個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

わからない所が1つずつわかるようになる、達成感ある授業を心がけています。

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結婚闘魂行進曲「マブダチ」 / 気志團

今から10年ほど前、僕は後輩の結婚式(2次会)に参加するため、名古屋に行きました。

そのときに2次会で後輩の一人が気志團の「結婚闘魂行進曲 マブダチ」という曲を振り付けで歌っていました。

僕はそのときは気志團の歌なのだとわからず、後輩に「この歌って誰の歌?」と質問しました。

気志團といえば「one  night カーニバル」があまりにも有名すぎて、それ以外の曲はノーマークでした。


さて、恥ずかしながら僕はこの「結婚闘魂行進曲 マブダチ」の歌詞の中に出てくる「合縁奇縁(あいえんきえん)」という言葉の意味を

知りませんでした。初めて聞いた言葉でした。

合縁奇縁とは「気心がよく合う縁」という意味の「合縁」と「思いもかけない不思議な巡りあわせ(因縁)」という意味の「奇縁」が

組み合わさった言葉だそうです。


Youtubeでこの曲を検索すると、気志團が結婚式の披露宴で振り付けで歌っている映像が流れ「いいなぁ」と思いました。

カラオケで歌っているのを聴いたこともなかったので、本当にこの曲を知りませんでした。

一度聴いて「歌詞もメロディーもいいなぁ」とすっかり好きになりました。

みなさんもよければぜひ、気志團の「結婚闘魂行進曲 マブダチ」をYouTubeでご覧ください! 元気が出てくると思います。
2025年05月20日 04:12

哀しくてジェラシー / チェッカーズ

僕が小学5年生のころ、チェッカーズというバンド(アイドル?)がデビューしました。

メンバーは福岡県久留米市出身の7人で構成されていました。

僕は当時、歌番組を全く見ていなかったので、当時の音楽事情には詳しくなかったのですが、同じクラスの同じ生活班の女子の1人が

チェッカーズの大ファンで「佐伯もチェッカーズ聴いてみて!良い曲が多いよ」と言っていました。

そうかなあと思い、歌番組「歌のトップテン」を見てました(当時富山県ではベストテンは放送されていませんでした。テレビの民間放送は

フジテレビと日テレだけ放送されていました。テレビ朝日とTBSは入っていませんでした。)


当時は「涙のリクエスト」という曲が流行っていて、この曲はチェッカーズの2枚目のシングルになります。


1984年,小学6年生になり、僕たち豊田小学校サッカー部は夏休みに「立山杯」というサッカーの大会に出場しました。

当時は豊田小学校ではなく、FC(豊田小学校,岩瀬小学校,草島小学校の3つの小学校で1つのチームを結成していました)

大会に出場していたチームの半数以上は県外の強豪チームでした。

僕は当時、嫌々サッカー部に所属していて(小学5年生からはゴールキーパーをしていました)とにかく監督がめちゃくちゃ怖くて暴力的な監督

だったため、辞めたくて辞めたくて、でも怖くて親にも言えず、半ばあきらめ状態でサッカーをしていました。

鬼のような練習時間だったため、確かに豊田小学校サッカー部はとても強く、6年生のときは50試合以上して、富山県内の公式戦で負けたのは2回のみでした。

(KNB杯という、全国大会の富山県予選4回戦で富山東部小学校に0-1で負けました。

6年生の秋に行われた島田杯という県大会で新庄小学校に0-1で負けました。)


立山杯の話に戻ります。

夏休みの暑い中、3泊4日(だったと思います)で毎日試合をしました。予選→決勝トーナメントと勝ち進んでいきました。

大会の初日が終わった夜、キャンプファイヤーをみんなでしました(これは楽しかったです!)

各チームごとに出し物をすることになり、ふと他チームの出し物を見ていました。


そのときに、金沢南FCというチーム(金沢市のいくつかの小学校が寄せ集めで作ったチーム)がチェッカーズの「哀しくてジェラシー」に合わせて

踊っていました。

僕は「あっチェッカーズだ!」と思い、金沢南FCの選手の踊りとチェッカーズの歌に夢中になっていました。

そのときのインパクトが強すぎて、僕はその日以来、チェッカーズの大ファンになりました。


当時のチェッカーズはものすごく人気があり、特にボーカルの藤井フミヤさん(通称フミヤ)が圧倒的な人気を誇っていました。

カッコよく、歌もうまく、チェッカーズの中心的人物でした。


僕は中学に上がるとますますチェッカーズのファンになり、1個下の後輩がチェッカーズのレコードを全部持っていたため、その後輩に頼んで

チェッカーズのシングル曲を全部録音してもらいました。

当時のチェッカーズの曲は、売野雅さんが作詞,芹沢廣明さんが作曲を担当されていて、どの曲も歌番組でトップ10入りしていました。


やがて僕は中学生→高校生→大学生→社会人になり、29歳~32歳くらいにかけて「1人カラオケ」を趣味にしていました。

当時は録音できるカラオケハウスがあり(富山市山室にあるカラオケ飛行船によく行っていました)録音したあと、冷静に自分一人で聴き直していました。

1人カラオケではいろんな歌を歌ったり練習したりしていましたが、チェッカーズの「哀しくジェラシー」はかなりの回数歌っていました。


今はもうほとんどカラオケには行かなくなりましたが、たまにスナックなどで歌うときは「哀しくてジェラシー」を歌うことがあります。


のちにチェッカーズは解散してしまいますが、僕は今でも車の中でチェッカーズの曲(アルバムもよく聴いています)を聴きます。

小学生~中学生にかけてチェッカーズの曲を毎日のように聴いていました。

「男と女はすれ違い 初めて本気で愛したのに  

男と女は哀しいね ふたつの寂しさ重ねたら woo  ジェラシー」

という歌詞が好きでした。
2025年05月19日 13:26

CHA CHA CHA / 石井明美

1986年秋,僕が中学2年生のとき、突如石井明美という歌手が彗星のごとくテレビに現れました。

彼女は当時ドラマの主題歌でもあった、「CHA CHA CHA」という外国の曲をカバーして一躍人気アーティストの仲間入りを果たしました。

僕はこの曲をテレビ番組の「歌のトップテン」で知りました。

「かっこいい曲だなぁ。ボーカルの人歌上手いなぁ」と思いながら見ていました。

テレビの中で彼女は「中森明菜さんを尊敬しています」と言っておられました。

確かに歌の中に出てくる、「かっこだけなら また今度 goood good   night 」という部分の最後をビブラートをきかせて大変上手に歌っておられます。

まさに中森明菜!、といった感じです。


高校に進学して、僕は1年生のとき書道の授業を選択していました。

この授業は僕のクラスと隣のクラスの合同での授業になっていました。

そのときに、隣のクラスの子で一人、目がぱっちりしていてかわいく、とてもよく話す女子がいました。

僕は当時、その子と一緒に話している男子がうらやましくて「いいなぁ」と思っていました。


やがて2年生になりクラス替えがありました(と言っても隣のクラスと僕のクラスのメンバーを半分ずつ入れ替えるだけのクラス替えですが)

そのとき、隣のクラスの例の書道の時間の女子と僕は同じクラスになれたのです!

とてもうれしかったです。

高校2年生のときは6月の山王祭に「男子5人女子5人」くらいでいっしょに山王祭りへ行きました。

緊張してその子も来てくれていたのですが、あまり話せませんでした。


時は流れ3学期。その子とあまり話すこともないまま3学期に入り、今度は男子と女子でカラオケに行くことになりました。
 
そのときに、その彼女も来てくれました。

僕はとてもうれしくて舞い上がっていました。

そのカラオケのときに彼女が「全部は歌えんかもしれんけど~」と言って歌い始めたのが「CHA  CHA   CHA」でした。

僕は全神経を「CHA  CHA   CHA」に集中させ聴き入っていました。

これが僕が好きな人の歌うカラオケを初めて聴いたえエピソードになります。

結局彼女には思いを打ち明けることなく卒業しましたが、「CHA  CHA CHA」をふらっと街角やテレビの歌番組で聴くと、

いまだに彼女のことを思い出します。
2025年05月19日 03:13

パンドラの恋人 / 南野陽子

1987年の夏、僕が中学3年生だったときの夏に、当時とても人気があったアイドルの南野陽子(みなみのようこ)さんが

「パンドラの恋人」という曲を発売されました。

「歌のトップテン」という歌番組(月曜の夜に入っていました)に出ていて、南野陽子さんが「パンドラの恋人」という曲を歌い、

その歌のメロディーが夏っぽいバラードで、「いい曲だなぁ」と思って聴いていました。


中学3年生の1学期が終わり、夏休みに入りました。

僕は部活も引退していて「夏休みは勉強するぞ」と意気込んでいたのですが、実際は週に3~4回、サッカー部の後輩たちと岩瀬浜に釣りに行っていました。

そんな夏休みを過ごしていたある日、僕は当時とても仲の良かった女子がいて(2年生の時に同じクラスでした)、思い切ってその人に手紙を書きました。

「岩瀬浜駅で8月〇日15時に待ち合わせしませんか?」という内容の手紙を書きました。(何日に約束したのかは忘れました)


 彼女の家の住所がわからなかったのですが、実家の場所は友達から教えてもらい知っていたので、僕はその手紙を封筒に入れて

彼女の家の郵便受けに直接届けました。かなり緊張しました。


  約束の日までは心が落ち着かず、そわそわしていました。当時は今みたいに携帯もネットもなかったので、手紙を書きました。

ふだん学校では気さくに2人で話していたのですが、真剣な話をしたことは一度もなかったので、「来てくれるかなぁ。多分嫌がるだろうなぁ」

と思いながら過ごしていました。

そして約束の日。


僕は自転車で岩瀬浜駅まで行き、約束の時間の30分前に着きました。

岩瀬浜駅には誰もいなく、静かに彼女が来てくれるのを待っていました。

ところが待ち合わせの時間になっても彼女は現れず、結局1時間くらい待ちましたが会うことができず、落ちこみながら家に帰りました。


学校では顔を合わせるたびに話していたのですが、いざ夏休みが終わり2学期が始まると、僕たちは気まずい雰囲気になってしまい、

廊下ですれ違っても今までのように気軽に話すことはできなくなってしまいました。


「そもそもあの手紙を彼女は読んでくれたのだろうか?」 その確認もできないまま、僕たちは卒業してしまいました。

彼女とは別々の学校にお互い進学して、離れ離れになってしまい、それ以来会うことも話すこともなくなってしまいました。

もちろん、めちゃくちゃ悲しかったです。


卒業してから15年がたち、30歳の夏に僕は「そういえばあの子は今、どうしているのだろう?」となつかしく思い、思い切って彼女の実家に電話をしました。

飲み会をしよう、という設定で電話しました。

彼女はまだ独身で実家に住んでいました。30歳の夏のことです。

1時間くらい電話で話した後、「今度飲み会せんけ?」と彼女を誘いました。すると彼女は「うん、いいよ」と気軽にOKサインを出してくれました。


あの待ち合わせ事件から15年。  僕は「まぁ15年も前のことだしお互い社会人や。今さら気まずいもへったくれもないだろう」と思い

中学時代の男友達を2人誘いました。彼女は一人で来ました。

そして僕を含め男3人、そして彼女の4人で飲み会を始めました。


彼女は当時まだ彼氏もいなく、僕は少しうれしくなって、昔話をしました。

「そういえば、中3の夏休み、岩瀬浜で待ち合わせしたけど、会えんかったね。あのとき正直ショックだったわ」

と僕が打ち明けると、彼女は「えっ,何のこと?」と返答しました。

「えっ,だから、夏休みにお前の家のポストに手紙入れて、待ち合わせの約束したねか」

と僕が言うと彼女は「知らんかった」とあっさり顔・・・

そんな!! 俺は気まずくなってしまって、2学期からは廊下ですれ違ってもお前と話できんかったよ。本当は話したかったんに」

と言うと彼女は「それならそうと言ってよ。全然気づかんかったわ」と言いました。

マジで!俺の中3の2学期~現在にいたいるまでの「勘違い」は何だったんよ。 と思いました。


中3の夏休みは僕は毎日彼女のことを考えていました。


南野陽子の「パンドラの恋人」という曲を聴くと、今でも当時のことを思い出します。

ちなみにその30歳のときの飲み会以降は彼女とは会えていません。今頃はもう結婚していると思います。

とても話しやすく、ちょっとネコっぽい顔をしていて、笑うととてもかわいい人でした。
2025年05月18日 11:42

花束 / backnumber

僕は週に3回ほどウオーキングをしています。

そのときに僕はipodで音楽を聴きながら歩いているのですが、backnumberの「花束」という曲を一番聴いています。

ウオーキングは40分歩いているのですが、一番最初に「花束」を聴きながら歩いています。

最近知ったのですが、この曲はバックナンバーの2枚目のシングルだそうです。

2011年6月22日発売。約14年前の曲ですね。


僕は最初は「クリスマスソング(石原さとみさんと山下智久さん主演のドラマの主題歌)」をよく聴いていました。

でも最近はずっと「花束」を聴いています。

3日に1回は聴いています。


バックナンバーの曲はほぼすべてボーカルの清水依与史(しみず いより)さんが作詞作曲をしておられます。

バックナンバーというバンド名の由来は、清水さんが高校時代に彼女にフラれ、「自分は彼女の型遅れ(バックナンバー)なんだなぁ」と思い,

つけた名前だそうです。

彼女を見返すためにプロを目指した、と記事で読みました。

僕はそんなにバックナンバーの曲は知らないのですが、この「花束」という曲を聴くと元気が出ます。


歌詞の内容がとても好きで、この曲を聴いていると高校時代の仲の良い友達とその奥さんのことを思い出します。

とても仲の良い夫婦で、結婚してから4年くらいたつのですが、いまだにラブラブな様子です。

いっしょにいる僕が恥ずかしくなるくらい、仲が良いです。

うらやましいなぁと、二人に会うたびに思っています。

一度コンサートに行ってみたいなぁと思っています。

中学生~高校生にかなり人気のあるバンドとのこと。

確かに曲の歌詞は10代~20代向けの歌詞が多いような気がします。

恋愛に関する歌詞が多いのかなと思います。

バックナンバー特有の、歌のサビに入ると音程が少しずつ上がっていくところが好きです。

安全地帯の「悲しみにさよなら」の曲調と似ているなと思いながら聴いています。
2025年05月17日 13:55

secret base / ZONE

ZONEの「secret  base」という曲があります。

この曲はさまざまな方々がカバーされています。優里さんもギターで弾き語りカバーされていました。

さて、この曲は2001年8月8日に発売されました。

ドラマ「キッズ ウオー3」の主題歌に採用された曲です。

今から24年も前の曲かぁ。この曲があちこちで流れていました。あれから24年。

僕の話になってしまうのですが、僕はこの曲が発売された2001年、大学を卒業してから付き合い始めた方と

6年間富山ー上越間で遠距離恋愛をしていました。

付き合い始めて6年が過ぎ、7年目に入る2001年4月、29歳を前にして、僕は決断して、彼女の住んでいる上越へ行きました。

「1年間上越でつきあってみて、1年間続いたら結婚しましょう」と二人で約束し、いつでも会える距離でのつきあいが始まりました。

彼女は当時、上越で先生をしていました。


僕は大手家庭教師派遣会社(トライではありません)で家庭教師を本業として働いていました。

日中は午前中のみ、週に3回酒屋さんで配達のアルバイトをしていました。

「ようやくこれでいつでも会える!」と二人して喜んでいたのですが、実際は僕の仕事が終わるのが22時すぎ。

彼女は疲れていて22時にはもう寝ていました。

そして朝5時に起きて仕事をしている、という日常でした。

思いっきりすれ違いの生活スタイルでした。

「もしも彼女と結婚できたら、どうなるのだろう? 食事の準備は俺がして、子育ては誰が??

今の状態ではとても彼女は仕事と育児の両立はできそうにないなぁ。不安だ・・・。

結局僕たちは、9月に別れてしまいました。とても残念でした。


当時僕は行き詰まったり良いことがあったときは、仕事が終わった後、一人で直江津浜に行って海を見たり波の音を聴いたりしていました。

海で癒されていました。

車に乗っているときは「secret   base」をよく聴いていました。

ちょうど彼女と別れたころにこの曲をよく聴いていました。

「君と夏の終わり 将来の夢 大きな希望忘れない

10年後の8月 また出会えるのを信じて

最高の思い出を…」

という歌詞が胸に響いていて、悲しみに浸っていました。


結局僕は29歳の1年間だけ上越に住み、受験が終わる3月が過ぎると再び富山県に帰ってきました。


さて、この「secret  base 」という曲なのですが、ZONEがまだインディーズ時代だったころに、TAKAYOさんがソロで歌っていたそうです。

メンバーの思い入れがとても強い曲だったらしく、歌詞はメンバー2人の実体験にかぶっているそうです。

当時、福山雅治さんもラジオでこの曲を絶賛されていました。

いい曲ですよね?


 家庭教師の教え子の中学生はZONEの大ファンで携帯に写メをたくさん持っていました。

よく授業の合間に見せてもらっていました。


残念ながらZONEはファンに惜しまれながら解散してしまいましたが、この曲を聴くと、

20代最後の1年間の思い出がよみがえってきます。
2025年05月16日 15:13

Only Love / ハウンドドッグ

僕は高校1年生の4月、偶然テレビを見ていて、カップヌードルのCMに使われていた曲に心を奪われました。
  
友達に訊いたところ、その曲はハウンドドッグという名前のバンドの「ambitious(アンビシャス)」という曲でした。

当時はハウンドドッグというバンドがあることも知らず、この「ambitious」のCDシングルを借りてきて、カセットテープに録音して

何回も聴いていました。

ambitiousとは英語で「大望を抱いている」「野心的な」という意味です。

有名なクラーク博士が残した言葉「Boys  be  ambitious (少年よ、大志を抱け)」からとってきた言葉だと思います。

高校1年生の春から僕はハウンドドッグのファンになりました。


 そして高校1年生の秋に開催された「ソウルオリンピック」のテーマ曲にハウンドドッグの「Only  Love」という曲が採用されました。


ハウンドドッグの中で僕が一番好きな曲がこの「Only  Love」になります。

当時はCDを買えるほど裕福ではなかったので、レンタルで借りてきてカセットテープに録音していました。

当時ハウンドドッグは人気があり、アルバムも借りてきて、ハウンドドッグの曲をよく聴いていました。

高校生になって初めて好きになったアーティストがハウンドドッグでした。


当時は朝起きてから学校に行く前に「Only  Love」を聴いて、高校から帰ってきて自分の部屋に入るなり「Only  Love」をまずは1回寝っ転がりながら聴いて、

夕食後、自分の部屋に戻ってきてまた「Only   Love」を聴く。

その後勉強して、疲れてきたかなと思ったら、部屋の電気を消して真っ暗闇の中「Only  Love 」を聴いてまた勉強していました。

1日5~6回ハウンドドッグの「Only   Love」という曲を聴いていました。

今はハウンドドッグは活動休止中?かと思います。

ボーカルの大友康平(おおともこうへい)さんはドラマなどに出演されています。

「Only   Love 胸にいつも願う 涙が消えるように

 Only  loveきっと お前だけは一人にはしないさ」

「Only  Love 夢にいつも願う 心の目を開いて

 Only Love ずっとお前だけを どんなときも見てる お前だけがMy Love  」

という歌詞がすごく好きで、当時(高校1年生の秋~冬にかけて)好きだった同じクラスの女子のことを想いながら

よく聴いていました。

ちなみにハウンドドッグとは英語で「猟犬」という意味らしいです。


高校3年生の秋に僕は初めてハウンドドッグのコンサートに行きました。

富山県民会館で行われたコンサート。

ものすごい音でした。

歌はものすごく上手で圧倒されました。

その時以来、ハウンドドッグのコンサートには行けていません。

高校時代は浜田省吾の次にハウンドドッグの曲を聴いていました。

もう一度ハウンドドッグに復活してほしいなぁと思っています。
2025年05月15日 12:41

フォトグラフ / Kiroro

Kiroroといえば「長い間」「未来へ」「ベストフレンド」など、初期のころの名曲が人気がありますよね?

僕は「フォトグラフ」という曲がKiroroの中では一番よく聴いた曲になります。

今から22年前、僕は福光という所にテナントに住み込みで個人塾をしていました。

そのころに、ウオーキングタイムのときにウオークマンでよく「フォトグラフ」という曲を聴いていました。

今はあまり目立った活躍はされていないKiroroの2人ですが、当時は人気がかなりありました。

その中で「フォトグラフ」という曲が生まれたのですが、ピアノ伴奏のみで歌われているこの曲は歌詞にインパクトがありました。

「自由すぎたあの日に帰りたくなるけど 振り返ればもう誰もここにはいない 

何もかも全部嫌になって 両手で顔を隠してた 

絶対負けたくないから 涙流さない」

という歌詞が妙に心にひっかかり

「あぁ、よっぽどKiroroは今が嫌なのかなぁ。過去に帰りたいと思っているのかなぁ」と思っていました。

そもそも「フォトグラフ」というタイトル自体、過去に浸っているようなタイトルですよね。

でも後ろ向きな歌詞とは対照的にメロディーはいつものキロロのまま。

癒し系の曲に当時の僕は何度も励まされていました。

僕は今までに2回、Kiroroのコンサートに行ったことがあります。

1回目は新川文化ホールで行われたコンサート(31歳のとき:2004年)

2回目は新湊中央文化会館(現:高周波文化ホール)でのコンサートです。


実際に歌を聴くと、CDで聴いているよりも迫力があり、めちゃくちゃ歌が上手でした。

感動しました。

また、2人のほのぼのとしたやりとりに笑いがおきていました。

魚津水族館に行ったらしく、「ふだん食べている魚がたくさん泳いでいました!沖縄の魚は派手なので…」と言っておられました。


今はKiroroの2人は地元沖縄でのんびりと暮らしているとのこと。売れた当初から忙しくなるのだけは避けたかったそうです。

最後はやっぱり生まれ故郷に帰りたくなるのかなぁ。


最近は車の中で聴くこともなくなりつつある「フォトグラフ」なのですが、今日久しぶりにネットで検索して聴きました。


何回聴いても好きな曲は変わらないのだなと思いました。
2025年05月14日 00:50

Anniversary / 岡本真夜

岡本真夜さんといえば、1995年5月10日リリースの「Tomorrow]という曲(岡本真夜さんのデビュー曲)が有名かと思います。

僕も「Tomorrow]という曲はとても好きです。

大学を卒業して、富山県に帰ってきて、教員試験浪人をしていたころ、毎日のように聴いていました。

何度となく励まされました。


のちに岡本真夜さんは、1997年3月5日にアルバム「smile(スマイル)」をリリースされます。

そのアルバムの最後の曲に「Anniversary(アニバーサリー)」が収録されていました。

Anniversary(記念日)というタイトル通り、結婚間近のカップルが結婚を前に、

「クリスマスには甘いキスを 誕生日は赤い花束を

春になったら桜を見に行こうね  何年たってもときめいていたい」 と約束を交わしていたり


「いつかセイシェル(諸島の)夕日を見よう 二人で写真もいっぱい撮ろうね

あなたの生まれた町にも連れてってね 何年たって九段下手をつないで」

と、歌詞がとても純粋で当時はよく聴いていました。

「結婚する前のカップルってこんな気持ちなのかなぁ」とおぼろげに思っていました。

また「人生で一番幸せな時期」でもあるのかな?とか思っていました。


当時僕はこの曲の通り、当時付き合っていた恋人と

「結婚したら新婚旅行でセイシェル諸島に行ってみたいなぁ」と思っていました。

セイシェルの夕日を見ながら2人で写真を撮りたいなぁとか、いろいろ想像して一人で喜んでいました。


結局その夢は叶わなかったのですが・・・ 夢は見ないと絶対に実現しない と言われるように、淡い夢を見ていました。


当時は若者の男性は「ヘインズというメーカーの白いTシャツ」を着ている人がたくさんいました。。

夏場は「ヘインズの白いTシャツにジーンズ」、という男性が巷にあふれていました。

多分そのことを歌の中で「信号待ちの人の中に すぐわかるよ白いTシャツ  こんな記念日さえ飾らない 

そんなとこがたまらなく好き」と表現されているのかな?と思いました。


岡本真夜さんはよっぽど純粋な人なのかな?と当時思っていました。


岡本真夜さんは2000年1月に一般の方と結婚されました。2013年に離婚されています。


岡本真夜さんは、最近は際立った音楽活動はされているのでしょうか?

ちょっとわかりませんが、また前のように新曲を出して美声を聴かせてほしいな、と思っています。
2025年05月13日 02:45

AMERICA / 浜田省吾

今日は昨日に引き続き、、僕が初めて聴いた時に衝撃を受けた2曲のうちの1曲、浜田省吾さんの「AMERICA」について書かせていただきたいと思います。

この曲は浜田省吾さん自身が初めてオリコン1位を撮った、2枚組アルバム「J BOY」の1枚目(A面)3曲目に収録されています。

1986年リリースの曲です。

僕は1989年(高校2年生秋)から浜田省吾さんの曲を聴くようになりました。中学時代の友達と高校時代の友達2人そろって浜田省吾のファンであり、その影響で何となく

浜田省吾さんの曲を聴くようになりました。

初めてハマったのは「ラストダンス」という曲でした。

この曲は、僕が高校2年だったときの秋に発売された、バラードベストアルバム「Wasted  Tears(「浪費された涙」)に収録されていました。

いい曲だなあと思い、この「ラストダンス」をきっかけに、浜省の曲を毎日聴くようになりました。


高校2年生の1月にレンタルショップで浜省のアルバム「J BOY」を借りてきました。

1曲目から順に聴いていきました。

そして3曲目。「ん?…なんだこのメロディーは?!」と衝撃を受けました。

それが「アメリカ」という曲でした。まずはメロディーに引き込まれ、次に歌詞に引き込まれて行きました。

カントリー調の曲でとても牧歌的な風景を思い出させるような、スケールの大きい曲だなと思いました。

と同時に「この世の中に、こんな楽曲が存在していたのか…!」と驚きました。

「このアルバム(J  BOY)で浜省が売れた理由がわかるなぁ」と思いながら他の曲も聴いていきました。

浜田省吾をあまり知らない人はカラオケで定番のように「もうひとつの土曜日」とか「J BOY」「悲しみは雪のように」などを歌われますが、本当の根強い昔からの浜省ファンは

多分納得していないと思います。

「もっといい曲はいっぱいあるよ~」という声が聞こえてきそうです。

僕もカラオケで浜省の曲をよく歌いますが「もうひとつの土曜日」「悲しみは雪のように」「J BOY」はほとんど歌ったことはありません。

なんとなく恥ずかしくて「こいつ にわかファンだな」と思われるのが嫌だからです(笑)。


僕がよく歌う浜省ソングは「丘の上の愛(Home bound   バージョン)」 「青空のゆくえ」 「星の指輪(やや定番ソング?)」「陽の当たる場所(愛の世代の前にバージョン)」

「路地裏の少年」「Money」 「夏の終わり」「いつわりの日々(Mind  screen バージョン)」 「 散歩道(イルミネーションバージョン」「Midnight  Blue  Train 」

「君が人生のとき」「家路」などなど。 基本的にはバラードを歌うのが好きです。

浜省ファンの人とはあまりカラオケに行ったことがないので、浜省ファンの人が歌う浜省ソングを

機会あれば聴いてみたいです(友達も浜省ファンは多いのですが、友達以外の浜省ソングを聴いてみたいなと思っています)



浜田省吾の良いところはテレビにはまず出ないので、いわゆるヒットソングはほとんど存在しません。(風を感じて、という曲のみCMソングに起用されてヒットしました)

「悲しみは雪のように」という曲は、ドラマ「愛という名のもとに」で1992年に使われましたが、それ以降はタイアップやCMソングはありません。


まだ無名で売れていないころに数回、テレビに出演されたことがあったのですが、1曲歌うために朝から晩までテレビ局で拘束されるのが我慢ならなかったらしいです。

あとは無名のころにテレビ局(ラジオ局?)のスタッフにバカにされたことがどうしても許せず、「ライブでのみ自分の曲の良さを伝えていきたい」と思われていたそうです

(違っていたらすみません。何かの記事で読みました)


さて、「アメリカ」の話に戻って・・・

この曲は、「あの子はダンサー ニューヨークで踊る日を夢見てた 俺はただ東京から逃れたかった…

We  were  lookin'  for  AMERICA 映画のようなアメリカンドリーム 今もアメリカあの子の 輝いてた瞳  思い出す」という歌詞があるように、

日本を出てアメリカに旅して、偶然アメリカで出会った若い男女がそれぞれのアイデンティティーを探し求める、そして恋に落ちる?

そしてアメリカで「自分はやっぱり日本人である」ということを確認する、といった内容の歌詞になっています。


僕はこの曲に出てくる男女を若いころの「浜田省吾と現地の(アメリカの)女性」との旅での出会いを回想して作った曲なのかな?」と今日まで思っていました。


ところが先ほどネットで調べると、この曲に出てくる女性はアメリカではなくて「日本人の女性」と説明されていました。30年以上、間違った解釈をしていました。

僕はてっきり、浜省とアメリカの女性との物語なのかな?と誤解していました。

歌詞の中に「ショゥウインドウに写った黒い目をした  J   Boy 帰る故郷を見失って… という一節があります。


浜田省吾さんは10代のころビートルズをはじめ、洋楽を中心にいろんな曲をラジオ(FEN)で聴いておられたそうです。

広島県にある、「呉三津田高校」という進学校を卒業されて一浪するのですが、そのときに青い目をしたアメリカ人の女性と出会い、恋に落ちたそうです。

米軍基地が近くにあった環境に育っていました。将来はジャーナリストになりたいと思っていた、と以前本で読みました。


その彼女にあこがれたことから、アメリカにあこがれていたそうです。(もちろんそれだけがアメリカにあこがれたきっかけではないのですが)

1986年にリリースされたアルバム「J BOY」 浜省が初めてヒットチャート1位をとったアルバム。

2枚組アルバムをじっくりと聞き直してみようかと思います。


PS:ちなみにアルバム「My  First  Love」に収録されている「初恋」という曲は「AMERICA」と曲調がよく似ていて

その曲も個人的には大好きな1曲です。

歌詞の中に「アメリカ生まれのロックンロールやっている俺は誰だ?

自分を探した J BOY」という一節があります。
2025年05月12日 16:21