個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

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中3最後の大会

今日は大門中学校女子バレー部の試合でした(最後の大会)

芳野中学校で試合がありました。

見に行くことはできなかったのですが、結果が気になっています。

あさっての塾のときに生徒さんに結果を聞こうと思います。

3年生にとっては最後の大会になります。7月にも試合はあるのですが、大きな大会は今回が最後になります。

負ければ受験生モードに入る予定です。

僕は中学時代サッカー部でした。

強いチームではなく、春の大会はたしか2回戦で負けたと思います。

3年生の7月に最後の大会(富山市大会)があり、このときは奇跡的に勝ち上がっていき、準優勝しました。

嬉しかったです。

7月下旬にサッカー部を引退しました。

夏休みに育英センター奥田校さんの夏期講習に行くかさんざん迷い、結局行きませんでした。

もしも行っていれば、受験生モードに入っていたかなと今は思います。

中3生のみなさんには、ぜひ夏期講習へ行ってほしいと思います。

自分の基準で勉強することも大切なのですが、知らない人に交じって刺激を受けることも大切かなと思います。

一人で夏休み、自宅で勉強し続けることはなかなか大変なのかなと思います。

通っている塾の夏期講習へ行けば、強制的に勉強できることになるので良いですね。

去年、寺子屋に通っている中3生の生徒さんが、夏休み毎日、学校でのスケジュールに合わせて勉強されていました。

学校の1限目と同じ時間帯に50分勉強してその後10分休憩。そして2時間目と同じように50分勉強してその後10分休憩。

このリズムで毎日6時間勉強されていました。

すごいなと思いました。

自分の意思を強く持ち、夏休みを乗り切りました。無事、県立高校に合格されました。


夏休みは毎日最低3時間は勉強してほしいなと思います。それ以上できれば、尚良いと思います。

午前中に1時間。午後に1時間。そして夜に1時間で合計3時間。

夏休みはまとまった時間勉強することのできる貴重なチャンスです。

夏休みを逃すと、次にまとまった時間勉強できるのは冬休みになってしまいます。

夏休みを大いに有効活用してほしいなと思います。まあまだ先の話ですが…


さて、話は変わりますが、明日の早朝5時からワールドカップサッカーの日本対オランダの試合がテレビで中継されます。

大切な初戦になります。オランダはFIFAランク8位の強豪です。

日本はFIFAランク18位なのでオランダは格上の相手になります。

勝てなくても引き分けに持ち込んでほしいなと願っています。

早起きして応援します。
2026年06月14日 22:33

あっという間に期末テストですね。

先日ようやく中間テストが終わったかと思ったら、今度はもう期末テスト期間に入りましたね?

中間テストと期末テストの間が短すぎますね?

特に中学3年生は部活の大事な大会があり、さらに期末テストもあるという過酷なテスト期間に入りますね?

内申書にも響く、大切な期末テストになります。

中学1・2年生にとっても期末テストは1学期の通知票の成績に大きく影響する、大切なテストになります。

学校によっては、中間テストの範囲が一部、期末テストの範囲になることもあります(例えば中間テストで間違いの多かった問題など)

7月に入ると3年生の場合、学校にもよりますが、いよいよ40点満点の実力テストが始まります。

この実力テストはテスト範囲がとても広く(主に中1~中2まで)本当の意味での学力・実力が試されるテストになります。

また入試問題と似たような難易度のテストになります。そのため、学校の定期テストとは少し難易度が異なるかもしれません(学校のテストよりも難しい場合が多いです)

また7月に入ると「富山全県模試」が始まります(中3生の場合です)

この「富山全県模試」は受験生がとても多く、1,000人~2,500人くらいの中3生が受験します。

志望校が4つ書けて、それぞれの志望校・志望学科について、A判定~E判定まで、現時点での評価が出ます。

この評価がとても大切で、教えている僕にとってもこの「富山全県模試の評価」を知ることは,今後の指導における目安・目標になります。

「志望校までの点数・目安」または「志望校に届いている」ことがはっきりとわかることが一番大切なことになります。

A判定やB判定をもらえたら大きな自信になったり、さらに志望校をもう1ランク上げることも可能です。

逆にD判定とかE判定をもらってしまったとしたら、志望校までの合格可能性は現時点では20%~30%しかありませんよ、ということになります。

富山全県模試を受けて、入試勉強へのスイッチが入るきっかけになれば良いと思います。

きっかけ作りになることが一番の目的だと僕は思っています。



あとはこれから始まる「オープンハイスクール」もとても貴重な体験になります。

「オレ(私)は何がなんでもこの高校に入りたい!」と強烈に思えるようなきっかけになれば良いと思います。

周りの友達を見て「なんだ、まだ誰も勉強してないな」と安心するのではなく、一生懸命に勉強している生徒さんを見て

「俺も頑張らないと!」と思ってください。

「俺は(私は)勉強しています」と堂々と言える人は普通いません。

勉強していても「全然勉強してないちゃ~」と笑っているものです。


それを真に受けてカン違いしないようにしてください。


7月に入ると「三者面談」もあります。そろそろ志望校を決めて、先生に相談されるのも良いかなと思います。

最近の中学の進路指導はあいまいなことが多いと聞きますが、それでも真剣に相談すれば、先生は

「今のままで大丈夫です」「今のままでは厳しいかと思います。勉強してください」

などの具体的なアドバイスをもらえると思います。

塾へ行っていたり家庭教師をされている場合は塾の三者面談や家庭教師の先生に直接相談されたりすることができるかと思います。

いずれにせよ、3年生はそろそろ気を引き締めて受験モードに入ってください。


もう何回もこのブログで言わせてもらっていますが、僕は中3の夏休み、一番勉強しなければならない大切な1カ月間、週に3~4回も釣りに行っていました。

毎日の学習時間は1時間くらいしかありませんでした。

もちろん、そんな夏休みを過ごしてしまった僕に、受験の女神は微笑んではくれませんでした。

12月になり、ようやくスイッチが入ったのですが「時すでに遅し」 

志望校に合格できませんでした。


この僕の「失敗例」のようにはなってほしくないと思っています。

家で勉強できないなら図書館へ行って勉強したりするなど、対策を練ってください。

もちろん全く遊ぶな、とは言っていません。メリハリをつけて「勉強時間」と「リラックスタイム」を区別して毎日自分で決めた勉強時間を守って勉強してください。

吹奏楽部など、夏休みも部活がある、という3年生は特に他の受験生よりも後れを取ってしまうことになりやすいので、自分に厳しく勉強してください。


さて、期末テストまであと少し。

学校のワークや提出物は必ず出してください。

学校のワークを2回やって、その後に他の問題集などで力をつけてください。
2026年06月13日 07:48

kawaiピアノグレード7級試験 / 小学5年生

僕は保育所の年長組~中学1年生の終わりまで、ピアノを習っていました。

僕の母親は僕が幼少時、かなり厳しい人で、小学生にあがったころには毎日日記を書かされていました。

漢字すらろくに書けない「小学1年生」に毎日日記を書け、と言われていました。

今振り返るとめちゃくちゃですよね?そんなもん小学1年生に何が書けるのか? はなはだ疑問です。

保育所時代には「水泳」を習わされていました。週に1回、富山市民プールで水泳を習っていました。

このときのコーチが20代の女性のコーチで、すごく厳しい方でした。僕はこの水泳の時間が地獄で、当時最も嫌いな時間でした。

そんなある日、2つ下の妹が突然「ピアノを習いたい!」と言い始めました。母は喜び「わかったよ!」と言っていました。

僕は「これはチャンスだ!」と思い、母に「お母さん、俺もピアノ習いたい!もし俺がピアノ習ったら、水泳辞めてもいい?」と聞くと母は

「いいよ」と言いました。 こんな不純な動機で僕は「恐怖の水泳タイム」から卒業し、「ピアノタイム」にシフトしました。

やっと怖い水泳のコーチから解放された!と喜んでいた僕は保育所の年長組だった当時、ピアノを毎週金曜日に習うことになりました。

ピアノの先生は水泳の鬼コーチとは180度違って、とても優しい20代の先生でした。

もちろん僕は当時、ピアノには全く興味・関心などなく、水泳から逃げるために始めたのですが、これがなかなか楽しく、気づけばピアノが好きになっていました。

妹のおかげで水泳から逃れ、毎日20分~30分くらい自宅でピアノの練習をするようになりました。

小学生になり、2年生の6月1日から僕は今度は「サッカー部に入りたい」と思うようになり、友達の影響を受けサッカーを習うことになりました。

毎日夕方から豊田小学校のグラウンドでサッカーに打ち込む日々が始まりました。

ところがこのサッカー部の練習がかなりきつくて、コーチは優しい人だったのですが、毎日のように練習があり、遊びたい盛りだった僕は大好きな野球ができず

ひたすら月曜日から土曜日までサッカーの練習。日曜日は試合 という日々に…。

そして金曜日はピアノのレッスン。 なかなか忙しい小学生でした。

冬場は寒くて手がかじかんだ状態でピアノの練習をしていました。バイエルから始まったピアノ練習。

嫌いではありませんでしたが、サッカーとのかけもちは,なかなか厳しくまた当時は同じ小学校に男子でピアノを習っている人が僕以外に誰もいなくて

恥ずかしい思いをしていました。なるべく友達には「ピアノを習っている」ということは言えませんでした。

年に1回「ピアノ発表会」があり、保護者やレッスン生の前でピアノを披露する、という機会があり、これも僕には重荷でした。はっきり言って嫌でした。

小学4年生の冬には、初めて「コンクール」に出場することになりました。


詳しくは覚えていないのですが、30人くらいの小学生がコンクールの課題曲と自由曲の2曲を演奏する、というものでした。

僕は嫌々練習していたのですが、父が「コンクールが終わったらお前の大好きなドカベン(マンガ本)を買ってやる!」と言ってくれたので頑張って練習しました。

そのコンクールで僕は「優秀賞」を獲得しました。そんなに嬉しくはなかったのですが、ピアノの先生に「優一郎君。頑張ったね!おめでとう」と言われ気分を良くしていました。

そして次に「優一郎君、河合のグレード試験8級受けてみない?」と言われました。

 コンクールで優秀賞を受賞し、すっかりいい気分になっていた僕は「はい。受けます!」と言ってしまいました。

こうして毎日1時間くらい「グレード8級」の練習に打ち込むようになりました。

サッカー部の練習から家に帰って来るのが午後6時半くらい。それから夕食を食べ風呂に入り、1時間ピアノの練習をする、という生活が始まりました。

そして約4カ月後、僕は河合グレード8級の試験を受け、1回目の挑戦で無事合格しました。

このころには少しずつ自信が出てきて「ピアノもなかなか楽しいなぁ」と思うようになっていました。


 迎えた5年生。今度は先生が「優一郎君。グレード7級受けてみるけ?今度は難しいよ」と言われました。

断るということを知らなかった僕は、半ば流されるように「はい!」と返事していました。


ところがこの7級。小学生の僕にはかなり難しく、半年くらい毎日1時間練習しました。

そして迎えた試験当日。

当時総曲輪通りの中にあった河合楽器の上にある試験場に行く前、母が気を使ってくれて「何か飲んでいくけ?」と言ってくれ

僕は喫茶店に入りました。そして当時大好きだった「メロンフロート」を注文したのですが、あまりにもの緊張でほとんど飲むことができませんでした。

ああ俺にも緊張することってあるがやな、と思い、プレッシャーに押しつぶされていました。

そして7級の試験が近づき、僕の番になりました。試験場には数名の受験者がいました。

「練習通りやれば大丈夫」と思いながら鍵盤を弾くのですが、極度の緊張のため、思ったように指が動かず、最初の出だしの所で何回もつまづき、やり直し演奏していると

試験監督から「そこまで。もうけっこうです」と言われてしまいました。

結果 不合格。

半年間も練習してきたのに力を全く出し切れずに不合格となってしまいました。

不合格の通知を聴いた後、ピアノの先生が「どうする?もう7級あきらめる?それとももう1回チャレンジする?」と訊かれ、僕は

「もう1回受けたい!」と即答していました。そしてまたもや毎日1時間の練習生活が始まりました。

そして2回目のグレード試験。

この時も緊張はしましたが、2回目だったのと十分に練習をしてきていたので少し自信がありました。

そして試験が始まりました。

練習通りに演奏することができ、最後まで演奏しきって試験終了。

結果… 見事合格!

合格してから初めて先生から聞いたのですが、「優一郎君。実は富山県の小学生男子でこの河合グレード7級の試験に合格したのは優一郎君しかいないんだよ」

と言われました。

僕はびっくりしました。とても嬉しかったです。

こうして小学5年生にして僕は「河合グレード7級」の資格を手にしました。賞状をもらい,誇らしい気持ちになりました。

こうして僕のピアノ生活はとりあえず成功を収めました。

中学生に上がり今度は「ソナチネ」というピアノ教材を練習していくことになりました。


 そして中学1年生のときの「合唱コンクール」で僕は(1年5組だったのですが)、合唱コンクールの課題曲「大空賛歌」のピアノ伴奏をすることになりました。

この時もピアノの先生から指導を受け、無事に演奏でき僕たちのクラスは最優秀賞を獲得しました。うれしかったです。

11月に行われた「文化祭」で僕たち1年5組のメンバーは全校生徒の前で「大空賛歌」と「戦争を知らない子どもたち」を披露しました。

ただ、この合唱コンクールを終えたあたりから僕はだんだんとピアノの練習がおっくうになってしまい、部活(サッカー部)を理由に、1年生の3月いっぱいでピアノを辞めました。


高校生になり、たまに好きな歌謡曲の伴奏を練習したりしていました。

高校3年生の冬はKANさんの「愛は勝つ」の伴奏練習を一生懸命にして、「愛は勝つ」の弾き語りをしていました。

 
時は流れ現在。 ピアノを弾くことはほとんどありませんが、大学1年生の夏休みから始めた「フォークギターの演奏」をするようになりました。

音楽が好きなのだと思います。

ギターの場合、ピアノとは異なりどこでも演奏できるので、大学時代下宿から徒歩2分の所にあった「五十嵐浜」で浜田省吾や尾崎豊の曲などを練習していました。



話は変わります。

僕の塾には、ピアノを習っている中学生はけっこうたくさんいて、僕の塾には毎年のように「吹奏楽部」の部員がいます。

吹奏楽部は中3になっても活動が続き、夏休みに入っても部活をされている中3生がほとんどです。

受験勉強のスタートは遅れるのですが、夢中になれるものがあるのは素晴らしいことだと毎年思っています。

 
2026年06月11日 07:45

2回目の小学校教員採用試験

昨夜、ふと自分が教員だったときに持っていた「新潟県教職員名簿」を見ていました。

僕は年に2回くらい、この教員名簿を見ています。

当時の〇〇先生はこのとき〇〇歳だったんか。当時はどんな人だったかな、とか思い返すことがあります。

僕は2回目の教員採用試験で、新潟県の小学校教員採用試験に合格しました。

現役のとき(大学4年生の夏)は富山県と新潟県の小学校教員採用試験を受験して、富山県は1次試験で、新潟県は2次試験で不合格になりました。

大学を卒業して新潟から富山の実家へ帰ってきて、就職浪人生活が始まりました。

当時つきあっていた恋人は新潟県上越で小学校の教員をしていました。新採用教員として、上越で一人暮らしをしていました。

僕は自分で言うのも変なのですが、教員試験のペーパーテストと論文・水泳・ピアノ弾き語りテストには絶対の自信を持っていました。

面接だけが苦手意識が強く、浪人してからも面接のことにかなりの時間を割いて対策を立ててきました。

さて、僕は浪人してから、大学4年生のときの「全国の教員採用試験の1次試験と2次試験の倍率を調べて、研究していました。

僕の調査によると、僕が大学4年生の夏に受けた1回目の教員採用試験の倍率で、全国1倍率が低い都道府県は北海道でした。

当時はどの県も採用試験の倍率は6倍~10倍くらいの狭き門でした。

北海道だけは僕の記憶によると2倍~3倍の間くらいの倍率でした。へき地が多く学校数が多かったため、「1小学校あたりの教員数」が他県と比べて圧倒的に多かったのです。

次に倍率の低かった県は鹿児島県・福島県・岐阜県でした。

僕は試験日を書き出し、地元の富山県は受かるはずがないと思い、富山の試験日に岐阜県の教員試験を受けました。

さんざん悩んだ挙句、僕は2回目の教員試験は

1.新潟県 2.岐阜県  3.福島県 を受験しました。

本命は新潟県でした。

浪人生活が4月から始まり、新潟県の1次試験で出題される「小学校全科」「学習指導要領」「論文」「ピアノ弾き語り(われは海の子)」

2次試験で出題される「教職教養」の勉強をしていました。といっても一度試験を受けているので、新たに勉強することはほとんどなく、

「去年の復習」をする程度が勉強内容でした。

僕は大学時代、2年生の春からすでに教員採用試験の勉強をしていたので、暗記には絶対の自信がありました。

といっても「センター試験の勉強」のような膨大な暗記量は必要なく、「学習指導要領」「学校教育法」「地方教育行政の組織および運営に関わる法律」「地方公務員法」

「教育公務員特例法」「日本国憲法」などの法律などを大きめの単語カードに書いていき、コツコツとそれらを丸暗記していきました。

法律特有のまどろっこしい表現などには少し戸惑いましたが、「まぁ1次は受かるやろう。問題は新潟県の2次試験の面接対策だな」と思っていました。

まさに浪人していたときの今頃(6月上旬ごろ)勉強は完璧に準備できていました。

小学校教員採用試験の「小学校全科(国語・数学・理科・社会・体育・音楽・家庭科・生活)の知識問題を完璧にするために全国の教員採用試験の過去問

当時は「東日本編」「中部編」「西日本編」があり、すべての問題を解ききっていました。レベルは県立高校入試レベルの問題が大半でした。

今とは異なり当時は教員人気が強く、倍率も高かったため、僕は「何が何でも教員になりたい。そのためだったら富山を離れてもいい」と決心していました。

新潟県の教員試験の申し込み日の初日に僕は郵便局へ行き、応募しました。

受験番号は「5番」でした。

男子の場合、「ピアノ弾き語り」がネックで苦労している人が多かったのですが、僕は幸い保育所の年長組~中1の終わり」までピアノを習っていたので、

ピアノ弾き語りは大丈夫でした。福島県を受験したときは「バイエル」が出題されていました。岐阜県の場合は「冬景色」と忘れましたが残り2曲がテスト範囲で、当日に

1曲を指定される、という試験形式でした。新潟県の場合は、自分で曲を決めることができたので、(教科書にのっている曲の中から)「われは海の子」を選んで練習していました。

浪人生活の間、自宅で勉強していると「もしも今年も落ちたらどうしよう」と焦ってきてばかりいたので、富山市立図書館の自習室で勉強する、という形で勉強していました。

図書館に行くと、見たことのある大学の先輩がいて、「この先輩も受験するんやなぁ」と思いながら勉強していました。

毎晩、当時付き合っていた彼女に電話をして「不安やわ。大丈夫かなぁ」と愚痴をこぼしていました。

彼女は彼女で新採用教員だったため、毎日必死でしたが、僕の愚痴につきあってくれていました。とても感謝しています。

今までの人生を振り買ってみて、入試・テストで一番緊張したのは、高校3年生の時に受けた「センター試験」でした。

その次に緊張したのが「新潟県教員採用試験の2次試験(面接)」でした。

僕は2回目のチャレンジで新潟県小学校教員採用試験に合格しました。

入社試験や資格試験など、就職・仕事に関わる試験はとても緊張されることと思います。

これから教員採用試験を受けられる大学4年生や就職浪人生の方々、1次試験まで残りわずかですね?

後悔なきよう、精一杯勉強されて準備されてください。応援しています。
2026年06月10日 12:19

中間テストはいかがでしたか?

中間テストが終わり、答案が返ってきたことと思います。

テスト結果はいかがでしたか?

新しい学年になって初めての定期テスト(1年生の場合は初めての定期テスト)が終わり、結果に一喜一憂されていることと思います。

5教科の中で結果にこだわってほしいのは「英語」「数学」の2教科です。

英語と数学は積み重ねの教科なので、一朝一夕には成績は上がりにくく、ただテスト範囲の狭い定期テストの場合は、一生懸命に勉強すれば報われる可能性は大きいかと思います。

中間テストが終わってホッとしたのもつかの間、次は期末テストが待っています。

あっという間にむかえる期末テスト。しかも副教科もあるため9教科のテスト対策は大変かと思います。

特に中3生の場合は「内申書」に直結する大切なテストになります。

まずは「学校のワーク」を早めに終わらせ、2回目→3回目とこなせるよう、頑張っていきましょう。

中間テストよりも良い結果が出るよう、頑張りましょう。

また、次のテストが「新しい学年になって最初のテスト」という生徒さんもいらっしゃいます。

中間テストがなかった分、テスト範囲は広くなってしまいます。

早め早めに学校のワークから取り組んでください。

わからない所があったら、先生、友達、塾の先生、家庭教師の先生に質問されてください。

応援しております。
2026年06月09日 08:04

母校優勝!

昨日,高校総体サッカー富山県大会決勝戦が岩瀬スポーツ公園で行われました。

相手は高岡第一高校でした。

前半に2点富山第一高校が取り、後半は0-0。合計2-0で母校、富山第一高校が勝ち、優勝しました。

インターハイへ出場することが決まりました。

雨が少し降ってきた中での試合、前半の2点が効きました。

今年で5年連続インターハイ出場になります。

全国大会でも良い成績が出るよう、応援しております。

頑張れ富一イレブン!
2026年06月08日 14:47

母校決勝戦進出!

今日、10時30分~ 岩瀬スポーツ公園にて、母校富山第一高校 対 富山北部高校のサッカーの試合(高校総体富山県予選準決勝)が行われました。

試合前は少し雨が降っていたのですが、試合が始まるころには雨は止んでいました。

前半は富山第一高校ペース。富山第一高校が攻める場面が何度もありましたが、得点はできず、0-0で前半を終えました。

後半に入り、やや一高のペース。

後半途中で得たフリーキックのチャンスを一高がものにして1点リード。

そのリードを最後まで守り切り、1‐0で富山第一高校が勝ちました。

明日は決勝戦です。

暑い一日になりそうですが、選手の皆さんには頑張ってほしいなと思っています。

明日も見に行く予定です。

明日の試合模様はケーブルテレビで生中継されるそうです。

母校が優勝して、高校総体に出られるよう、応援してきます。
2026年06月06日 14:07

明日は高校総体サッカー富山県予選準決勝 / 和田秀樹先生

明日は高校総体サッカー富山県予選準決勝戦が行われます。

試合会場は岩瀬スポーツ公園です。久しぶりのスポーツ公園での準決勝になります。

僕の母校、富山第一高校は、明日の午前10:30~富山北部高校と対戦します。

毎年のように高校サッカー(高校総体と冬の選手権の富山県予選大会)を見に行っています。

明日も暑くなりそうですが、応援に行って来ます。

明日は他の競技の試合もあるため、駐車場が満杯が予想されます、と記事で読みました。

自転車で行った方が確実なのかな。僕の家からスポーツ公園までは自転車で行ける距離にあります。

小学生のころ~高校生のころまでは、よく岩瀬スポーツ公園で高校サッカーの試合が行われていました。

地元だったので、よく友達と見に行っていました。


中3の冬の選手権大会予選のときのことです。

友達と試合を見に行ったとき、友達がふと「佐伯も東(富山東高校)に行って、サッカー続けれよ。こんな良い所でサッカーできたら楽しいと思うぞ!」と言ってくれました。

すっかりその気になってしまいました。

「東に行ってサッカー部に入る」という、おぼろげでしたが、夢がありました。

東に行ってサッカー部に入って、そして富山大学に合格したい!


 結局どの夢もかなわなかったのですが、富山第一高校に行ったのは正解だったのかなと今は思えます。

もしも東高校に合格していたら、間違いなくサッカー部に入っていたと思います。

練習でくたくたになって、家に帰っても勉強せずに寝てしまい、落ちこぼれていただろうなと思います。

大学受験は高校受験よりも厳しい、と一般的には言われていますが、僕の場合は高校受験の方が精神的に大変でした。

初めての受験だったことが一番の理由です。

僕は中学3年生の12月になってから、ようやくエンジンがかかり猛勉強しました。

結果、東高校を受験して不合格でした。でも、勉強の仕方・コツは中3の12月からの猛勉強をしながら、つかんできました。

その勢いのまま一高へ行き、部活には入らず、勉強をしました。

受験勉強のコツを知っていたので(定期テストだけを必死に頑張っても大学受験では全く通用しないということ)も経験して知っていました。

当時は今みたいにネットがない時代。どうしても都会と地方とでは受験情報について格差がありました。

蛍雪時代を読むことくらいしか、勉強の仕方について知る機会はありませんでした。

予備校に通うという選択肢は最初から全くありませんでした。


ただ、受験のカリスマ「和田秀樹」先生の著書に出会ってから、僕の勉強方法はさらに磨かれて行きました。


友達の家で高2の夏休みに偶然、和田秀樹先生の「偏差値50から早慶を突破する法」という本を読み、全身に電流が走りました。

翌日に本屋で和田秀樹先生の「偏差値50から早慶を突破する法」を買い、穴が開くほど読みました。

同じ国公立大学でも、大学・学部によってセンター試験の配点や2次試験(個別試験)の教科・配点が異なることすら知らなかった僕は衝撃を受けました。

数ある国公立大学の中から、僕の得意科目の配点が大きく、かつ苦手科目の配点が少ない「新潟大学教育学部」を

高2の夏休み、一高のクラスにあった「蛍雪時代」を熟読して、やっとの思いで見つけました。

それからは「どうしても新潟大学に行きたい!」と強く思うようになり、毎朝通学路にあった

「新潟運輸」の大きな会社看板を見て鼓舞していました。

あこがれの新潟大学…

進研模試の判定はA判定でした。卒業するまでA判定は変わりませんでした。でも僕はこの結果にはもちろん満足せず

「高校受験の借りは大学受験で返す」といつも思い、打倒東高校に燃えていました。

高校3年生の8月20日に友達と3人で鈍行列車を乗り継いで新潟大学まで行って来ました。

富山大学しか知らなかった僕は、新潟大学のキャンパスの広さに驚きました。「うわ~広い!」

教育学部の白い校舎に入りこみ、エレベータ―で9階まで登り、そこから見えた「佐渡島」を写真に撮り、教育学部の看板を写真におさめ新潟大学をあとにしました。

中3のときよりも勉強時間は減ってしまいましたが、新潟大学に合格することができました。


 ようやく高校受験の借りを返せたなと思いました。長い高校3年間でした。


さて、僕は毎年中3生に「どこの高校に行きたいけ?」と尋ねています。

たいていの3年生は7月ころにもなると「○○高校に行きたいです」と具体的な高校名を挙げてくれます。

その志望校に合格できるよう、僕の高校受験みたいに失敗しないよう、僕と同じ道を歩まないよう、細心の注意を払って受験生に勉強を教えています。

今は僕の時代とは異なり「オープンハイスクール」という大変便利でありがたい制度があります。

自分の行きたい高校の写真を撮って携帯の待受画面にするもよし、高校の名前が入ったペンやクリアファイルなどを買うもよし、

志望校への思いを募らせてほしいなと思っています。

まだ6月に入ったばかりなので、スイッチの入っている中3生は僕の塾にはいませんが、7/5に行われる第2回全県模試を受けて

とりあえずの「自分の現在地」を知ってほしいなと思っています。

自分の現在の成績は志望校の中で何人中、何位なのか? 判定をきっかけに勉強のスイッチが入ればいいなと思っています。

大半の中3生は7月で部活を引退され、受験体制に入ることができます(勉強しない生徒さんはもちろんいますが)

オープンハイスクールをきっかけに、またはもうすでにスイッチが入っている生徒さんの影響を受けて

志望校合格に向けてスタートを切ってほしいなと願っています。

頑張る受験生を一生懸命に応援します。
2026年06月05日 15:06

波の音 CD / わたがし

7年ほど前に、「効果音」のCDレンタルのコーナーで「波の音」というタイトルが書いてあるCDをレンタルしてきました。

CD-Rに焼いて、たまに思い出したようにこの「波の音CD」を聴いています。

8分くらい,ひたすらただ「波の音」が流れてくるのですが、とても癒されます。

部屋の電気を消して、真っ暗な状態でこの「波の音CD」を聴いています。


このCDを借りるきっかけになったのは、今からさかのぼること46年前のこと。

小学校へ登校するのに遅れそうになったとき、偶然友達のお父さんが僕を拾って車に乗せてくれたときのことです。

友達のお父さんは、手袋をはめてハンドルを握っておられました。それ自体珍しいなと少し驚いたのですが、そのときに

カーステレオから流れていたのは、「蒸気機関車が発車して進んでいく音」でした。

初めて聞いたので僕は驚き、強烈なインパクトを受けました。

小学校へ着くまでの約5分足らずの「蒸気機関車の音」だったのですが、猛烈に感動したのを覚えています。

僕が小学校2年生のときの出来事です。

その出来事を思い出し、8年くらい前にレンタルの「効果音」のコーナーでいろんな効果音のCDを見ていました。

その中で「波の音」がいいなと思い、借りてきました。

蒸気機関車の音はありませんでしたが、他にも「セミの鳴き声」というタイトルのCDもありました。

とても気になっているので、近い将来借りてこようと思っています。

ネットでも検索するといろんな効果音が出てくると思います。

たまには効果音を聴いてリラックスするのもいいのかなと、最近思っています。


PS:3年前に知り合いの女性から「バックナンバーのわたがという歌いいよ~♪」と教えてもらい、借りてきて聴いていました。

今日久しぶりに「わたがし」を聴きました。バックナンバーの中では珍しく、少し暗く切ない歌詞の曲です。

この曲を聴くとその人のことを思い出します。
2026年06月04日 21:33

運送会社時代 / 1997年 25歳

小学校の教員を辞めて、富山に戻ってきてから、職安へ通う日々。

5月下旬に「家庭的な職場です」という一言に心動かされ、僕は職安を通してその「小さな運送会社」で面接をしてもらうことになりました。

富山市中心部にあるその会社の面接のときに「将来的に大型のバスとかトラックとかに乗りたいって言わないかな?言わないんだったら採用するよ」

と社長に言われました。

「はい、言いません」」と答え、その結果採用されました。

1997年6月のことです。25歳でした。

当時、僕は富山市内の道でさえろくに知らない「ド素人でかつ方向オンチ」でした。

勤務時間は朝8時~夜18時まで。


最初の1カ月間は先輩社員の方が,僕に仕事のアドバイスや道案内の地図を書いてくれたりしました。

午前中は富山市内で荷物を預かってくる仕事(集荷:しゅうか)をしました。

そして午後からは大沢野方面へ2回、荷物を届けに行っていました。

大沢野方面には一度も行ったことがなかったため、最初のうちは先輩社員が書いてくれた地図と、住宅地図を持って運転していました。


勤務し始めて,最初の1カ月間は大沢野方面の荷物だけを運んでいました。少しずつ道にも慣れてきました。

そして1カ月が過ぎたころに、新たに「八尾・婦中方面の荷物」も運ぶことになりました。

住宅地図を持って初めて八尾や婦中方面へ行きました。

あまりにものエリアの広さに、かなり焦りましたが、「もし道わからんかったら無線で聞け」と言われていました。

この「無線で聞く」のが僕は当時大嫌いでした。理由は、「無線で発言すると、すべての車に無線が流れるため恥ずかしい」からです。

僕の会社での名前は「18号車」でした。そのため、会社から無線で呼ばれるとき、僕はいつも「18どうぞ」と言われていました。

仕事上、名前では呼ばれることがなく、日常会話のときも「18は~?」というかんじで名前ではなく「18」と呼ばれていました。

めやくちゃ違和感があったのですが、誰も「佐伯」とは呼んではくれませんでした。

「なんか刑務所におる囚人みたいやなぁ」と思っていました。

名前で呼ばれないことに少なからずショックを受けていました。


八尾・婦中方面の運転をするときに、大切なことというか目印として、八尾→婦中→旧富山市 へ続いている道は2本しかありませんでした。

その2本の道さえ覚えてしまえば、あとは細かい場所を覚えるだけで良かったので、配達エリアこそ広いのですが、富山市に比べると道は覚えやすかったです。


 こうして僕は午前中は旧富山市,午後は大沢野・八尾・婦中エリアを担当して荷物を運んだり、荷物を預かりに行ったりしていました。

勤務し始めたころは、ことあるごとに「だからあんた先生って言われるがやぜ」「勉強だけできてもこの世界では通用せんよ」など言われていました。

僕の勤務先の従業員の人たちの学歴は○○工業高校中退、とか私立高校OBなど、勉強のできるような高校出身の方はいませんでした。

僕だけが異色の経歴で、集荷先の人たちからも「先生から運転手って変わっとるね!」と何回も言われました。

まぁ僕はそんなことを気にせず、ただ必死に働いていました。

休日は「道を覚えるチャンス」だったので、一人で八尾・婦中方面へ地図を持って運転しながら配達先を覚えていきました。

勤務中は余裕がなく、視野も狭いのですが、休日は心に余裕があるのでゆっくりと道を覚え直すことができました。

会社の人たちは最初こそ怖かったのですが、慣れてくると普通に話しかけてくれるようになり、8月に入るころにはそれまでの「18」という呼ばれ方から

「さえちゃん」と呼ばれるようになりました。うれしかったです。


教師を辞めたころは「この先どういう人生を俺は歩んでいくのだろう・・・」と毎日途方に暮れていましたが、この小さな運送会社で働き続けているうちに

少しずつ自分に自信が持てるようになってきました。

パニック発作もいつの間にか治っていました。

とにかくこの会社で働くことができたおかげで、僕は精神的にかなり強くなれました。

教員時代、あれだけ先輩の先生に質問するのが苦手だったのですが、運送会社では毎日何回も道に迷い、無線で聞きまくっていました。

「聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥」そのものの毎日でした。

先輩の方々も無線で道を尋ねると、丁寧に道を無線を通して教えてくれました。

昼休みに地図を書いてくれていたのですが、その地図が住宅地図よりも見やすく、丁寧な地図だったので、僕は毎回「うわ~詳しいな!すごい。」と驚き、感動していました。

休日こそ少なかったのですが(日曜日・祝日・あとは月に1回土曜日休み)という具合で連休はほとんどありませんでした。

ただ、「明日のことや未来のことを考え、思い詰めていた毎日」から解放されて、僕は毎日が楽しく感じることができるようになりました。

それまでの「優柔不断で人目を気にして、先輩に質問できなかった教員時代の性格」から

「プライドを捨て質問しまくる」という毎日を通して少しずつ自信を持ってタフに仕事ができるようになった性格に進歩できたことがすごく嬉しかったです。


友達とも普通に会話できるようになり、こうして僕は1年以上かけてようやく「復活しました。」

この運送会社に勤めて本当に良かった、と今でも思います。

職安で偶然見つけた会社。ラッキーでした。

先輩社員の方々には今でもとても感謝しています。

もしこの会社に勤務していなかったら、今ごろ僕はどうなっていただろう…

この会社で僕は1から根性をたたき直されました。

25歳の6月~12月上旬までの期間,僕はこの小さな運送会社で働かせてもらいました。
2026年06月03日 06:06