学2年生ながらに「俺たちの学年も強くなればいいなぁ」と思っていました。
ところが僕は小学3年生の夏休みに??と思い始めるようになりました。
小学3年生の「夏休み」に僕たちは「地獄の夏休み」を過ごすことになりました。
まだ小学3年生。遊びたいさかりだったのですが、僕ら豊田小学校サッカー部の夏休みの練習時間は、「午前の部」が朝8時~12時まで。
普通だったら、ここで終わるはずなのですが、当時は「午後の部の練習」もありました。
「午後の部の練習」は午後4時~夜7時まで。最後にグラウンド10周~20周、という練習メニューでした。
幼いながらに「友達と野球をして遊びたいなぁ」と思っていました。
夏休みは毎日7時間プラス最後にグラウンド10周、という地獄のような夏休みを過ごす羽目になりました。
しかも当時は「練習中に水を飲んではいけない」と言われ、僕たちはのどをカラカラにしながら、死ぬような思いで練習していました。
この練習メニューは小学校を卒業するまで毎年「夏休み中」続きました。
とにかく僕たちは「夏休み」が大嫌いでした。サッカー漬けの小学生。
まるで、全国優勝するかのような練習メニューでした。
練習時間もさることながら、僕は高学年になるとさらなる地獄タイムを過ごすことになります。
僕たちのチームは当時、小学5・6年生を「Aリーグ」、小学3・4年生を「Bリーグ」、小学1・2年生を「Cリーグ」と呼んでいました。
僕たち富山市内の小学校には「育成リーグ」という、ちょっとしたリーグがありました。
全部で13チームくらいの小学校が前期と後期で総当たり戦で合計2回戦い、年間で24試合して順位をつける、というリーグでした。
僕の学年は4年生とのきに初めて「Bリーグ」で優勝しました。とてもうれしかったのをよく覚えています。
勝った方がリーグ優勝になる、決勝戦の相手は総曲輪小学校でした。
その試合に勝ち、僕らは優勝しました。
ここまでは「つらい練習にも耐え、何とか楽しくサッカーをしていました」
ところが、5年生になると「監督が代わりました」
ここからが「恐怖の毎日」が始まりました。
4年生までの監督は優しく、僕たちに手を上げるようなこともいっさいありませんでした。
話をして僕たちに戦い方を教えてくれる、というタイプの監督でした。
ところが5年生、「Aリーグ」の監督は、暴力を平気でふるう怖い監督でした。
練習中に「〇〇、ちょっとこっち来い」
この一言で先輩や友達が監督に呼ばれ、暴力をふるわれました。
往復ビンタは当たり前で、何よりも怖かったのが、監督がまだ小学生である僕らの腹を思いっきり蹴り上げる、という暴力でした。
まるでヤクザのような仕打ちに、僕たちは恐怖で震えあがっていました。
3か月に1回くらい、このような「鉄拳制裁」が行われ、僕たちは何も言えずにただただ、おびえていました。
もちろん、今だったら大問題です。親御さんたちも黙ってはいないでしょう。
でも当時はそれが当たり前でした。
試合があるときは、試合の合間に「陣とりゲーム」などをして遊んでいるのが見つかると「お前ら正座せい。目をつむれ」と言われ、
監督は僕たちが正座している列の2mくらい前に立ち、その位置から僕たちめがけてサッカーボールを無差別に蹴りました。
もちろん、誰かの体にボールがぶつかりました。
僕は、薄目をあけながらその様子を怯えながら見て、耐えていました」
試合に負けると稲荷公園から豊田小学校まで2時間くらいかけて雨の中、走らされたり、草島小学校から豊田小学校まで走らされたりしました。
僕はとにかくサッカーが嫌で嫌でたまりませんでした。
何回も「辞めたい」と思いましたが、怖くて親にも言えず、結局小学校を卒業するまでサッカー部にいました。
あれだけ練習すれば、強くもなります。僕たちの学年は6年生のときも育成リーグで20勝2引き分け、という圧倒的な強さで優勝しました。
もちろん、あんまりうれしくはありませんでした。
早くサッカーから逃れたい、そのことだけ考えていました。
長々と小学生時代のサッカー部のことについて書かせていただきました。
とにかく僕は小学校のサッカーを終えて「やっと監督から解放された」とホッとしました。
もう腹を蹴り上げられる心配をする必要はなくなりました。
この「地獄の小学生時代」を経て、そして「教育学部で学んだこと」を通して僕は「俺は絶対にサッカー部の監督みたいな教師にはなりたくない!」と強く決心しました。
そのため、僕は今の寺子屋では、塾生をわけもなく怒ったりすることは、まずありません。
よっぽどのことがない限り叱ることもありません。
叱ることのないような授業・塾生との接し方をするよう心がけています。
勉強がわからないから塾に来てくれているのだぞ、といつも自分に言い聞かせて授業をしています。
もちろん僕も人間なので、何回も同じ失敗を塾生がすると思わず叱りたくもなるのですが、そんな時は言葉を変えて教え直しています。
暴力なんて論外です。
勉強は大変ですが、結果が出たときはやぱり僕もうれしいものです。
塾生の部活のことを聞いたりしながら、リラックスして塾へ通ってもらえるよう、心がけています。
……僕が小学生時代に味わった「恐怖」
あれだけ自分が嫌な思いをしたから、教える立場になっている今、くれぐれも塾生に嫌な思いをさせないよう、細心の注意をいつも払っています。
そのうえで結果が出たときは、思い切りほめて、僕もいっしょになって喜んでいます。
嫌々塾へ来るのではなく「今日はこんなことを質問しよう!」と思ってもらえるよう、接し方・教える態度にはくれぐれも注意していこうと思っています。
PS:今日は読んでいてうんざりすようなブログになってしまいました。すみません。
次回のブログは「地獄の小学生時代」の次に待ち受けていた「まるで青春時代!中学時代のサッカー部の顧問の先生について」書かせていただきます。
僕が教員も目指す、最初のきっかけになったN先生のことについてお話させていただきます。
2024年10月24日 14:19