個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

わからない所が1つずつわかるようになる、達成感ある授業を心がけています。

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ピエロ / 岡村孝子

岡村孝子さんというアーティストをご存じでしょうか?

僕が小学生のときに、「待つわ」という曲が大ヒットしたのですが、そのときに「あみん」という女性デュオがいらっしゃったのですが、そのうちの片方の女性です。

あみん、という女性デュオは岡村孝子さんが椙山女学園大学に在籍していたときに、集会があり、その時に偶然彼女の前に並んでいた女性に声をかけ、「あみん」が誕生しました。

「待つわ」という曲が大ヒットしたときは2人ともまだ大学生だったため、相方の方(加藤なんとかさん。名前忘れました。すみません)「学業に専念したい」ということで、「あみん」は解散しました。

「待つわ」を作詞・作曲した岡村孝子さんは、そのまま大学を中退して、芸能界に残り、ソロでデビューしました。

彼女は女性の心理(恋心?)を詞にするのが得意で、女性からの支持がかなり高いアーティストです。

僕は高校1年生のときに、偶然CMで流れていた曲が気になり、学校帰り、友達数人で文苑堂で岡村孝子さんのCDを3枚ほど借りてきて、O君の家でとりあえず1枚目から順番に曲を流してみました。

その時に偶然「あっ、この曲いいなぁ」と思ったのが「ピエロ」という曲でした。

最初はメロディーがいいなあと思い、次に歌詞がいいなあと思い、ピエロという曲が好きになりました。


大学に入ったばかりのころ、クラスのメンバーでカラオケに行った時、一人の女子が「岡村孝子ってさ、いい曲多いけど、ちょっと執念深いよね~」と言っていました。

そうなのかなぁ、と僕は思っていました。

高校生~大学生のころは、岡村孝子さんの曲をよく聴いていました。

僕は彼女のコンサートに行ったことがなく、Youtubeでしか、彼女のコンサートを見たことはありません。

Youtubeを見ながら「何でこの人は、ひまさえあれば手を振っているのだろう?」と今も少し疑問に思うのですが、お客さんに手を振っているのかな、と思います。


 岡村孝子さんの曲には、僕のお気に入りの曲は数曲ありますが、「ピエロ」という曲が一番ポップで、好きな歌です。

 報われない女子の心情を歌ったような歌ですが、いい曲だなあと思います。

彼女は数年前、白血病になってしまい、闘病生活をされていました。

今は多分もう復活しているのかなと思います(詳しくはわかりませんが…)

これからも元気に「明るくポップな曲」「少し大人しめの聞かせる曲」を歌っていてほしいなと思っています。
2026年10月06日 11:49

Kiroro 好きな人

毎日、会社まで車通勤していらっしゃる方は、いつも車の中でどんな音楽を聴いていますか?

中にはテレビを見ていたり、好きなブルーレイやDVDを見ている。またはラジオを聴いている、朝だと化粧直し?をしている方もいるかと思いますが…


僕は大門まで通勤するときは、行きも帰りも好きな曲を聴きながら運転しています。

大門まで行くときは、基本的に気分は暗いので、比較的おとなしめな曲を聴いています。

最近だと必ず聴いているのが、kiroroの「好きな人」という曲を聴いています。

Kiroroというと、普通は「長い間」とか「未来へ」「ベストフレンド」などが有名ですが、僕はもちろん、その3曲も好きなのですが、「好きな人」という曲がkiroroの中では1番よく聴いています。聴いていると落ち着く、というか、気分が安定する、というかんじです。好きなんでしょうね…

この曲は「離れ離れになるカップル(夫婦?)の歌を描いた曲かなと僕は解釈しています。空港で二人が抱き合っている風景が思い浮かびます。


寝る前に部屋の電気を消して、真っ暗の中でYoutubeを見て、1日を振り返る、というのが僕の日課なのですが、Kiroroは結構好きです。

浜田省吾さんの曲も聞きますが、浜省の場合、落ち込んでいるときに聴くと「さらに落ち込んでしまうこと」がたまにあるので、そういう時は極力他のアーティストの曲を聴いています。

塾が終わり、大門から帰って来るときは8号線はかなりスピードを出している車が多く、ものすごく疲れるので、僕は他の道から帰っています。

仕方なしに、トナミ運輸あたりからは8号線に合流してしまうのですが、夜の8号線はけっこうあおって来る人とかが多く、追い越し車線は走りません。

ゆっくりと帰りたいので、疲れているときは、八町あたりまで、裏道を通って帰ります。8号線を運転するのは苦手です。


kiroroの2人は現在は主だったコンサートはしていないと思います。

地元沖縄の小学校や施設などを周り、好きなように音楽活動をされている、というような記事を以前読みました。

子育て中でもあるため、あえて仕事はセーブしているのかな?と僕は勝手に解釈しています。

かつて2回、僕はkiroroのコンサートに行ったことがあります。初めて行ったのは30歳の時に新川文化ホールでのコンサートでした。

ボーカルの玉城千春(たましろ ちはる)さんが、とても歌が上手でびっくりした記憶があります。透き通った声で感動しました。

2回目のコンサートは32歳の時に、新湊中央文化会館(現、高周波文化ホール)でのコンサートに行きました。旧新湊市にある会館です。

それ以来、kiroroのコンサートは行けていないのですが、機会あれば行きたいなと思っています。
2026年10月05日 16:02

2026年10月3日(土)22:03 ひとり言

やっぱりクラス会楽しかったな、とか、久しぶりに会えて嬉しかったなとか、 逆に会えなくて残念だったなとか…着物似合っとったなとか… 

高校時代の友達はやっぱり特別な存在なんだなと改めて思いました。

 高校1年生の夏休みに、上市の自然の家?みたいな所で2泊3日の「勉強合宿」のことを今日ずっと思い出していました。

あのときは「18組の女子と、もしかしたら話せるかもしれん。こんなチャンスこの先ない!」と前々から友達と言っていたな。 

18組の女子の人の顔と名前がまだ全然一致してないから、この機会に1人でも覚えられたらいいなあとか思っていました。

まあ結局誰とも話せずじまい。広場みたいなところで僕の友達のI君はあの時、自慢のバドミントンを18組の女子の前で披露しとってうらやましかった…俺は一人でイジけとったなぁ。 

俺はひたすらチャートを解いていた。でもあの時は「18組の女子と同じ教室で勉強できただけで嬉しかったなあ」とか…

でも夜の自由時間のときに、男子だけで「誰が好きなん?」という話で盛り上がっとったな。あの時間が一番楽しかった。

今回のクラス会、事前に「この人とはこんな話をしたい!」とか、何も考えずに出席してしまった… あっという間に終わってしまった。

もちろん、楽しかったけど、男子の3次会に行くべきだったかなとか少し後悔。まあでも今さら嘆いても始まらん。 


…高校1年生の1学期、僕はI君と異常に仲が良く、多分一番仲が良かったのかな?今回はクラス会来てなかったけど。2週間に1回のペースで長電話してました。

何を話していていたのかまでは全く覚えてないけど、彼はとても話上手で、僕の知らないことをたくさん知っていて頭が良かった。 うらやましかったな。

初めてI君の家に遊びに行った時、梨畑の中に家があり、猛烈に感動した! 「こんなとこに住んどる人おるがや。いいなぁ」と思った。

「なんで天井から、かぼちゃぶら下がっとるが?」って聞いたら「それだけ許さん!」て、しかられた(笑) なんでそんなことで怒るが?と不思議だった。

僕は当時「めぞん一刻」がすごく好きでその話をしたらI君は「俺もめぞんは好きだけど…読んどったら五代さんと自分が重なってしまうから嫌や」と言っていた。

確かに髪型は五代さんとそっくり。性格も女々しい、優柔不断。俺も人のこと言えんけど…

あいつは元気にしとるがやろうか?メールでは元気そうだったし、10月に富山に帰ってこれるかもしれん、と言っていたけど、結局帰って来れずじまい。残念や…


  H君ともいつも一緒に学校から帰っていたな。毎回毎回「古典わからん。勉強せんなん」と二人で言いながら卒業式を迎えた。(汗)結局勉強せずじまいだったなぁ。 

H君は高校入試直前にもかかわらず「アメリカ50州を暗記してしまった。だから落ちた(笑)」と自虐的に言っていたなあ。そりゃ落ちるわ(笑) 思い出してきた。

しょっちゅう「因数分解わからん。教えて」と俺がH君に電話していた。彼も頭が良く、何回も何回も丁寧に俺に教えてくれた。その頭の良さに頭が来た(笑)

H君から3年生の正月にもらった年賀状に「あけましておめでとう。でも大学に合格してからおめでとうと言いたいね!」と書いてあって、その通りやなと思った。嬉しかったな。 

H君も長年会ってない。

H君はこともあろうに、自分が受験した東高校の前をいつも通って一高に通っていた。かわいそうに…

俺は俺で、毎日一高にチャリで通うときは、ことごとく逆風。一方、東の人たちは簡単に前に進んでいた。その姿を見て毎日「絶対こいつらだけには負けたくない!」と思っていた。

「新潟運輸」の会社の大きな看板を毎日一高へ行くときに見て、「絶対に新潟行きたい!」と思って、自分を励ましていたな。 


 当時好きだった人に年賀状を送ったけど…返事が来なかった…あれはショックだった。(残念だったねぇ) 

 1年生のときが一番覚えとるな。芸術の時間のときに、選択授業があり、書道・音楽・美術から1つ選択して俺は書道をとりあえず楽そうやから選んだ。

18組の人との合同授業だったので妙にテンションが上がった。 あのときも、18組の男子と18組の〇〇さんが、毎回楽しそうに話していてうらやましかった…

俺は毎回書道の答案が55点で先生から「はい、佐伯は今回も最低点やわ~」とからかわれていた。


  19組は…席替えもなかったためか、18組とは大きく異なり、男女の会話は0.全くなし。

数学の〇田先生だけが毎回数学の授業のときに○○さんと、ポケットの小銭をちゃらちゃら言わせながらずうずうしく話しかけていた。

俺たちは体育の授業の着替えのときに「あいつムカつくの!俺たちでさえ話してないがんに」と中年のおじさん相手にマジで怒っていた。いかにも高校生。 


数学のM先生には事あるごとに「佐伯く~ん。なまくら系か?」とバカにされていた。何が「なまくら系よ!」こっちは真剣や☆彡。

でも放課後職員室に質問に行ったら、笑いなしで俺がわかるまで真剣に教えてくれた。あのギャップはすごかった!

「先生。このレモン100個分のビタミンて書いてある紅茶?これはなんなんけ?」と俺が ツッコんだら、無言やったわ(笑)あれはウケた。 

職員室でM先生の隣には生物の先生が座っていた。ハゲている先生だったが、こともあろうにM先生は 「佐伯く~ん。ハゲと白髪どっちいいがよ??」と俺に聞いてきた。

3回くらい聞かれた。返答に困った(笑)

1年1学期の三者面談で、担任のM先生から「君は、古文の点数が30点だ。ということは、古文の授業では、君はお荷物だ」と言われへこんだ。それでも古文は勉強する気にならなかったな。

3年生のとき、1度だけ進研模試で「金沢大学 教育学部」と志望校に書いたら、「お前、自分の実力わかっとるがか?ふざけたこと書いたらダメだ。お前、新潟行け!」

と叱られ、励まされた。確かに先生の言う通りだったな。

いろいろあったなぁ。高校生か…

長いひとり言だったな。

明日も頑張ろう。
2026年10月04日 06:28

高校1年生8月5日 のりぴーin 富山サンビーチ

  高校1年生の春から本格的なのりぴー(酒井法子)ファンになった僕は、過去ののりぴーのCDアルバムをレンタルしてきて、カセットテープに録音していました。

当時、のりぴーは東京にある堀越学園高校の3年生でした(1971年2月14日生まれなので学年は2個上になります)

当時はのりぴーの人気が全盛期でした。  僕は部屋の中いっぱいに雑誌「明星」についていたポスターや甲子園の応援ポスターなどを部屋に貼っていました。

当時、平日24:15~24:30まで、のりぴーのラジオ番組「のりぴー気ままにセンセーション」が放送されていました。僕は毎日夜遅くまで起きていることができなかったため(毎日23時くらいに寝ていたため)ラジオ番組をタイマー録音していました。

そして翌朝に聞く、という毎日でした。  学校に行くと隣の席だったT君と2人でいつも「昨日ののりぴーなんか機嫌悪そうやったの~」とか「昨日のはがきの内容面白かったよの~」とか熱く語っていました。

  のりぴー気ままにセンセーションというラジオ番組は15分間の番組だったのですが、その間にのりぴーの曲が2曲流れるため、実際にのりぴーが話している時間は5~7分くらいでした。毎回2通のリスナーからのハガキが紹介され、そのハガキの内容にのりぴーが答えるという内容でした。のりピーへの質問などがハガキのメインでした。 

当時はまだインターネットがなかった時代だったため、のりピーへの質問(ハガキ)はすべて「KNB放送」へいったん郵送して、そのハガキがKNBから東京へ郵送される、というシステムでした。

高校1年生の夏に「のりぴーが富山サンビーチに来るらしい」という情報を聞きつけ、僕とT君、ほかの男子は「えっマジで!行きたい」と言い、友達たちとサンビーチのチケットを買い、来るべき8月5日を楽しみに待っていました。

  そして8月5日の午後。 のりぴーが親衛隊に囲まれながらサンビーチの特設ステージに登場しました。

……第一印象はかわいい、というよりも、ちょっと怖かったです。目の周りがちょっと普通よりも濃く(化粧のせいなんかね?)T君の方をふと見ると、あいつは固まっていました。多分感動していたのでしょう。 

僕たちは「のりぴー!」と声をかけることもできず、ただただ見とれていました。 FM放送の公開録音だったため、FM富山のスタッフの人たちもいました。 

当日はのりぴー目当てに2,000人もの人が集まり、サンビーチ始まって以来の入場者だったとのこと。 

のりぴーは「こんにちは。酒井法子です。プールの中は涼しそうですね!」と話し始めました。 そして「夢冒険」「ノレないTeenage」「GUANBARE」「雨粒は優しくて」「渚のファンタシィ」などなど、シングルを中心に合計15曲くらい歌いました。

  僕は持ってきていた安物のカメラでなんと103枚ものりぴーの写真を撮りました。

のりぴーとの距離は5mくらいしかなく、かなり間近でのりぴーを見ていました。 僕たちはシーンとしてのりぴーの歌を聴いていました。かわいかったです。

のりぴーが去った後、僕たちはいろいろと感想を言ったりしていました。 

家に帰って僕はすぐに「カメラのキタムラ豊田店」に行き、写真を現像してもらうために、フィルムを預けました。 

夕方になり、のりぴーがFM富山のスタジオでゲスト出演して、いろいろ話していました。 僕は食い入るようにラジオに耳を傾けていました。 

数日たち、カメラのキタムラへ写真を取りに行き、僕は写真を見ました。ところが…僕の安物のカメラではあの至近距離にもかかわらず、ほとんどのりぴーの姿は撮れていませんでし

た。小さく小さくのりぴーが写っていました。めちゃくちゃショックでした。 

いじけていると、友達のH君が「俺の友達が望遠レンズでのりぴーの写真撮ったやつ見たら、めちゃくちゃ綺麗に写真仕上がっとったよ!」と教えてくれて、僕はその友達にお願いして、のりぴーの写真を2枚買わせてもらいました。

かなり大きいサイズで、僕はその2枚の写真を額縁に入れ、部屋に飾りました。のりぴー一色な毎日でした。 

「酒井法子」と聞くと、たいていの人は「あっあの『青いうさぎ』の人け?」と言われるのですが、僕の中では 「高校1年生~2年生くらいの曲」が一番イメージしやすい、という気がします。 


話は少し戻って… 

 僕は高校受験に失敗したあと、一高に入学するまでの春休みの間、かなり精神的に毎日動揺していました。 あ~第一か… 嫌だなあ、とイジけていました。

  そんなときに偶然歌番組でのりぴーの当時それなりに売れていた「GUANBARE」という曲を聴いて、励まされて、それがきっかけでのりぴーのファンになりました。

  それまでは南野陽子・中山美穂・工藤静香・浅香唯さん・チェッカーズ・TUBE、ハウンドドッグの音楽をよく聴いていたのですが、高校に入学してからは、それらに加えのりぴーの曲をよく聴いていました。 

レンタル屋さんでのりぴーのアルバム(CD)を借りてきて、カセットテープに録音して、毎日のように聴いていました。 

僕が高校1年生の夏にリリースされた「Lovely Times」というのりぴーのアルバム(CD)が僕が初めて買ったCDでした。  とにかく好きでしたね…

「歌のトップテン」という歌番組を毎週欠かさず見ていました。

のりぴーが売れ始めたきっかけは僕が高校1年生だった5月にチャゲ&飛鳥の飛鳥涼さんが作曲された「1億のスマイル」という曲でした。

「俺たちひょうきん族」にのりぴーが出演したときはビデオ録画し(時代を感じるなぁ)毎日復習していました(毎日見ていました) 

自分が一番つらかった高校に入学する前に、のりぴーの曲に励まされ、やりきれない気持ちをのりぴーが救ってくれていました。

もちろんアイドルだったので、かわいい という印象もありましたが、「GUANBARE」という1曲に何度も励まされていました。

僕、個人的には、のりぴーの曲の中では、高校1年生の夏にリリースされた「HAPPY   AGAIN」という曲が、一番好きです。 

その歌は今でもよく聴くことがあります。塾が始まる前とか、なんとなく不安なときによく聴いています。 


まあ, のりぴーはその後結婚→人生の間違いを起こしてしまい、今では全盛期ほどの存在感はありませんが、一応、応援はしています。 

僕が高校1年生の夏に、こともあろうにのりぴーは「富士山の8合目」に「のりぴーショップ」を出していました。よっぽど人気があったのだと思います。

  僕はもう高校生だったので、「のりぴーグッズ」は買えませんでしたが、毎日のようにT君と「のりぴーTalk」で盛り上がっていた日々は、楽しかったです。 

当時の1年19組は先生がとても怖く、結局1年間「席替え」はありませんでした。 

でも偶然、僕の隣の席にT君がずっと1年間いてくれたことは、同じのりぴーファンであった僕としては幸運なことでした。
2026年10月03日 08:39

2026年10月1日(木)23:28 / 54歳 A型

こんにちは。いつもありがとうございます。

最近いろいろ難しいことを考えすぎていて、頭が痛かったのですが、だいぶん良くなりました。

まぁ、人それぞれ、というところなのかな、と思います。 人は人。自分は自分。

背伸びしても仕方がない。できないものはできない。 

ということで、今日は5年ぶりくらいに大沢野にドライブに行って来ました!

神通川のすぐそばに民宿?があるのですが、25歳のとき、いい所だなと思い、仕事中によく神通川の流れを見ていました。いつか好きな人とここに来られたらいいのになぁ、と当時は思っていました。

  さて、木曜日か… 今は中間テスト期間中です。学校のワークを塾では解いています。 生徒さん、頑張っています。

1学期の期末テストよりも番数が上がればいいね、と言っています。 中3生は修学旅行から帰ってきたばかりですが、4日は全県模試。翌日からは中間テスト。大変ですね?

できる範囲で頑張ってほしいなと思っています。 


とりあえずは目の前のことだけに集中して、余計なことはなるべく後回しにしようかなと思っています。

僕は人と話すことがとても好きで、孤独には比較的弱い方なのですが、でも今は一人になって自分のことに集中しようかな、と思っています。

…  まあ、振り返ることは確かに大切なのですが、現実、時計の針は進んでいます。いつまでも振り返ってばかりいても今さら過去を取り戻すことはできません。

それだったら、明日のこと、明後日のことを考えて、楽しみにしていた方がいいのかなと思います。   


さて、話は飛びますが… 僕は最近、青山学院大学の男子陸上競技部(駅伝)の原晋(すすむ)監督にものすごく興味・関心があります。

原晋監督がどうやって普段選手たちと関わっていて、どのような会話をし、どのようなことを普段考えておられるのか?とても気になります。

  僕はどちらかというと生徒さんには厳しいということはよっぽどのことがない限りありません。

  僕自身が小学生のときにサッカー部でとても怖い監督のお世話になったため、今では良い反面教師だったのかなと思っています。 

まあ当時は時代は「昭和」。体罰当たり前の時代でした。でも今は「令和」。 


令和的な指導。僕の中では、例えば元巨人2軍監督の桑田真澄監督は選手との対話をとても大切にされ、選手が自分自身で課題を考え、ではどうやってその課題を克服していくのか?

データを徹底的に分析されるとのこと。 

その後、桑田真澄監督が押し付けるのではなく、ヒントを与えるにとどめて、「高校生の部活ではない。君たちはプロ。だから練習するにしても、長時間の練習ではなくて、量よりも質を重視しよう。いっしょに勉強しようぜ!」と常々言っておられます。

とにもかくにも桑田監督の指導方針は「選手ファースト」

  去年の話になりますが、桑田真澄監督率いる巨人2軍は圧倒的な強さで優勝しました。

それにも関わらず、球団からは「若手が伸びていない」と酷評され、事実上のクビになりました。 

僕はそのことがとても残念で一ファンとして悲しかったです。桑田監督はフロントを打診されたのですが、即拒否。それはそうでしょう。

現場第一主義でやってきた桑田監督がどうしてフロントに行く必要があるのでしょうか? 


今日のネットニュースで桑田真澄元巨人2軍監督が来季から中日ドラゴンズの1軍監督になるかもしれない、という記事を読み、僕は応援したくなりました!

中日は落合監督時代、圧倒的な強さだったのですが、落合監督が引退された後は散々な成績です。 

そこに中日OBではない桑田監督に白羽の矢が立った、中日もプライドを捨て、桑田監督にお願いされたとのこと。

もちろん現段階ではまだ確定はしていません。 

僕は小学生時代から巨人ファンで、桑田監督の現役時代も桑田選手のファンでした。 もちろん、桑田監督が中日の監督になれば、喜んで中日を応援します。

桑田監督がどのような「采配」をされるのか?楽しみで仕方がありません。


桑田監督は昭和時代の「スポ根的な練習」が大嫌いな方です。  阿部前巨人監督のような、試合で失敗をすると「罰走」をさせるようなことには猛反対。

ここ数年、阿部監督と桑田監督は「巨人の1軍監督と2軍監督」という立場でしたが、とにかく「教育方針」が真逆だったため、二人は選手起用について何度も対立していました。

  結果、桑田監督が圧倒的な結果を出したにもかかわらず阿部の一言で退任。あまりにも理不尽でひどい。 

まぁ阿部監督は結局今季途中で家庭の事情により巨人監督を退任。


橋上監督代行になってからは、それまで萎縮していた選手たちが積極的に野球に関わるようになり、今は優勝争いをするまでになりました。

もちろん、橋上監督代行の指導方針が選手たちにマッチしたのは言うまでもありません。


 さて、 人に物を教える、ということは忍耐が必要です。 最初から選手が(生徒が)こちらの思うように動いてくれることは100%ありません。  我慢、我慢の連続です。

いかにして選手の良い所を見つけてそれを認め、選手をその気にさせるか? その一言に尽きると僕はいつも思っています。勉強も同じです。

最初から勉強ができる天才はほとんどいません。最初からできるはずがない。だから塾へ来られるのです。 

生徒さんがわからないのに「こんな問題もできないの?」と言っている先生を僕は過去数人見てきました。 1番講師が言ってはならない言葉です。

それを言われた生徒さんは、どんな気持ちになるのでしょうか? 僕だったら「もういい。先生を代えてほしい」と言うと思います。


生徒さんがやる気になるのは、決してテストで良い結果が出た後ではありません。先生に良い所を、努力している所を認めてもらい、ほめてもらい、「その気になって」からのことです。

そこまで行くともう僕の出番はありません。スイッチが入った生徒さんが僕の手の届かないところで勝手に頑張ってくれます。

  とにかく、そこまで行くのが大変です。せっかく生徒さんがあと一歩でスイッチが入るところまで来ているのに 講師の心ない一言ですべてが台無しになってしまうことがよくあります。

とてももったいない。

 とにかく「目配り。気配り。手を差し伸べる」その繰り返しなのかな、と生意気ながらにも僕はいつも思っています。

もちろん、それでも伸びないときはあります。  それは仕方がないことなのかもしれません。でも、頑張って先生に認めてもらった、という経験は卒業後必ずどこかで役に立つ日が来る、と僕は信じています。 

ひょっとするとそれは仕事かもしれないし、資格試験かもしれない。やってみないとわかりません。

学校の勉強が決して社会に出た後に役立つとは、僕は断言はできません。  確かに「学校の勉強ができること」と「仕事ができること」は別のことかもしれません。

でも勉強してきたという経験は必ず将来どこかで報われてほしい、と僕は願っています。


  幸い、僕は中学時代も高校時代も先生に恵まれてきました。ほめてもらい、職員室で丁寧に教えてもらい、その結果高校入試では失敗しましたが、大学入試では志望校に合格することができました。 

特に高校時代の数学の先生には大変かわいがってもらいました。もし、あの時「別の先生」だったら、僕は今ごろ違う仕事をしていたかもしれません。

学校では、生徒さんは教師を選ぶことはできません。でも塾はそうではありません。

  僕のやってきたことが少しでも生徒さんに伝わり、最後には報われるよう、日々願いながら僕は生徒さんと一緒に勉強しています。  


入試まで残り5か月少しか… 毎年のことですが、やっぱり心配になります。

もちろん、僕が焦ったところで、生徒さんの結果にはなんら影響はありません。わかってはいるのですが、僕の性格上毎年同じことを繰り返し繰り返し、堂々巡りをしています。

具体的な戦略をそろそろ練って、結果につながっていくよう、一生懸命に授業準備していきます。 

   
 あまり根詰めすぎず、自分のできる範囲で、ゆっくりと。急いで結果を求めずに。 

本田健さんではなく(すみません!)、青学の原晋監督から学んでいきたいなと思っています。


  俺には「お金の勉強は無理!」興味ない☆彡  

学校を卒業してからの「勉強」は自分に興味・関心のあることじゃないと、僕の場合は無理なのだなと、つくづく思いました。

自分のできることを精一杯頑張っていきたいなと思います。

PS:今日の1曲 : かわいい人 / ウルフルズ とてもhappyな気分になる1曲です♪
2026年10月02日 09:38

1997年 秋 25歳 / 配送運転手時代

25歳の春、僕は毎日のように職安へ通い、この先どうするか? 迷いながら、とりあえず「世の中にはどんな仕事があるのか?」ひと通り調べていました。

 当時の僕は、「ワープロさえできない」有様で、パソコンも普及し始めてきている時期でした。
 
職安では、どの仕事も「ワープロができる方募集」と書いてありました。職安へ行っては落ち込む、という日々が続いていました。
 
そんなある日「とても家庭的な職場です」と書いてある職安の仕事案内カードを見て僕は「これしかない!」と思い、よく見るとそこには「配送運転手募集」と書いてありました。
 
 僕は当時、富山市の地理(道)すらほとんど知らなかったのですが、「運転手ならとりあえずワープロとは無縁だな」と思い、思い切ってその運送会社に応募しました。

富山市内にある、とても小さな「家族経営」の会社でした。従業員は確か9人だったと思います。
 
 こうして25歳の6月初旬、僕は「軽トラックの運転手」として新しい仕事にチャレンジすることになりました。


午前中は富山市内の集荷(お客さんの所に荷物を取りに行く仕事)をして、午後からは大沢野と富山市を2往復する、その間に荷物を配達したり荷物を取りに行ったりする

という仕事をしていました。


当時は「スーパー農道」さえ知らず、また「国道41号線」さえも知らず、本当にひどい有様でした。

最初の1か月間は、毎回会社の人が丁寧に大沢野の地図を書いて下さり、道を教えてくれました。
 
 道を知らなかった僕は、ただただ必死に道を覚えながら毎日朝8時~18時まで、昼休憩は10分くらいしかなく、ひたすら運転するか地図を見る、という毎日を過ごしていました。

当時はカーナビはまだそんなになく、また運転手の場合、普通、道を全部頭の中にインプットしているので、地図を見ながら運転していたのは僕だけでした。
 
僕は「18号車」に乗っていたため、最初の2か月間は会社の人から「18」と呼ばれていました。

「なんか囚人みたいやなぁ」と思いながら毎日仕事をしていました。慣れるまでは本当に地獄でした。


とにかく一番困るのが、送り状を束のようにかかえ、目的地に向かっている途中で無線が入り「18○○へ行って」と言われ、そのたびに僕は焦って方向転換したり、

急バックしたりしてしまい、かなり危ない運転をしていました。
 
 8月に入るころにようやく大沢野の配達先をほぼ全て覚え、道も完璧に覚えました。

「大沢野はもう大丈夫だな」と判断され、次は大沢野に加えて「八尾・婦中エリア」を新たに担当することになりました。

大沢野と八尾は神通川沿いに道がつながっていて、エリアはかなり広かったのですが道は少なかったので、富山市内を運転するよりは、道も覚えやすいし、

運転もしやすく、3週間くらいで八尾・婦中セットで覚えることができました。

 
教員時代は「とても真面目で誠実な大人の世界」で仕事をしていたのですが、今度は一転、「ちょっと気性の激しい元ヤンの世界」での仕事になりました。

最初のころは、道に迷ったり、会社に帰って来るのが遅れると、そのたびに「だからあんた先生って呼ばれるがやぜ!」としかられてばかりいました。

やがて8月になるころには「18」→「さえちゃん」に昇格(笑) 僕は番号からニックネームで呼ばれるようになりました。


確かに見た目はやや怖い方が多かったのですが、慣れるととても「男気のある優しい方」ばかりでした。20代~30代の方々が大多数でした。
 
僕は当時日産の「サニー」という乗用車に乗っていました。

あのころに「ステーションワゴンブーム」が起こり、僕は毎日運転しながら、「レガシ―」を見ては「カッコいいな」とあこがれていました。
 
 とにかく仕事中、運転しながらすれ違うステーションワゴンを全て見ていて、車種を一瞬で言えるほど、ステーションワゴンの魅力にとりつかれていました。

そして僕は「カローラツーリングワゴン」か「カルタスクレセントワゴン」にするか悩んだ挙句、スズキの「カルタスクレセントワゴン」というステーションワゴンを買いました。

とてもうれしかったですね。今まで乗ってきた車の中で一番好きな車でした。
 
今はあまり車にはもう興味関心はありませんが、運転手をしていたころは、毎週のように仕事帰りに「オートバックス」に立ち寄っていました。

車というかオートバックスが好きだったんでしょうね…

 
僕のいた運送会社はとにかく午前中が忙しく、無線が鳴りっぱなしでした。

運転していていきなり「18どうぞ」と言われるので、僕はそのたびに緊張しながら「はい」と答えていました。

すべての車に無線がつながっていたので、とても恥ずかしく、今でたとえると「グループライン」のような感覚です。

すべてのグループの人に自分のコメントが載ってしまう、という感覚です。

 とにかく嫌でした。「18どうぞ」と言われるたびにドキドキしていました。


 午後からは各運転手それぞれ別々のエリアに散っていくので、無線からはほぼ解放されていました。

そのため、夕方ごろからは運転中にKNBラジオ「相本商店」を聞きながら運転する心の余裕ができていました。


 
……    右も左もわからない、25歳の若造を拾ってくださった運送会社の社長には、とても感謝しています。

「小さな運送会社」から学んだ最大の良かったことは「自分に自信を持って働いても良い」ということでした。

とにかくどの方も堂々と仕事をされていて、最初は面食らいました。
 
一度だけ、荷物を届けるのが大幅に遅れてしまい、その会社の社長さんみたいな方が「おい、社長呼んでくれ」と言われ、僕が恐る恐る会社に無線で「すみません、社長呼べって怒っているんですけど…」と言うと、

「あ~言わせておいて。そんなんいちいち相手にしとるほど暇じゃないから」とバッサリ。
 
全く遠慮したり、悩んだりせず、どの方も前向きにひたむきに仕事をされていました。初めて「あぁ、自分に自信を持って仕事しても大丈夫なのだなぁ」と思いました。
 
とにかく「小さな運送会社」の方々には、甘い僕の根性をとことん鍛えられました。

「人に聞く」、ということがとにかく多く、恥ずかしかったのですが、そんな悠長な事を言っていては、僕が集荷してきた荷物を、それぞれの目的地へ運ぶために待っている他の運転手の方々に迷惑がかかります。

毎日恥ずかしい思いをしながら働いていたことで、変なプライドを捨て、わかる人に聞く、ということを教えられた職場でした。

 
PS:当時1度だけ、会社のメンバーでカラオケに行きました。そのときに1個下の男の子がスピッツの「チェリー」を熱唱していました。

その日以来、僕はチェリーをよく聴くようになり、いまだに2週間に1回は必ずYoutubeでチェリーを視聴しています。

サビの部分になるとボーカルの草野正宗さんがギターを弾き始めるところが最高にカッコよく、毎回のように感動しています。

…… ようやく頭痛が治ってきました。現実考えて行動し始めます。

 
2026年10月01日 07:42

寺子屋学習館伏木時代の月謝:当時の僕の中での「お金の価値観・金銭感覚」

寺子屋学習館伏木校のときの月謝について、振り返ってみます。

少し具体的な話になってしまってすみません。


当時は中学生の月謝(1カ月あたりの授業料)は「1クラス5人までのクラス授業」で1回2時間授業が8回で20,000円(税込み)でした。

高校生の月謝は1回3時間30分授業が週に3回、月に12回で23,000円でした。

一見すると高校生の方が月謝は中学生よりも3,000円高いですよね?


しかし、これを「1時間当たりの授業料」に計算し直すと、中学生の場合1時間あたりの授業料は20,000円÷(2時間×8回=16時間】=1,250円になります。

一方、高校生の1時間あたりの授業料は、23,000円÷(3.5時間×12回=42時間)で548円になり、高校生の方が中学生よりも「実質の1時間あたりの授業料」は702円も割安になっていました。

当時は寺子屋をopenするにあたり、いろんな塾さんのチラシを見て月謝を調べていました。

その結果、僕は他の塾さんよりも月謝を割安に設定しました。

僕の中では、「中学生の月謝は相場よりやや割安」,高校生の月謝は「相場の半額以下」だったと思います。

でもそれには僕なりの「理由」があるんです。聞いてください!


中学生(特に中3生)は、教えるのに1年を通してものすごいプレッシャーを感じて授業しています。生徒さんにとっては「初めての受験」です。

大げさに言うと「これまでの15年の人生の中で初めての試練」を迎えることになります。

中学生は一度も受験というものを経験されていないため、メンタル面(特にやる気)がなかなか出ず、教えている僕としては、精神的にとても疲れます。

さらに、中学生の場合は、理解してくれるまでに膨大な時間がかかります。そのため月謝は20,000円。


一方、高校生は受験というものを「一度経験されています」そのため「やる気がない」という生徒さんは最初から塾には来られません。

全員やる気満々です。そのため、教えている僕は精神的に中学生の「約7割くらいのエネルギー」で授業をすることができます。もちろん授業準備には相当な時間がかかりますが…

僕が説明したことに対する「理解度」も、高校生の方が圧倒的に「上」です。

さらに、同じことを繰り返し何回も何回も教える、ということは、中学生だと日常ですが、高校生の場合はそれほどありません。(全くないとは言えませんが…)

そういう意味でも「僕の精神的ストレス」は高校生の方がわずかですが、中学生よりも少ないように感じていました。

よって「中学生よりも高校生の方が授業しやすい&授業が終わった後の精神的ストレスが少ない&授業が終わったあとの僕の中での充実感も高校生の方が上」

そのため「高校生の授業料<中学生の授業料」という僕の思考回路です。


ところが現実は、他塾さんや家庭教師の場合「中学生の月謝<高校生の月謝」に設定されています。しかも高校生の月謝の方が中学生の月謝よりも「割高」です。


寺子屋学習館伏木校の「高校生の月謝」はそういう意味ではかなり割安だったと思います。

ただ、もちろん「良いこと」もあります。それは「高校生が入塾しやすい。たくさん習ってくれる」ということです。

僕が聞いた話によると、今どきの個別指導【講師:生徒さん=1:3】の塾では「小学生:中学生:高校生」の人数割合=「2:6:2」だそうです。

伏木時代の僕の塾では「小学生:中学生:高校生」=「0:6:4」でした・。

僕は小学生にはほとんど教えたことがありません。理由は、小学生に教えた経験がほとんどない、あとは定期テストや入試など、という目的がないため、何を目標に指導していいのか?

イマイチわからないため、教える僕自身のテンションがなかなか上がらないためです。そのため小学生を教える、ということはほとんどありません。


話は変わって…


伏木での寺子屋を閉鎖したあと、3年後に僕は「福光」で2回目の個人塾「佐伯ゼミナール」を始めました。

当時は「教師1人に生徒さん3人以内」の個別授業スタイルで1回90分授業で中学生は3,300円に設定していました。

この授業料は当時は「相場とほぼ同じ」でした。

高校生の場合はホワイトボードを使って「クラス授業」をしていました。

当時の高校生の授業料金は「1回3時間授業で2,200円」でした。

福光のときは1回3時間授業を週に3回行っていました。科目は「センター試験数学」でした。対象は主に「文系国公立大学志望の高校生」でした。

かなり格安だったのかなと思います。


当時の僕の中では「中学生は月謝の上限は25,0000円まで。高校生の月謝は28,000円まで」という固定観念がありました。

高校生から28,000円以上の月謝をいただくのには、かなり「抵抗」がありました。

……こういう僕の固定観念が「お金の道理」を全く理解していなかったかなと反省しています。


当時、先輩からは「月謝設定の段階ですでに間違っている」と指摘されていました。

当時、高校生は10人くらい来てくれていました。

そして週に3回数学のみ教えていたため、とにかく教えることができる時間が長かった,あとは高校生がめちゃくちゃやる気があり、勉強してくれていたため、生徒さんの成績は面白いように伸びていきました。

「進研模試の数学の全国偏差値が38~43くらいの高校生」が半年後にはだいたい進研模試で全国偏差値55~64くらいまで」UPしていました。


当時の僕は本屋さんに売っていた「センター数学」というタイトルがついている問題集は、ほぼ購入していました。

その中でも坂田アキラ先生の「2次関数が面白いほどわかる本」など「坂田アキラの〇〇が面白いほどわかる本」、あとは志田晶先生の「ベクトルが面白いほどわかる本」などなど、志田晶先生の「文系数学・センター数学に関する参考書」はほとんど購入し、それらをもとに「授業ノート」を作らせてもらっていました。

もちろん青本(駿台予備校のセンターマーク模試の過去問集)や黒本(河合塾のセンターマーク模試の過去問集),白本(代ゼミのセンターマーク模試の過去問集)、センター試験の赤本など、自分が分かる範囲で毎日3~4時間くらい数学を勉強していました。

東進さんの「緑本」だけはちょっと難しくセンター試験よりもレベルがやや上だったため、所どころのみ勉強させてもらっていました。


当時は確かに口コミで生徒さんは集まってきてくれました。もちろん、月謝が安かったことも原因だとは思いますが…

今、冷静に振り返ってみると、高校生の月謝はもう少し「相場に近づけるべき」だったのかなと反省しています。

ところが当時の僕は「お金を受け取る」ということに強烈な抵抗・戸惑いがありました。

そのことについて、福光の塾を閉鎖したあと、本田健さんからその理由を学びました。

本田健さんの「教え」は以下のようなものでした。

※お金をたくさん受け取ろう!
「お金のブロック」とは、お金に対する無意識の思い込みや恐れ、罪悪感などが複雑に絡み合った心理的な障壁のことです。
このブロックがあることで、本来持っている能力を発揮できなかったり、豊かさを受け取ることを拒否してしまったりします」
※インターネット記事引用


……当時の僕はそのことを知らず、ひたすら「自分の設定していた月謝よりも多くを受け取る」ということは、どうしてもできませんでした。罪悪感があったのだなと思います。

「月謝が高いか?安いか?」判断するのは親御さん・生徒さんの考えることです。

本来、僕が悩むことではありません。


先輩がおっしゃっていたように、「金銭的な理由でお前に習いたくても習えない生徒さんは確かにおる。でもその現実を教えるのもお前の仕事やぞ」

当時の僕はどうしても「とにかく塾に来てほしい!」という思いが強すぎて、採算度外視の月謝に設定してしまいました。

「組織に属して、その組織からいただく5,000円」も「僕の塾の月謝袋に入っている授業料の5,000円」も確かに同じ5,000円です。

でも僕が感じ取る「お金の重み・深さ」は全く異なります。

もちろん、教えるということに関しては、どんな立場であろうと、真剣に取り組んでいます。僕の性格上「手を抜く」ということはできません。


先輩が電話で最後に僕に残してくれた「受け取り上手になれよ!」というのは、こういうことです。

僕は今でも「お金のブロック」に苦しんでいます。

なかなか頭では理解できても、心と体で理解することができません。

これからの僕の最大の課題になっています。

「お前の弱点はお金や」と言われた先輩からの課題をこらから克服していきます。難しいとは思いますが…

ただ一つ、決定的に言えることは

「いざ僕の塾が閉鎖してしまったら、1番困るのは生徒さん・親御さん」です。

まさに「お前に投資してきたお金と時間は何だったんよ?」ということになります。

このことを重く受け止め、考えていきます。


PS:こんなふうに行き詰ったとき、福光時代はよく1人で「小矢部川のほとり」に座ってしばらくの間、川の流れを眺めてぼ~っとしていました。

小矢部川は比較的小さな川で、川のすぐそばまで車で行くことができました。

そのため、月に2回くらい小矢部川を見ながら、あれこれ考えたりしていました。

最近は小矢部川はちょっと遠いので、八重津浜か岩瀬浜に行くことがあります。

やっぱり落ち着きます。

あとは浜省の「陽はまた昇る」という曲があるのですが、この曲によく励まされています。

この曲の場合は、CDの音源よりもYoutubeでの「ライブ映像」の方が個人的には身にしみます。

人生で思い悩んでいる方には、結構おススメソングだと思います♪
2026年09月30日 08:12

初めての自分の塾 寺子屋学習館 in 伏木

僕は大学を卒業したあと、1年就職浪人し、その後新潟県三条市という所で小学校の教員をしたあと、あっさりと辞めてしまい、富山に帰ってきました。

「この先どうしよう」と悩みに悩んで、25歳の6月に小さな運送会社に拾ってもらい、軽トラックの運転手として大沢野・八尾・婦中町のエリアを担当して配送運転手をしていました。

それから大手の家庭教師教師派遣会社」に所属し、1年ちょっとの間、「専属家庭教師」→「プロ家庭教師」として、富山県内の中学生に家庭教師をしていました。

その後、1999年、3月、高校受験を終えた後、高岡市「伏木」で個人塾「寺子屋学習館」を始めました。


よく友達から聞かれるのですが「佐伯。なんで伏木だったんよ?」


これにはちゃんとした僕なりの理由があって… 当時僕は家庭教師を、学生時代みたいなアルバイトではなく、「プロ家庭教師」として、それなりの時給でしていました。

でも「結果を出しても出さなくても給料はたいして変わらない現実」に見切りをつけ「自分でやってみよう!」と思い、1999年3月の高校入試が終わったところで、当時の所属していた

家庭教師派遣会社を脱退しました。

「ではいったいどこで個人塾をするが?あと、テナント?貸家?」

当時は(今もたいして変わらないのですが)お金がなかったので、とりあえず「住まい情報」をコンビニで買ってきて、片っ端から「テナント・貸し家」を調べました。

当時は今みたいにまだインターネットは存在していなかったので、月に1回発行される「住まい情報」とあとは、直接不動産会社をかなりの数回って、1カ月くらいかけて、物件を探していました。

ただし、「場所」には1つだけ「条件」をつけていました。

それは「富山市」と「高岡市」は避けよう… というものでした。

理由は簡単。「俺みたいな素人が激戦区の富山市・高岡市で個人塾を始めたところで結果はやる前から見えとる」と思っていたので、とにかくライバルの少ない田舎、に限定して物件を探していました。。

しかし、なかなか条件にあう物件が見つからず「テナント」に関しては論外。高すぎ。最低でも月7万円を超えないと、まともなテナントはありませんでした。

当時、何の知識もなかった僕は、月額の家賃の予算が4万円以下、というものでした。テナントでは200%無理! という現実を思い知り、「じゃあ貸家を探そう!」ということになり、住まい情報の最後の方のページに掲載されてある「貸家」のコーナーを、富山市・高岡市以外の市町村から徹底的に調べ上げました。

それでも当時は貸家でも家賃6万円~という物件ばかりで、僕は「あ~こりゃ無理だなぁ。どっかの塾でも応募するか…」

と半分あきらめて、小杉の「セーブオン」で住まい情報を買い「これで貸家なかったらあきらめて、就職しよう」と決意。

すがるような思いで住まい情報の貸家のコーナーを1つずつ調べていきました。

すると「ん?なんだって?家賃15,000円!ウソやろ!しかも敷金・礼金なし」

……これを見たときの僕の喜びようは、想像に難くないと思います。


僕はこみ上げてくる熱い思いを必死にこらえながら、その貸家を斡旋している不動産へ行きました。その不動産は「高岡市伏木」にありました。

僕はそもそも伏木がどこにあるのか?把握していませんでした。偶然中学時代の英語の新採用の女の先生が「伏木」の人でした。

「あ~あの先生の伏木か…」 と思いながら不動産に到着しました。

その不動産は個人の不動産で、玄関を開けるとおじいちゃん出てこられ、「すいません、先ほど電話した佐伯と申しますが…」

と言うと「はいはい、佐伯さんね」と言ってそのおじいちゃんは伏木の貸家を案内してくれました。

僕はそのおじいちゃんの車の助手席に乗り、弾むような気持ちでその15,000円の貸家」に連れて行ってもらいました。


「この家ですよ~」おじいちゃんは笑顔で言い、 僕は顔を見上げ、その貸家を見ました。

開口一番、僕はおじいちゃんに「すみません。そもそもこれって家なんですか??」と問い合わせました。おじいちゃんは「そうだよ~」得意げに答えました。

「これって、家というよりも単なる廃墟やろ!」という怒りを必死に抑え「こんなもん生徒集まるわけないねけよ!こんなぼろ家、誰が来るんよ!」

と半分あきれていましたが、それでもとりあえず、そのぼろ家の向かいにある、「大家さん」に一通りその貸家について「説明」を聞きました。

大家さん(60歳くらいのおばちゃん)は「この家の2階部分をもしも借りられるなら使ってください。1階部分は「開かずの間」になっているので、ドアが開きません、使えません」

と言われました。

僕は「わかりました。とりあえず、家の中を見せてもらえますか??」と聞き、そのあばら家の中へ恐る恐る入って行きました。

どう見ても「築60年」は経っているような、とんでもない家でした。そもそも階段もめちゃくちゃ急な階段。

地震が来たら「家ごと崩壊」しそうな家でした。

それでも一応「6畳間の和室」だったので、僕はかなり迷ってしまいましたが「まぁでも今の俺の経済力考えたら、ぜいたくか‥‥」と決意し、その「めぞん一刻」のようなぼろ家を借りることにしました。


でも、それでも初めて「自分の塾」を持てる、ということにとんでもない「高揚感」を覚えていた僕は、喜び勇んで家に帰りました。

伏木本町、という所にある、通りを1本奥に入った、「車1台がぎりぎりすれ違えるような道」の向にある貸家でした。

驚くことに、その家は今も健在しており、当時のその家の隣にあった「お地蔵さん」はもうありませんが、(当時は塾が始まる前に、毎日そのお地蔵さんに「今日も生徒さんが来てくれますように」とお祈りしていました。)

今でも僕は伏木に行くときは、必ずその家に立ち寄り、当時のことを振り返る?懐かしむ?決意新たにする?かんじで伏木本町に行きます。

僕が年に4~5回、伏木に「1人ドライブ」する理由はそれです。

今は無き、寺子屋学習館伏木校に立ち寄るためです。

こうして1999年3月、僕の初めての個人塾「寺子屋学習館」は誕生しました。

当時は伏木中学校・新湊高校・大門高校・伏木高校・氷見高校の生徒さんが来てくれていました。

今までの僕の中で一番輝いていた1年でした。 貧しかったのですが、あの1年はやっぱり僕にとっては生涯忘れられない1年でした。

当時の生徒さんのことは、もちろん全員の顔と名前、成績、雑談で話しあっていたこと、ほぼ全て覚えています。

雇われ時代の生徒さんのことは、ほとんど覚えていませんが…

当時は授業の合間に女子の高校生たちが「先生、19のあれ聴きたい!」と言うので「あの紙ヒコーキ、くもり空わって」を聴いていました。

伏木中学1年生の女子は「ゆず」が大好きな生徒さんがいて、「先生、ゆずマンっていうアルバム聴いてみて!『遊園地』っていう曲好きなん!」

と言っていたので、レンタルで借りてきて、富山から伏木まで車で通う時によく聴いていました。

「ゆずの遊園地もいいけど、俺は『シュビドゥバ~』っていう曲もいいと思ったよ!」などなど、授業そっちのけで雑談をかなりしていました。

まぁ、楽しかったですね。もちろん27歳だったので、授業じたいはたいしたことはなかったのですが、ひたすら毎日が楽しかった。

当時は「1クラス5名限定」のクラス授業をしていました。中学生と高校生・ほぼ同じ人数の生徒さんが来てくれていました。

夏休みは午前中中3生の授業をしたあと、男子生徒3人のみだったのですが、今は無き「いしずやラーメン」に行って400円のラーメンを食べていたこともありました。

よくあんな「看板すらない」ぼろ家に伏木の人たちが来てくれていたなあと感謝しています。

当時の中学3年生の男子が「ある出来事」をきっかけに、狂ったように勉強し始め、「伏木中学校で100番」だったのに、10月の富山全県模試で「富山県で3,500人中、103番」という、とんでもない結果を出してくれました。

彼は「テレビなしでも生きていけるもんやなあ」と言っていました。

僕は「高岡高校受けられ」と言っていたのですが、彼は断固拒否。大門高校へ進学しました。

一度スイッチが入ると恐ろしい中・高生 そのすさまじさに驚きました。


ゆずファンだった伏木中学校の女子生徒さんは、バドミントン部で、どうしても個人戦で勝てない人が1人だけいて、「頑張っとるね~、どうしてそこまで頑張るが??」

と僕が聞くと「自分に負けとる限り、一生ライバルには勝てん」とつぶやいていました。とてもガッツある生徒さんで、塾は閉鎖してしまいましたが、その後彼女は奮起し

結果、高岡高校へ入って行きました。ゆずを聞くと今でも彼女のことを思い出します。

夏休みに2回「国分浜」でバーベキューをみんなでしました。楽しかったですね。

新湊高校の女子生徒さんは奮起して「警察官になりたい!」と言っていて、秋田大学の教育学部に進学されました。お母さんが秋田の方で、親戚が秋田にいたため、秋田大学にしたそうです。

僕は新潟を勧めたのですが、彼女は「自信がない…」と言って、A判定だった秋田へ行きました。

振り返れば、27歳のときにすでにそれなりの結果を出していたのに、「お金の道理」を不勉強だったため、多大な迷惑を僕は生徒さん・親御さんにかけてしまいました。

「お金の道理」=本田健か… 浜省の次のスーパースター「本田健」。とりあえずYoutubeから勉強してみるか…


PS:能登地震のあと、伏木は被害を受け、かなりひどい惨状になっていて、伏木を訪ねるたびに、少し胸が痛みます。早く復旧してほしいなと願っています。
2026年09月29日 10:04

現在地

34歳の時を最後に、先輩とはもう会えていません。

当時は、かなり厳しいことを指摘されたなとかなり落ち込みました。

でも今、冷静に当時のメモを読み返すと、先輩のおっっしゃっていたことは、ずばり当時の僕のことを見抜かれ、的確な指導だったのかなと思います。

当時は毎週1回、先輩の家で7人くらいで集まり、先輩がいろんな話をしてくださっていました。

僕は、家庭教師を終えたあと、先輩の家に途中から参加させていただいていました。

僕は先輩が一生懸命に話されているのに、半分眠りながら話を聞いていました。

「佐伯、お前また睡眠学習しとるぞ?(笑)お前、人ん家に飯食いに来とるんか?しょーがねーの~」

と笑っていました。

とてももったいないことをしていたなと反省しています。

当時はまさか先輩が、僕たちとは全く違う、遠い世界の人になるとは思ってもいませんでした。

「とても面白い人だなあ」くらいにしか思っていませんでした。

先輩は毎回、「いかにして儲けるか」という話をされていたのかなと思います。熱く、かつ楽しくいろんな話をしてくださっていました。

前々回のブログのような、大変厳しいご指摘を受けたのが、先輩と話した最後の会話(電話)になりました。

今、先輩がどこにいて、何をされているのかは、わかりません。

当時は先輩は、小さな会社の社長をされていました。どこにでもいるような、「気さくで面白い人」という印象を受けていました。

ある日、ある人との出会いをきっかけに先輩はチャンスをつかみ、一気に僕たちからは遠く離れてしまったところに行かれました。

もちろん、今、僕が当時のように気さくに先輩に話しかけることはもうできません。

僕は今までいろんな人から𠮟責を受けてきました。もちろん、両親とは何回もぶつかり、「僕対両親」で激しく口論をしたことも何回もありました。

でも先輩から厳しく言われたことが、やっぱり20年近くたった今でも、強く心に残っています。


働くといことは、誰かのために貢献することかなと思います。

もちろん、働くことだけが人生のすべてではありません。

友達と楽しく過ごしたり、大切な人と過ごしたり、家族と過ごしたり、人によって生き方はさまざまだと思います。

あれから僕は本田健の本を読み始めていたのですが、途中で挫折してしまい、おとついのブログを書くまで本田健さんの本からは遠く離れていました。

今はYoutubeという、大変ありがたい媒体があるおかげで、いろんな人の話を、しかも無料で視聴することができます。

とても便利な世の中になったなと思います。


浜省にしても、当時はファンクラブに入り、2か月に1回届く会報に書いてあることだけが、唯一の浜田省吾さんに関する情報を知る貴重なチャンスでした。

今ではインターネットで「浜田省吾」と検索すれば、膨大な浜省に関する情報を手に入れ、無料で浜省のいろんな曲を聴くことができる時代になりました。

浜田省吾さんは、仕事とプライベートをきっちり分ける方です。サングラスを絶対にはずさないのも、プライベートと仕事をきっちりと分け、別別の生活を切り離すためなのだと思います。

もちろん本当のところはご本人しかわからないのですが、そのようなことをよく記事で見かけます。

浜田省吾さんがテレビに出る、ということも今までほとんどありません。この先も多分ないと思います。

Youtubeを通して、気軽に浜田省吾さんの情報がめちゃくちゃ入るようになりました。

本人は多分、半分はうれしい、でも半分は迷惑されているのかなと僕は勝手に思っています。

浜省は「僕は有名になりたいとは全く思っていません。自分の好きな音楽を通して、そしてコンサートを通して、僕との時間をみなさんで分かち合えたら、とても嬉しく思います。

つかの間の夜ではございますが、今夜は日ごろの仕事のことや学校のこと、家族のこと、いろんなことを一度忘れて、楽しい夜にしていただけたら、俺たちミュージシャンとても嬉しく思います。最後までどうぞよろしく!」と言って、コンサートが始まります。

毎回のコンサートで必ず浜省が言うのは「今の僕があるのは、毎回のコンサートを通して、僕の音楽を聴いてくださって、そして支えてくださっているみなさんんがいてくれるおかげです。もちろん、音楽が人の苦しみを救うとか、病気を治すだとかいうことはできません。

でも、今夜のコンサートを通して、少しでも今日来てくれた皆さんの気持ちに寄り添えたら、とても嬉しく思います。今度いつ会えるかは、わかりません。

その時までどうか、心も体も健康で、そして笑顔で再会できる日を、楽しみにしています。」


浜田省吾さんは、一見クールで、かなり「気難しい人」に見えます。

でも、僕の知る範囲での浜田省吾さんは、かなり面白い人だし、決して全面的に明るい、という方ではありません。

しょっちゅう行き詰まり、「自閉症になりました」みたいなことを言われています。


かつて「愛という名のもとに」というドラマが入っていたとき、「悲しみは雪のように」という曲が売れ、一時「浜省ブーム」が起きました。

当時僕はCDレンタルショップに行くたびに浜省のことがクローズアップされた記事を見かけました。

もちろん、テレビ番組からのオファーも山ほどあったことと思います。でも浜省は1回もテレビには出演されませんでした。

あとで知ったことですが、当時、浜省は極度のスランプに陥ってしまい、かなり精神的に疲弊していたそうです。

自分の知らないところで勝手に情報が出回り、今まで地道にコンサートのみで自分の音楽を楽しんでいたのに、急に世間に自分の存在が広く知れ渡ってしまったことに戸惑っていた

という話を聞きました。

「愛という名のもとに」というドラマの中で、浜省の曲が毎回流れていました。

でも再放送を見ると、すべて浜省の曲はカットされ、異なるBGMに切り替わっていました。本人からの要望だったのかなと思っています。

あるコンサートのときに「昔の話になりますが、一時僕の曲が売れたことがありました。全くテレビっていうやつは…」と苦笑いしていました。

ああやっぱりか、と僕は思いました。

それ以来、浜省の曲がテレビドラマやCMで流れるとういうことはありません。

コンサートでのみ、(ライブDVDでのみ)浜省の声を聞くことができます。

一ファンとしては「もっと儲けるために、少しはテレビに出て宣伝すればいいのに…」と思うこともありますが、どうやら本人には全くその気はないようです。

大好きなコンサートのみを通して自分の好きな音楽を届けたい、それしか考えていないのだと思います。

ここ10年ほど、浜省はアルバムを出していません。「歌詞が出てこない」といつも言っているように、多分今回もメロディーは作れるけど歌詞で苦戦されているのか?

そもそもやっぱり大好きなコンサートに集中されていのかなと、僕は勝手に思っています。

僕が最後に浜省のコンサートに行ったのは、5年ほど前にオーバードホールで行われた、ファンクラブ限定のコンサートです。

とにかくチケットが取れない・・・

浜田省吾さんは、僕のちょうど20歳上になります。今度の12月29日で74歳になります。

今のうちに聞いておかないと、引退してしまう!と焦っています。

今度こそ、浜省のコンサートに行きたい、と思っています。いろんな土地でのコンサートに申し込みたい、と思っています。

今の僕の生活の中では、やっぱり浜省の曲の存在は、特別なものであり、どれだけ浜省の曲に救われているのか?

言葉では言い尽くせないほど、感謝しています。

幸い、Youtubeのおかげで毎日気分の赴くままに、浜省のいろんな曲を聴いて、リラックスタイムを過ごさせてもらっています。

尾崎豊さんもそうですが、今でも熱狂的なファンが多く、絶大な支持を得続けています。

僕はそれほど尾崎豊さんの曲には詳しくはないのですが、いろんな本やネット情報で尾崎豊さんに関する情報を手に入れています。

浜省や尾崎について熱く語れる人とこの先出会えたらいいな、と思っています。
2026年09月28日 04:24

浜省っちゃ広島の人なんか??

「おう、お前の影響で、なんとなく浜省の歌最近聴いとるんやけど…」

「えつ,そうなんですか?ありがとうございます!」

「浜省っちゃ広島の人なんか??やたら歌詞の中に戦争とか出てくるけど…」

「はい。浜省のお父さんが警察官で、浜省が小学生~中学時代にかけて10回くらい広島県内転校しとったみたいです」

「ふ~ん。あの例の『星の指輪』け?お前の前で言ったら悪いけど… 夢物語みたいな歌やぞ?現実離れしすぎや!」

「そうなんですか」

「当たり前やろ?どこの夫婦に自分の奥さんに『今も変わらず恋してる』とか言うがよ? まぁまだ独身のお前にはわからんやろうけど…」

「そうなんですか?僕には何となくイメージできたんですけど…」

「お前中学生か?どこの夫婦にそんな年中happyな人おるがよ?ちょっと考えたらわかるやろ?お前みたいヤツが即離婚するんやぜ(笑)」

「ウソや思たら、友達に聞いてみいよ?お前、何しに新潟大学行っとったんよ?佐渡島でも見に行っとったんか?」

「もっと現実的な歌あるやろ?例えば『初恋』け?」 「あの歌めちゃくちゃ歌詞いいねけよ!!初めて聞いた時、鳥肌立ったぞ!浜省の生き様をそのまま年表にしたような歌詞やの?」

「あ~確かにそうですね。少年のころからの成長物語みたいな歌詞ですね」

「俺は素人やから、せいぜいでJ BOYとか MONEYとか「もうひとつの土曜日」け?そんなんしか知らんけど、浜省ファンの中でっちゃ実際どうなんよ?」

「あ~それいい質問ですね。ファンによって浜省のお気に入りソングはバラバラです。だけど「もうひとつの土曜日」とか「MONEY」とかは、多分人気そんなにないと思います。

「何でよ?めちゃくちゃ有名やねよ?」

「な~ん、あまりにも有名すぎて、ファンの中では多分不評やと思います。よくカラオケで馬鹿の一つ覚えみたいに「もうひとつの土曜日」とか歌っとる人とかいますけど、「またそれか?」って僕とか浜省ファンはあきれてると思いますよ。

ふ~ん、そんなもんなんか?まあ俺は尾崎世代だから、どうしても「卒業」とか「シェリー」とかには強い思い入れあるの。

よくテレビで「I Love  You」ばっかり流れとるけどあれは何なんよ?あればっかりやねよ?マスコミの奴ら、何もわかっとらん」

「あ~その気持ち、よくわかります。尾崎も若いころ浜省の曲、かなり聴いとったんで浜省と尾崎の歌詞には、結構似たような歌詞出てきますよ!」

「そうなんか?それは初耳やわ」「お前さすが浜省ファンやの?詳しいの~。まあ俺の中では『初恋』かなあ。「俺の初恋はロックンロール」って… 浜省叫んどるの?でもそれだけ好きなんやろうの」

「でも何であんなにやたらと洋楽け?あっちの歌ばっかり出てくるがよ?浜省っちゃ、邦楽嫌いなんか?」

「はい。多分。でも山下達郎は浜省と同期というか、同じ年齢だったかな?仲いいですよ」

「ふ~ん。お前よく知っとるの~。そのガッツを仕事に活かせよ(笑)」「お前のやっとること、つっこみ所満載やぞ!」

「えっそうなんですか?」 「当たり前やろ?何であれだけの結果出しながら閉鎖なんよ?意味わからん。俺だったらとっくに福光制覇しとるぞ!ちょろこいの~」

「そうなんですか??」「まぁお前はまだ駆け出しや。そんなこともあるちゃ。」

「まあでも浜省の年齢くらいの人っちゃ、圧倒的にビートルズファン多いよの?それは何となくわかる」

「僕はあんまりビートルズは詳しくないんですけど・・・」

「なんで浜省っちゃ、あんだけいい歌作っとるがに、あんなに売れてないがよ?作戦か?」

「まぁ一番の原因はやっぱりテレビにいっさい出ないからですかね」

「確かに俺も浜省がテレビで歌っとる姿、見たことないわ」

「浜省は若いころに2・3回だけテレビに出たんですけど、たかだか1時間番組のために、朝からリハーサルとか?うんざりしたみたいですよ」

「なるほど。それは知らんかったわ。とにかく俺の中では『初恋』が圧倒的に1位や!」

そうなんですね!いいですよね。僕も『初恋』好きですよ。メロディーもかなり好きです。

「まぁあれだけ長いこと活躍しとるってことは、理由があるはずや。たくさんの人の夢を背負って大変やろうの」

「お前、浜省生きとることに感謝しれよ。尾崎は死んでしまったからの。二度と尾崎の肉声は聞けんからの。残念やわ」

「お前、浜省のコンサート行けるうちに行っとけよ。なかなか浜省を越えるようなアーティストは出てこんぞ」

「はい、わかりました」

「まぁ、また浜省の話聞かせてくれよ!」

「はい!ありがとうございます」
2026年09月27日 09:39