個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

わからない所が1つずつわかるようになる、達成感ある授業を心がけています。

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2025年の記事:ブログ

抱きしめてtonight / 田原俊彦

1988年春、月9ドラマで「教師びんびん物語」というタイトルのドラマが入り始めました。

田原俊彦さん,野村宏伸さん,紺野美沙子さんの3人が主演の教師シリーズのドラマです。

僕は中3のころから高校1年生にかけてずっと「将来は小学校か中学校の先生になりたい」と思っていました。

理由は中学時代のサッカー部の顧問の先生がとても優しくてさわやかな先生だったため

「俺も将来は先生のように、生徒から慕われるような先生になりたいなぁ」と思っていました。

その時に月9ドラマで「教師びんびん物語」が始まりました。

当時はもちろん、教員の仕事内容も環境のことなども知らなかったため、ドラマの名場面を見て感動していました。


当時は「ラジオびんびん物語」というドラマが以前に入っていて、そのときから田原俊彦さんと野村宏伸さんはタッグを組んでいました。

ドラマを見ながら「俺もこんな教師になりたいなぁ」とおぼろげに思っていました。

もちろん、現実の世界の教員の仕事は多く、ドラマのように授業がメインの仕事ではありませんでした。

小学校の教員の実態は「職員室で自分の受け持っているクラスに関する仕事」よりも「学校単位の仕事」が多かったように思えます。

しかも学校単位の仕事というのは、全く面白みのない仕事でした(僕は雑用と心の中で思っていました)

毎日職員室に夜10時半くらいまで残って仕事をしていました(といっても僕は新採用なのでそんなに仕事がなかったのですが、

先輩教員の仕事ペースに付き合わされ、結局毎日夜22時~23時ごろまで職員室にいる羽目になりました。

もちろん今だったら「度の過ぎる残業は禁止されているため」19時くらいにはどの先生も帰られる、と思っていますが。


現実の学校は、夢見ていた僕にとっては「地獄の世界」でした。

教員の仕事は受け持っているクラスの子どもたちのための仕事(授業準備や日記などに返事を書いたりすること)ではなく、学校単位の仕事

ばかりで、「この事実を受容できた人」にしか小学校教員という仕事は務まらないと思います。

僕は授業が好きでクラスの子どもたちといっしょに過ごす時間が好きでした。

でも職員室での仕事(誰も教科書を開いて授業準備などはしていない)には、幻滅しあきらめを感じていました。

結局僕は1年もたずして教員を辞めましたが、今思うとそれで正解だったのかなと思います。

給料がちょっと高いだけで、あんなブラックな仕事は金輪際したくないと今でも思います。


さて、教師びんびん物語の主題歌「抱きしめてtonight」には振り付け(踊り)がありました。」

高校1年生のとき、僕は田原俊彦さんが歌番組で歌っている姿を録画し、必死になってふりつけを覚えていました(今はもう忘れてしまいましたが)

「歌手は大変だな。」と思いました。

教員を辞めてからは「軽トラックの運ちゃん」を半年ほどしていましたが、結局教えることと子どもが好きなことが重なるような仕事を探していました。

そして富山県家庭教師協会という大手の「家庭教師派遣会社のお世話になり、中学生(ほとんどが3年生)の家庭教師をしていました。

家庭教師時代はいろんな生徒さんを担当させてもらい、マンツーマン授業をひたすらこなしていました。

ほとんどの生徒さんが「県立高校だったらどこでもいい。県立に行きたい」という生徒さんでプレッシャーはもちろんありましたが、

でも小学校の授業とは異なり中学生は教えやすいので、楽しかったです。

ただ、休日が年間を通して20日くらいしかない現実に打ちのめされてもいました。

労働時間は短いのですが、授業準備【問題を選んだり、解いたり、解説を考えたりする時間)に膨大に時間がかかりました。

特に最初の10年は授業準備に悪戦苦闘していました。

今はもう教員という仕事に未練は全くないのですが、教員を辞めた当初は周りから「安定している公務員を辞めたん?もったいない」と

100回くらい言われました。

今でこそ笑って話せますが、教員をやめたときは、「この先どうやって生きて行こう・・・」と1年以上思っていました。

何度となくハローワークに行って、そのたびにため息をついて帰ってきていました。

ドラマと現実は大きく異なりますが、僕は「抱きしめてtonight」を聞くと高校生だったころ、教員になると燃えていたころを

思い出します。

そういう意味では、田原俊彦さんの歌を聴くと今もスイッチが入ります。
2025年05月23日 08:33

最後の言い訳 / 徳永英明

徳永英明さんの6枚目のシングル「最後の言い訳」という曲が1988年10月25日に発売されました。

当時僕は高校1年生秋、この曲を知りませんでした。

高校2年生から3年生に上がる前の春休み、僕たち富山第一高校の生徒(2年生)は修学旅行で九州へ行きました。

そのときに3日間僕たちのバスガイドを務めてくれた当時21歳の女性の方がいました。

修学旅行に行く前、担任が「いいか。九州のバスガイドさんは富山のガイドとは違って、ものすごく訓練されとるぞ。その地方その地方についても

すごく詳しいし、話し方も話す内容も富山のガイドとは全然違う。だからちゃんとガイドさんの話を聞けよ」と言っていました。


そして実際九州についてバスに乗っている間、バスガイドの由美子さんは(僕たちは由美子ちゃんと言っていたような…)めちゃくちゃ九州のことに詳しく

僕たちにクイズを出してくれたり、歌を歌ってくれたりしました。

僕はすっかりガイドさんのファンになり、(とてもきれいな方でした)ガイドさんのおかげで楽しい修学旅行を過ごすことができました。


そしてお別れの日。僕たち男子はバスの中で寂しそうにしていました。

ガイドさんが別れ際に「1曲歌わせてください」と言い、徳永英明の「最後の言い訳」を歌われました。

ガイドさんが涙ながらに歌っていました。

その姿を見て僕たち男子も泣いている人がたくさんいました。

僕も寂しくて泣いていました。


富山に帰ってきて、徳永英明の「最後の言い訳」のCDをレンタルで借りてきて、部屋で聴いていました。

やがて大学生になり、クラスメートと頻繁にカラオケへ行くことになるのですが、僕はいつもカラオケの最後の曲に「最後の言い訳」を歌っていました。


かなりの熱唱だったらしく、それを聴いていた先輩が「最後は佐伯の歌でしんみり終了やなぁ」と言っておられました。


 もちろん修学旅行が終わってからはガイドさんとは会えていません。

でもガイドさんのおかげで一生の思い出に残る修学旅行になりました。

ガイドさんも今や56歳かぁ。元気にされているのだろうか。
2025年05月22日 14:28

GUANBARE / 酒井法子

このブログでも何回かお伝えさせていただいておりますが、僕は中3のとき、高校入試で富山東高校を受験して失敗しました。

もちろん、落ちたときはすごく悔しい思いをしました。

高校に入学する前の春休み、あまりにも暇だったこともあり、僕はCDを借りに行きました。

中山美穂さんや南野陽子さん、浅香唯さんなど当時人気のあったアイドルのCDを借りてきてカセットにダビングしていました。


その春休み中、どこで聴いたのかはもう忘れてしまったのですが、偶然酒井法子(のりぴー)の「GUANBARE(頑張れ)」という曲を耳にしました。

当時は高校入試にも落ちていたため、いわゆる人生で最初の挫折を味わっていた真っただ中だった僕はこののりぴーの曲を聴いて

「明るくていい曲だなぁ」と思っていました。酒井法子さんは僕が中学1年生のときにデビューしています。学年は僕の2つ上になります。

この「GUANBARE」という曲は失恋した人への応援ソングなのですが、僕は失恋はしていなかったのですが、精神的に落ち込んでいたので

歌詞に励まされました。

そして初めて雑誌などで酒井法子さんの記事を少しずつ読んだりしているうちに「かわいい人やなぁ」と思い、そしてファンになりました。


高校へ進学して、新しい友達ができて、そのうちの一人(教室で隣の席になった男子)も偶然のりぴーの大ファンだったこともあり、僕はますますのりぴーのファンになっていきました。

朝起きてから、そして学校へ行く前、学校から帰ってきてから、夕食を食べ終えて勉強する前、そして寝る前に必ずのりぴーの「GUANBAARE」を聴いて勇気づけられていました。


まぁそれほど当時は何かにすがりたかったのだと思います。僕が高校1年生のとき、のりぴーは高校3年生、東京にある芸能人がたくさん通っていた東京にある堀越高校にのりぴーは

通っていました。

当時、夜中の 0:15~030までの15分間、月曜日~金曜日までラジオのKNB放送で「のりぴー気ままにセンセーション」というラジオ番組が入っていました。

僕は毎日それを聴いていました。

15分だけの短いラジオ番組だったのですが、毎日楽しみに聴いていました。

そして翌日、学校でのりピーファンだった隣の席の男と「昨日のりぴー聴いた?」と話していました。

高校1年生の8月5日、とやまサンビーチという大型プールになんとのりぴーが来てくれました!

もちろん友達と行って来ました。

初めて見るのりぴーはとてもきれいでちょっと圧倒されました。

「うわ~のりぴー かわいいなぁ」と思いました。そしてそのプールサイドでのりぴーは15曲ほど歌ってくれました。

僕はうれしくてなんと103枚も、のりぴーの写真を撮りました(笑)

知り合いが望遠レンズのカメラで撮影してくれていて、僕はその人に頼んでのりぴーの写真を2枚いただきました。

額縁に入れて部屋に飾りました。



県立高校に合格された方はわからないと思いますが、高校受験に失敗するというのは、15歳の男子女子にとってはかなりの「挫折」です。

人生で最初の「大きな壁」だと思います。

でも僕は偶然高校で友達に恵まれたことと、酒井法子というアイドルに出会えたことによってその壁を乗り越えることができました。

高校3年間、僕はずっとのりぴーが好きで部屋じゅうにのりぴーのポスターを貼っていました。ちょっと恥ずかしいですが・・・


やがて大学へ進学し、就職して現在に至るのですが、10代はのりぴー一色でした。

今も当時ほどのファンではありませんが、のりぴーの記事などをネットで見かけたりすると、そのたびに読んだり

車の中や部屋で事務仕事をしているときなどは、今も時々のりぴーの曲を聴いています。

もちろん「GUANBARE」という曲を聴くことが一番多いです。

のりぴーはかつて大事件を起こしてしまいましたが、再び幸せになってほしいと一ファンとして思っています。
2025年05月21日 13:06

結婚闘魂行進曲「マブダチ」 / 気志團

今から10年ほど前、僕は後輩の結婚式(2次会)に参加するため、名古屋に行きました。

そのときに2次会で後輩の一人が気志團の「結婚闘魂行進曲 マブダチ」という曲を振り付けで歌っていました。

僕はそのときは気志團の歌なのだとわからず、後輩に「この歌って誰の歌?」と質問しました。

気志團といえば「one  night カーニバル」があまりにも有名すぎて、それ以外の曲はノーマークでした。


Youtubeでこの曲を検索すると、気志團が結婚式の披露宴で振り付けで歌っている映像が流れ「いいなぁ」と思いました。

カラオケで歌っているのを聴いたこともなかったので、本当にこの曲を知りませんでした。

一度聴いて「歌詞もメロディーもいいなぁ」とすっかり好きになりました。

みなさんもよければぜひ、気志團の「結婚闘魂行進曲 マブダチ」をYouTubeでご覧ください! 元気が出てくると思います。
2025年05月20日 04:12

哀しくてジェラシー / チェッカーズ

僕が小学5年生のころ、チェッカーズというバンド(アイドル?)がデビューしました。

メンバーは福岡県久留米市出身の7人で構成されていました。

僕は当時、歌番組を全く見ていなかったので、当時の音楽事情には詳しくなかったのですが、同じクラスの同じ生活班の女子の1人が

チェッカーズの大ファンで「佐伯もチェッカーズ聴いてみて!良い曲が多いよ」と言っていました。

そうかなあと思い、歌番組「歌のトップテン」を見てました(当時富山県ではベストテンは放送されていませんでした。テレビの民間放送は

フジテレビと日テレだけ放送されていました。テレビ朝日とTBSは入っていませんでした。)


当時は「涙のリクエスト」という曲が流行っていて、この曲はチェッカーズの2枚目のシングルになります。


1984年,小学6年生になり、僕たち豊田小学校サッカー部は夏休みに「立山杯」というサッカーの大会に出場しました。

当時は豊田小学校ではなく、FC(豊田小学校,岩瀬小学校,草島小学校の3つの小学校で1つのチームを結成していました)

大会に出場していたチームの半数以上は県外の強豪チームでした。

僕は当時、嫌々サッカー部に所属していて(小学5年生からはゴールキーパーをしていました)とにかく監督がめちゃくちゃ怖くて暴力的な監督

だったため、辞めたくて辞めたくて、でも怖くて親にも言えず、半ばあきらめ状態でサッカーをしていました。

鬼のような練習時間だったため、確かに豊田小学校サッカー部はとても強く、6年生のときは50試合以上して、富山県内の公式戦で負けたのは2回のみでした。

(KNB杯という、全国大会の富山県予選4回戦で富山東部小学校に0-1で負けました。

6年生の秋に行われた島田杯という県大会で新庄小学校に0-1で負けました。)


立山杯の話に戻ります。

夏休みの暑い中、3泊4日(だったと思います)で毎日試合をしました。予選→決勝トーナメントと勝ち進んでいきました。

大会の初日が終わった夜、キャンプファイヤーをみんなでしました(これは楽しかったです!)

各チームごとに出し物をすることになり、ふと他チームの出し物を見ていました。


そのときに、金沢南FCというチーム(金沢市のいくつかの小学校が寄せ集めで作ったチーム)がチェッカーズの「哀しくてジェラシー」に合わせて

踊っていました。

僕は「あっチェッカーズだ!」と思い、金沢南FCの選手の踊りとチェッカーズの歌に夢中になっていました。

そのときのインパクトが強すぎて、僕はその日以来、チェッカーズの大ファンになりました。


当時のチェッカーズはものすごく人気があり、特にボーカルの藤井フミヤさん(通称フミヤ)が圧倒的な人気を誇っていました。

カッコよく、歌もうまく、チェッカーズの中心的人物でした。


僕は中学に上がるとますますチェッカーズのファンになり、1個下の後輩がチェッカーズのレコードを全部持っていたため、その後輩に頼んで

チェッカーズのシングル曲を全部録音してもらいました。

当時のチェッカーズの曲は、売野雅さんが作詞,芹沢廣明さんが作曲を担当されていて、どの曲も歌番組でトップ10入りしていました。


やがて僕は中学生→高校生→大学生→社会人になり、29歳~32歳くらいにかけて「1人カラオケ」を趣味にしていました。

当時は録音できるカラオケハウスがあり(富山市山室にあるカラオケ飛行船によく行っていました)録音したあと、冷静に自分一人で聴き直していました。

1人カラオケではいろんな歌を歌ったり練習したりしていましたが、チェッカーズの「哀しくジェラシー」はかなりの回数歌っていました。


今はもうほとんどカラオケには行かなくなりましたが、たまにスナックなどで歌うときは「哀しくてジェラシー」を歌うことがあります。


のちにチェッカーズは解散してしまいますが、僕は今でも車の中でチェッカーズの曲(アルバムもよく聴いています)を聴きます。

小学生~中学生にかけてチェッカーズの曲を毎日のように聴いていました。
 
2025年05月19日 13:26

CHA CHA CHA / 石井明美

1986年秋,僕が中学2年生のとき、突如石井明美という歌手が彗星のごとくテレビに現れました。

彼女は当時ドラマの主題歌でもあった、「CHA CHA CHA」という外国の曲をカバーして一躍人気アーティストの仲間入りを果たしました。

僕はこの曲をテレビ番組の「歌のトップテン」で知りました。

「かっこいい曲だなぁ。ボーカルの人歌上手いなぁ」と思いながら見ていました。

テレビの中で彼女は「中森明菜さんを尊敬しています」と言っておられました。


高校に進学して、僕は1年生のとき書道の授業を選択していました。

この授業は僕のクラスと隣のクラスの合同での授業になっていました。

そのときに、隣のクラスの子で一人、目がぱっちりしていてかわいく、とてもよく話す女子がいました。

僕は当時、その子と一緒に話している男子がうらやましくて「いいなぁ」と思っていました。


やがて2年生になりクラス替えがありました(と言っても隣のクラスと僕のクラスのメンバーを半分ずつ入れ替えるだけのクラス替えですが)

そのとき、隣のクラスの例の書道の時間の女子と僕は同じクラスになれたのです!

とてもうれしかったです。

高校2年生のときは6月の山王祭に「男子5人女子5人」くらいでいっしょに山王祭りへ行きました。

緊張してその子も来てくれていたのですが、あまり話せませんでした。


時は流れ3学期。その子とあまり話すこともないまま3学期に入り、今度は男子と女子でカラオケに行くことになりました。
 
そのときに、その彼女も来てくれました。

僕はとてもうれしくて舞い上がっていました。

そのカラオケのときに彼女が「全部は歌えんかもしれんけど~」と言って歌い始めたのが「CHA  CHA   CHA」でした。

僕は全神経を「CHA  CHA   CHA」に集中させ聴き入っていました。

これが僕が好きな人の歌うカラオケを初めて聴いたえエピソードになります。

結局彼女には思いを打ち明けることなく卒業しましたが、「CHA  CHA CHA」をふらっと街角やテレビの歌番組で聴くと、

いまだに彼女のことを思い出します。
2025年05月19日 03:13

パンドラの恋人 / 南野陽子

1987年の夏、僕が中学3年生だったときの夏に、当時とても人気があったアイドルの南野陽子(みなみのようこ)さんが

「パンドラの恋人」という曲を発売されました。

「歌のトップテン」という歌番組(月曜の夜に入っていました)に出ていて、南野陽子さんが「パンドラの恋人」という曲を歌い、

その歌のメロディーが夏っぽいバラードで、「いい曲だなぁ」と思って聴いていました。


中学3年生の1学期が終わり、夏休みに入りました。

僕は部活も引退していて「夏休みは勉強するぞ」と意気込んでいたのですが、実際は週に3~4回、サッカー部の後輩たちと岩瀬浜に釣りに行っていました。

そんな夏休みを過ごしていたある日、僕は当時とても仲の良かった女子がいて(2年生の時に同じクラスでした)、思い切ってその人に手紙を書きました。

「岩瀬浜駅で8月〇日15時に待ち合わせしませんか?」という内容の手紙を書きました。(何日に約束したのかは忘れました)


 彼女の家の住所がわからなかったのですが、実家の場所は友達から教えてもらい知っていたので、僕はその手紙を封筒に入れて

彼女の家の郵便受けに直接届けました。かなり緊張しました。


  約束の日までは心が落ち着かず、そわそわしていました。当時は今みたいに携帯もネットもなかったので、手紙を書きました。

ふだん学校では気さくに2人で話していたのですが、真剣な話をしたことは一度もなかったので、「来てくれるかなぁ。多分嫌がるだろうなぁ」

と思いながら過ごしていました。

そして約束の日。


僕は自転車で岩瀬浜駅まで行き、約束の時間の30分前に着きました。

岩瀬浜駅には誰もいなく、静かに彼女が来てくれるのを待っていました。

ところが待ち合わせの時間になっても彼女は現れず、結局1時間くらい待ちましたが会うことができず、落ちこみながら家に帰りました。


学校では顔を合わせるたびに話していたのですが、いざ夏休みが終わり2学期が始まると、僕たちは気まずい雰囲気になってしまい、

廊下ですれ違っても今までのように気軽に話すことはできなくなってしまいました。


「そもそもあの手紙を彼女は読んでくれたのだろうか?」 その確認もできないまま、僕たちは卒業してしまいました。

彼女とは別々の学校にお互い進学して、離れ離れになってしまい、それ以来会うことも話すこともなくなってしまいました。

もちろん、めちゃくちゃ悲しかったです。


卒業してから15年がたち、30歳の夏に僕は「そういえばあの子は今、どうしているのだろう?」となつかしく思い、思い切って彼女の実家に電話をしました。

飲み会をしよう、という設定で電話しました。

彼女はまだ独身で実家に住んでいました。30歳の夏のことです。

1時間くらい電話で話した後、「今度飲み会せんけ?」と彼女を誘いました。すると彼女は「うん、いいよ」と気軽にOKサインを出してくれました。


あの待ち合わせ事件から15年。  僕は「まぁ15年も前のことだしお互い社会人や。今さら気まずいもへったくれもないだろう」と思い

中学時代の男友達を2人誘いました。彼女は一人で来ました。

そして僕を含め男3人、そして彼女の4人で飲み会を始めました。


彼女は当時まだ彼氏もいなく、僕は少しうれしくなって、昔話をしました。

「そういえば、中3の夏休み、岩瀬浜で待ち合わせしたけど、会えんかったね。あのとき正直ショックだったわ」

と僕が打ち明けると、彼女は「えっ,何のこと?」と返答しました。

「えっ,だから、夏休みにお前の家のポストに手紙入れて、待ち合わせの約束したねか」

と僕が言うと彼女は「知らんかった」とあっさり顔・・・

そんな!! 俺は気まずくなってしまって、2学期からは廊下ですれ違ってもお前と話できんかったよ。本当は話したかったんに」

と言うと彼女は「それならそうと言ってよ。全然気づかんかったわ」と言いました。

マジで!俺の中3の2学期~現在にいたいるまでの「勘違い」は何だったんよ。 と思いました。


中3の夏休みは僕は毎日彼女のことを考えていました。


南野陽子の「パンドラの恋人」という曲を聴くと、今でも当時のことを思い出します。

ちなみにその30歳のときの飲み会以降は彼女とは会えていません。今頃はもう結婚していると思います。

とても話しやすく、ちょっとネコっぽい顔をしていて、笑うととてもかわいい人でした。
2025年05月18日 11:42

花束 / backnumber

僕は週に3回ほどウオーキングをしています。

そのときに僕はipodで音楽を聴きながら歩いているのですが、backnumberの「花束」という曲を一番聴いています。

ウオーキングは40分歩いているのですが、一番最初に「花束」を聴きながら歩いています。

最近知ったのですが、この曲はバックナンバーの2枚目のシングルだそうです。

2011年6月22日発売。約14年前の曲ですね。


僕は最初は「クリスマスソング(石原さとみさんと山下智久さん主演のドラマの主題歌)」をよく聴いていました。

でも最近はずっと「花束」を聴いています。

3日に1回は聴いています。


バックナンバーの曲はほぼすべてボーカルの清水依与史(しみず いより)さんが作詞作曲をしておられます。

バックナンバーというバンド名の由来は、清水さんが高校時代に彼女にフラれ、「自分は彼女の型遅れ(バックナンバー)なんだなぁ」と思い,

つけた名前だそうです。

彼女を見返すためにプロを目指した、と記事で読みました。

僕はそんなにバックナンバーの曲は知らないのですが、この「花束」という曲を聴くと元気が出ます。


歌詞の内容がとても好きで、この曲を聴いていると高校時代の仲の良い友達とその奥さんのことを思い出します。

とても仲の良い夫婦で、結婚してから4年くらいたつのですが、いまだにラブラブな様子です。

いっしょにいる僕が恥ずかしくなるくらい、仲が良いです。

うらやましいなぁと、二人に会うたびに思っています。

一度コンサートに行ってみたいなぁと思っています。

中学生~高校生にかなり人気のあるバンドとのこと。


バックナンバー特有の、歌のサビに入ると音程が少しずつ上がっていくところが好きです。

安全地帯の「悲しみにさよなら」の曲調と似ているなと思いながら聴いています。
2025年05月17日 13:55

secret base / ZONE

ZONEの「secret  base」という曲があります。

この曲はさまざまな方々がカバーされています。優里さんもギターで弾き語りカバーされていました。

さて、この曲は2001年8月8日に発売されました。

ドラマ「キッズ ウオー3」の主題歌に採用された曲です。

今から24年も前の曲かぁ。この曲があちこちで流れていました。あれから24年。

僕の話になってしまうのですが、僕はこの曲が発売された2001年、大学を卒業してから付き合い始めた方と

6年間富山ー上越間で遠距離恋愛をしていました。

付き合い始めて6年が過ぎ、7年目に入る2001年4月、29歳を前にして、僕は決断して、彼女の住んでいる上越へ行きました。

「1年間上越でつきあってみて、1年間続いたら結婚しましょう」と二人で約束し、いつでも会える距離でのつきあいが始まりました。

彼女は当時、上越で先生をしていました。


僕は大手家庭教師派遣会社(トライではありません)で家庭教師を本業として働いていました。

日中は午前中のみ、週に3回酒屋さんで配達のアルバイトをしていました。

「ようやくこれでいつでも会える!」と二人して喜んでいたのですが、実際は僕の仕事が終わるのが22時すぎ。

彼女は疲れていて22時にはもう寝ていました。

そして朝5時に起きて仕事をしている、という日常でした。

思いっきりすれ違いの生活スタイルでした。

「もしも彼女と結婚できたら、どうなるのだろう? 食事の準備は俺がして、子育ては誰が??

今の状態ではとても彼女は仕事と育児の両立はできそうにないなぁ。不安だ・・・。

結局僕たちは、9月に別れてしまいました。とても残念でした。


当時僕は行き詰まったり良いことがあったときは、仕事が終わった後、一人で直江津浜に行って海を見たり波の音を聴いたりしていました。

海で癒されていました。

車に乗っているときは「secret   base」をよく聴いていました。

ちょうど彼女と別れたころにこの曲をよく聴いていました。


結局僕は29歳の1年間だけ上越に住み、受験が終わる3月が過ぎると再び富山県に帰ってきました。


さて、この「secret  base 」という曲なのですが、ZONEがまだインディーズ時代だったころに、TAKAYOさんがソロで歌っていたそうです。

メンバーの思い入れがとても強い曲だったらしく、歌詞はメンバー2人の実体験にかぶっているそうです。

当時、福山雅治さんもラジオでこの曲を絶賛されていました。

いい曲ですよね?


 家庭教師の教え子の中学生はZONEの大ファンで携帯に写メをたくさん持っていました。

よく授業の合間に見せてもらっていました。


残念ながらZONEはファンに惜しまれながら解散してしまいましたが、この曲を聴くと、

20代最後の1年間の思い出がよみがえってきます。
2025年05月16日 15:13

Only Love / ハウンドドッグ

僕は高校1年生の4月、偶然テレビを見ていて、カップヌードルのCMに使われていた曲に心を奪われました。
  
友達に訊いたところ、その曲はハウンドドッグという名前のバンドの「ambitious(アンビシャス)」という曲でした。

当時はハウンドドッグというバンドがあることも知らず、この「ambitious」のCDシングルを借りてきて、カセットテープに録音して

何回も聴いていました。

ambitiousとは英語で「大望を抱いている」「野心的な」という意味です。

有名なクラーク博士が残した言葉「Boys  be  ambitious (少年よ、大志を抱け)」からとってきた言葉だと思います。

高校1年生の春から僕はハウンドドッグのファンになりました。


 そして高校1年生の秋に開催された「ソウルオリンピック」のテーマ曲にハウンドドッグの「Only  Love」という曲が採用されました。


ハウンドドッグの中で僕が一番好きな曲がこの「Only  Love」になります。

当時はCDを買えるほど裕福ではなかったので、レンタルで借りてきてカセットテープに録音していました。

当時ハウンドドッグは人気があり、アルバムも借りてきて、ハウンドドッグの曲をよく聴いていました。

高校生になって初めて好きになったアーティストがハウンドドッグでした。


当時は朝起きてから学校に行く前に「Only  Love」を聴いて、高校から帰ってきて自分の部屋に入るなり「Only  Love」をまずは1回寝っ転がりながら聴いて、

夕食後、自分の部屋に戻ってきてまた「Only   Love」を聴く。

その後勉強して、疲れてきたかなと思ったら、部屋の電気を消して真っ暗闇の中「Only  Love 」を聴いてまた勉強していました。

1日5~6回ハウンドドッグの「Only   Love」という曲を聴いていました。

今はハウンドドッグは活動休止中?かと思います。

ボーカルの大友康平(おおともこうへい)さんはドラマなどに出演されています。


ちなみにハウンドドッグとは英語で「猟犬」という意味らしいです。


高校3年生の秋に僕は初めてハウンドドッグのコンサートに行きました。

富山県民会館で行われたコンサート。

ものすごい音でした。

歌はものすごく上手で圧倒されました。

その時以来、ハウンドドッグのコンサートには行けていません。

高校時代は浜田省吾の次にハウンドドッグの曲を聴いていました。

もう一度ハウンドドッグに復活してほしいなぁと思っています。
2025年05月15日 12:41