個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

わからない所が1つずつわかるようになる、達成感ある授業を心がけています。

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2023年の記事:ブログ

小学校教員→軽トラ運転手→次は?

25歳の12月にお世話になった橋本急便を辞めることになりました。僕は9月ごろから、週に2回、橋本急便の仕事が終わった後19時から中学2年生に家庭教師をアルバイトでしていました。

11月に入ったころ、家庭教師先の担当の方が、「佐伯先生、うちで本格的にプロとして家庭教師やってみませんか?元教員だし、これから需要はもっと増えていきますよ」と言われました。家庭教師はアルバイトでするものだ、と僕は当時思っていたので、あっけにとられていると続けて「プロだと月40万~50万くらい稼げますよ」と言われました。

僕は、「少し考えさせてください」と言って保留させてもらいました。 橋本急便の仕事中、「月に40万円かぁ。大きいなあ」と思っていました(現在のことはわかりません。)

そして僕が出した答えは、「よし、家庭教師一本でやってみよう!」というものでした。 橋本急便の社長に辞めさせてくださいと伝え、12月、僕は橋本急便を辞めました。

僕は「富山県家庭教師協会」のお世話になることになりました。

 当時はまだ家庭教師の先生も今ほど多くはありませんでした。家庭教師協会に入ってすぐに「とりあえず1年、家庭教師本業で頑張ってください。1年後に本部の方に「プロで採用お願いします」と申請します、と言われました。

当時の僕の勤務体系は、平日は17時~19時まで中学3年生の家庭教師。その後移動して19時30分~21時30分まで次の生徒さんの家庭教師。これで終わる日もあれば、その後移動して22時~24時まで中学3年生の家庭教師 というものでした。土日は午前中10時~12時まで。次は13時30分~15時30分まで。次は16時~18時まで。最後に19時~21時まで。という勤務体系でした。


家庭教師は学生時代にやっていた塾講師とは異なり、マンツーマン指導なので教えやすく、一人の生徒さんをじっくりと教えることができることが最大の長所でした。

弱点は生徒さんがつまづくと、基本的にはそこから1歩も先に進めないので、わかるようになるまで僕が手を変え品を変え教える、というところです。

もちろん、同じ説明を繰り返してもわかってもらえることはなく、言い方を変えたり違う角度から教えたりして指導していました。

体力的にも1日3件の日はけっこうハードで、「思っていたよりきついなぁ」と感じていました。 土日は4件あったのでさらにハードでした。ただ、やりがいはありました。

特に中学3年生は受験生なので、生徒さんも親御さんも必死です。家庭にお邪魔するたびにひしひしと必死さが伝わってきました。プレッシャーを感じることも多々ありました。

 家庭教師の仕事の弱点は、休みがなかなか取れなかったことです。自分で休み(授業を入れない日)を決めれるのですが、当時の僕は何もわからず必死に教えていたので、受験が終わるまではほとんど休みはとれませんでした。

 3月が過ぎ、最初の受験シーズンを終えて、それから7月くらいまでは比較的時間に余裕のある生活になります。 夏休みが入るころになると1日2~3件の授業が入ります。

夏休みは1日4件の日がほとんどで、お盆休み意外は基本的には休みはありませんでした。(甲子園を見ることができませんでした)


この「富山県家庭教師協会」時代は本当に鍛えられました。いろんな生徒さん(ほとんどが勉強が苦手な生徒さんで、なんとか県立高校に入りたい、という生徒さんが多かったです)

いろんな問題集を使ってみたり、新研究を使ってみたりしていました。英語・数学を中心に指導していました。暇さえあれば、本屋へ行って中学生用の問題集や参考書を見ていました(それは今も変わらないのですが…今は高校生用の参考書を見ることが圧倒的に多いです)

教える仕事をすることは小学校の教員で最後だろうなあと思っていたのですが、幸い再び子ども相手の仕事をすることができることになり、うれしかったです。

ところが、家庭教師協会で家庭教師を初めて1年が過ぎたころ、「今度は自分で仕事をしてみたい!」と思うようになりました。

給料には満足していたのですが、もうひとつ「やりがいに欠ける」と思っていた僕は「自分の塾を持ってみたい」と思うようになりました。

そして27歳になる春、僕は家庭教師協会を辞めることになります。 次なる仕事は……


僕は「住まい情報」という雑誌を見ながら「安い貸家」を探していました。 貸家を借りて「個人塾」を始めることにしたのです。どこで塾をするのか?

かなり悩みました。ただ、「富山市」と「高岡市」だけは避けようと決めていました(都会のため塾がたくさんあり、絶対に僕では通用しないと思っていたからです)

富山市・高岡市以外の富山県内を対象にして僕は住まい情報と電話帳で不動産を調べて1件1件、「安い貸家はありませんか?」と電話していました。

今みたにインターネットがなかったので、電話帳と住まい情報をセットに、僕は「とにかくテナントは高くてお金が払えないから貸家にこだわろう!」と思って富山県内を車で探索していました。

そして、住まい情報の中に「高岡市伏木、家賃15,000円」という格安の貸家を見つけました。「伏木か…一応高岡だけど、伏木だったら端っこだしライバルも少なそうだな」と思い、

僕は胸を躍らせて伏木に車を走らせました。 伏木に着いて僕は驚きました。「貸家というよりは、あばら家だなぁ」と思いました。

ちょっとした台風が来たら吹き飛んでしまいそうな、古びたあばら家を見て僕は、一瞬迷いました。「あ~,どうしよう」「でも15000円は安いよなぁ」と思いました。

不動産屋へ行き、僕は「とりあえず中を見せてもらえますか?」と聞き、とりあえずあばら家の中を見せてもらいました。そこは2階建ての「2階部分」を貸し出していました。

高岡市とはいえ、伏木は「伏木中学校」しかありません。高岡市の中でも孤立している「伏木エリア」 僕の家から伏木までは、片道40分かかります。

「少し遠いけど、伏木で頑張ってみるか!」と僕は伏木の貸家を借りることに決めました。1999年のことです。この「伏木で、僕の中で一番記憶に残っている1年が始まることになりました。

初めての個人塾。塾の名前は「寺子屋学習館」 そうです。今の大門での「寺子屋学習館」と全く同じ名前の塾を27歳になる春、僕は一人で伏木で立ち上げることに決めました。
2023年08月12日 05:28

絶望の淵から僕を救ってくれた橋本急便

あれだけあこがれていた小学校の教員。辞めた後の喪失感は大きかったです。

教員を辞めて富山県に帰ってきた僕(と僕の家族は)絶望の淵にいました。

何もする気が起きない。これから先の人生、どうしよう…と焦ってばかりいました。

高校生のころから「将来は小学校の教員になる」と決めていたので、教員以外の仕事が全く浮かばず、あとは3年2組の子どもたちへの罪悪感もあり、僕は無気力状態になっていました。

僕を心配してくれた中学・高校時代の友達が、「佐伯、大丈夫か?」と訪ねてきてくれましたが、僕は何も話すこともなく、無表情で友達と会っていました(会ったうちには入らないですね。)

僕から笑顔が消え、両親からも笑顔が消え、妹と弟も心配そうな表情。佐伯家はどん底でした。教員を辞めてから、ハローワークへも何回も行きました。新しい仕事を探すために一通り

ハローワークにある職業を見て回りましたが、どの仕事も僕には響かず、ハローワークへ行くたびに落ち込んでいました。


「いつまでこの地獄が続くのだろう…何とかしなくては」と気持ちは焦るのですが、二言目には「今度はワープロやパソコンを使わない仕事がいいなぁ」と思っていました。

とりあえずパソコンだけは買い、「覚えなくては。」と思い、説明書を見てもさっぱりわからず、「どうせ俺なんか…」とまた落ち込む。

泥沼の中で必死にもがいていました。 幸い両親は「焦っても仕方ない。1年かかってもいいからゆっくり次の仕事探され」と言ってくれました。

自動車で通っていたハローワークへも、車を運転する気力もなくなり、30分かけて自転車でハローワークへ通うようになりました。

 大学時代の長野に住む友達も来てくれて「佐伯はけっこう悩んでしまう性格だから、ゆっくり焦らずに。」と励ましてくれました。本当にうれしかったです。


これだけ周りの環境に恵まれているのに、どうして俺だけ… と約半年もの間、僕は前に1歩も進めませんでした。

パニック発作は教員を辞めても治らず、本当にどうなってしまうのだろう…?と不安でいっぱいでした。

25歳になり、いつものようにハローワークへ行った僕は、一つの求人カードを見つけます。「この仕事ならなんとかできるかも!」とかすかな光がようやく見えました。

その「求人カード」には、次のように書いてありました。

「小さな家庭的な職場です。」 僕は「これだ!」と思いました。その求人カードには「橋本急便」と書いてありました。

従業員は10人以下の小さな運送会社です。運転の仕事か。しかも家庭的かぁ。パソコンも必要なさそうだな。何とか拾ってもらえるかもしれん。と思い、6月に僕は橋本急便へ応募しました。

 家庭的、といよりも「橋本ファミリー(家族経営)」の会社でした。橋本さんばかりの運送会社。僕の友達は「大丈夫か?お前、道とか詳しかったっけ?」・・・ 僕は富山市民です

が、富山市もろくに車で運転したこともない「方向オンチ」でした。もちろん高岡市や滑川市・魚津市なども一度も車で行ったことがありませんでした。


 「家庭的な職場です」この一言を頼りに、僕はすがるような思いで橋本急便に応募しました。幸い社長は面接の時に、「将来大型の運転手になりたいとか言い出さないけ?小型の車でもいいけ?」と聞いてくれました。

 僕は「はい!小型の車で頑張ります」と言いました。 そしてその場で採用が決まりました。社長の名前はもちろん「橋本さん」です。

「よかった…この仕事を頑張ってみよう!」と不安の中、僕は橋本急便のお世話になることになりました。25歳の6月のことです。

勤務日初日。僕の仕事は「午前中」「午後その1」「午後その2」と3種類の仕事に決まっていました。

運送会社では「集荷(しゅうか)」という仕事があります。これはどんな仕事かというと、橋本急便にお客さんから電話がかかってきて「荷物取りに来て!」と言われたら、そのお客さん(会社や店など)に荷物を取り行く、という仕事です。

 僕の午前中の仕事は「富山市を集荷」をすることでした。無線で会社から連絡があり「〇〇」と言われるとその〇〇へ荷物と取りに行きます。そしてそこで「送り状」という伝票をもらい、何か所かで荷物を集荷してから会社に一度帰る、という仕事です。

会社に戻ると、待ち構えていた橋本急便の方たちが僕の軽トラックの荷台から荷物をすさまじい勢いで取り出し、各々のトラックにその荷物を詰め込み会社を出て目的地(富山市内の会社や店)に向け出発する、という流れです。これが「午前中」の仕事。

 あとは「スポット便」と言って、僕は当時のセルラーという名前の携帯ショップ(今でいうauショップです)を富山市内の2店舗間を2往復して、古くなったバッテリーを運んでいました。

 「午前中」の仕事が終わり、橋本急便へ戻って弁当を食べ、少し休憩したあと「午後その1」の仕事に向かいます。僕の「午後その1」の担当エリアは「大沢野」でした。

国道41号線を富山市から大沢野方面へ向かって行き、(僕にとっては初めての大沢野エリアでした)住宅地図を車に積んで、午後の仕事がスタートしました。

大沢野方面へ行き、北日本新聞の「夕刊の新聞記事の一部」を受け取り、一度橋本急便へ帰ってくる、という簡単な仕事でした。僕は方向オンチで道を全く当時知らなかった、ということを橋本急便の方は皆知っていたので、僕は一番負担の少ない「大沢野エリア」を任されていました。

「午後その1」の仕事が終わり、一度会社に戻ると、そこには荷物がたくさん置いてあります。

次はその荷物を軽トラに詰め込んで再び大沢野方面へ向かう「午後その2」の仕事が始まります。ただ、この「午後その2」の仕事は配送エリアがふくらみ、「大沢野」「八尾』「婦中」エリアへと一気に範囲が広くなりました。

もちろん僕はパニックに… 地図とにらめっこしながら、少しずつ道を覚えていきました。


とにかく「時間に追われる仕事」でした。目的地につくのが少しでも遅いと無線が入り「あと何分くらいで〇〇に着くけ?」と聞かれます。

最初のころは無線がなるたびにドキドキしていました。

橋本急便の方は若い方が多く、20代・30代のメンバーが半分以上でした。昔はやんちゃしてました!というタイプの方も少なくなく、入りたてのころは「あんたみたいに先生が務まる

がけ?オレたちとは対極の人間やよ?」とよく言われました。

 それでも男気のある方が多かったので、僕が道に迷ってパ二くっていると無線が入り「さえちゃん、大丈夫け?あわてんでもいいよ!」とフォローしてくれました。本当にうれしかったです。

また、よくからかわれもしました。「俺たちの仕事は時間との戦いやぞ。先生みたいにのんべんたらりとはしとらんぞ!」ともよく言われました。

それでも仕事にもなれ8月になるころには、かわいがってもらえました。みなさんとても自分に自信を持って誇りをもって仕事をしており、「こんなに前向きに仕事してもいいんやなぁ」と初めて僕も自信を持って仕事ができるようになりました。

集金の月末になると仕事は地獄で「運転しながら伝票を書いたり地図を見たり、無線に応答したり…」てんてこまいになって運転していました。

それでも運ちゃんの仕事は楽しかったです。仕事も18時にはちゃんと終わるし、橋本急便の方は僕が失意で教員を辞めたことを知ってくれていたので、優しくしてくれました。

夏休みが近づくと、富山市内の小学校に荷物(夏休みの宿題など)を届ける仕事があったのですが、「さえちゃん、学校行くが嫌やろ?俺が代わりに行くちゃ!」と助けてくれました。

人の親切さが本当に身に沁みました。「本当に家庭的な職場なんだなぁ」と思いました。

8月になると「橋本急便メンバー」で岩瀬浜にバーベキューにも行きました。社長はとても優しい方で「佐伯君、いっぱい食べられ!」と言ってくれました。


 半年以上、一人で暗い毎日をさまよっていた僕にとって、「橋本急便」はまさに「絶望の淵から僕を救ってくれた」職場でした。今でもあのころを思い出すと胸が熱くなります。

なんの役にも立てなかった当時の僕を温かく迎い入れてくれ、手荒く扱われることもありましたが、仕事が終わると雑談してから笑顔で帰宅できる橋本急便。僕は橋本急便が大好きでした。 もしあのとき橋本急便に勤めていなかったら今の僕はないと思います。感謝でいっぱいです。

 道も富山県に関しては詳しくなりました。 今の僕は大門総合会館まで片道40分かけて通っていますが、「すぐそこ」です。橋本急便時代のあのすさまじさに比べたら、地図も必要ない、お客さんが待っていることもない、8号線をまっす進むだけ… ちょっとしたドライブ気分で大門まで通っています。

そんな楽しかった「橋本急便」も12月で辞めることになってしまうのですが、僕は橋本急便には一生頭が上がりません。本当に勤めて良かった、と今も思っています。

今でもたまに富山市内を運転していると橋本急便のトラックを見ることがあります。「よし、頑張ろう!」と思えます。

こうして僕は橋本急便の方々のおかげで いつの間にか「パニック発作」もおさまり、「うつ状態」からも完璧に抜け出すことができました。

橋本急便の次の仕事は…25歳12月。ここからが今の僕の仕事の「原点」になる仕事に就くことになります。
2023年08月09日 11:22

平成8年8月8日、24歳夏:妙高高原自然の家で僕が感じたことは…

僕は二度目の新潟県小学校教員採用試験で合格し、23歳の4月に、新潟県三条市というと所にある、中規模の小学校に採用されました。 3年2組の担任として赴任しました。

平成8年4月1日に赴任し、「やっと教員になれた。頑張るぞ!」と胸を躍らせて教員として働き始めました。

ところが、勤務初日に僕はパニックになってしまいました。「職員室でどの先生も教科書を開いていない…」

さんざん大学時代に経験した「教育実習」で「佐伯さん、教員の一番の仕事は授業準備だよ。教材研究だよ」と現場の先生方から教え込まれていた僕は、職員室での「教科書のない光景

に圧倒されてしまいました。

 どの先生方も「学校単位の仕事」をされているのです。4月1日は「職員会議」から始まり、春休み最中でしたが、「新年度の初日」ということもあり、事務仕事のオンパレード。

僕は大学時代、数学科だったので「算数部会」という部会に所属することになり、その「算数部会」での仕事(何月にどういう単元を勉強してどういう風なことを指導するのか?などについて話あったりする)、公務分掌という、学校単位での仕事。そして4月のため提出書類の多さにびっくりしてしまいました。

 当時の僕はパソコンを持っていなく、どの先生方も「ワープロ」で文章を作成されていました。

大学時代に数学科だったため、「卒論」がなく「ゼミ単位での卒論発表会」があっただけで、僕はワープロというものをほとんど使ったことがありませんでした。


教育実習に行った時も、指導案を書くのに(今では当たり前のようにパソコンを使って指導案を作成しますが)当時は手書きで指導案(どんなふうに子どもどもたちに質問して、そのさまざまな子どもたちの反応(発言)に対する教師側の発言・問いかけ・評価の観点などを細かに書いていく書類のことです)を作成していました。

そういう「大変な苦労をした経験」があったので、僕はてっきり職員室での教員の仕事は「毎日の授業の指導案作成」がメインの仕事になるのだろうな、と思っていました。

でも実際は授業の準備などする時間は職員室では0でした。この「現実」に僕はイラっときました。

初日の勤務を終えて、当時付き合っていた彼女(上越で小学校の教員をしていました。彼女は1回目の教員試験で合格していたので、教員2年目に突入していました)その彼女に僕は

電話で「教師ってなんなん?なんで職員室で誰も教科書を開いてないが??ひたすら会議したりワープロで書類作ったり事務仕事ばっかりだし…がっかりしたわ!」と八つ当たりしました。彼女も僕の言い方が気に食わなかったのか、10分ほど話したところで途中で電話を切りました。

 パソコンどころか、ワープロさえ満足に使えない僕は「この改行マークって印刷したら写ってしまうのかなぁ」とか「上書き保存て何?」という有様だったため、教科書を開くどころか、ワープロのことで頭がいっぱいになり、軽いパニックが毎日のように続きました。

 毎日朝7時半に職員室について、帰るのは(僕の学年の先生だけなぜか)22時~23時くらい。 今で言うと「ブラック企業」状態でした。他の学年の先生方は18時~19時の間には

帰宅される中、僕の学年(3年生)の先生だけは22時すぎに帰宅の途についていました。

それから家に帰ってから「明日の授業の準備」 こんなことを毎日していたら、そりゃ精神的にもおかしくなってしまいます。


 僕は「事務仕事」がほとんど間に合わず、大学時代にワープロを使っておかば良かった…と毎日後悔していました。

そして6月。初めての初任者研修の「研究授業」が僕の番に回ってきました。たった45 分の算数の「円」の導入授業をするために、3週間くらいもかけて「指導案」を書き続けました。

過去の先生方の「円」の導入の授業の指導案を観たり、教師用の指導書を読んだりして指導案を作っていきました。

授業中は自分のクラス【3年2組】の子どもたちと楽しく授業していて楽しかったのですが(もちろん失敗もたくさんしました。その都度反省をしていました)職員室に帰ると「またワープロとの格闘か…」とブルーな気分になっていました。


 7月に入り「通知票」をつける期間にさしかかると、僕のパニック度は極限に達しました。通知票の項目の多さに圧倒され、例えば「机の中がいつも整頓されている」という項目や

「いつも大きな声であいさつができる」などなど。僕がふだん目にしていないことが通知票の項目にはたくさん書いてありました。

「うわ~こんなんもん、わかるかよ!」と思いながら放課後の教室で一人ひとりの机の中を確認したりしていました。

「あいさつができているか?」これは僕が朝職員室にいるため、把握できていません。当時僕のクラスには27人の児童がいたのですが、1人につき25項目くらいもの「評価らん」が設けられています。「わかりっこない…」正直、勘で書いた通知票も項目によってはありました。


 こんな目まぐるしい毎日が続く中、僕の体にある日、異変が起きました。「通知票が間に合わなかったらどうしよう…」と焦りに焦って、夜も安心して眠れない日々が続き、

ある朝6時くらいに目覚めると、心臓がバクバクなっています。「あっ、心臓破裂する!」と思いながら安静にしていると、10分くらいたつと治まります。

ところがこの症状が7月に入ってから毎日のように続き、朝6時になると心臓がバクバク激しく揺れます。当時はまだわからなかったのですが、今でいう「パニック発作」を起こしていました。急いで初任者研修の担当の先生に報告しました。

その先生も「パニック発作」のことを知らなかったので、「そのうち治るて!」と言われましたが、2週間たっても3週間たってもパニック発作が収まらず、ついに「心療内科」の先生に診てもらうことになりました。

長岡にある病院にまで行き、先生に話すと「軽いうつ病ですね」と言われました。

富山に住んでいる両親や友達にも電話で相談していました。両親はびっくりして、三条の僕のアパートまで来てくれました。

「もう教師辞めたい…」と両親にこぼしました。 「あんなになりたかった教師をまだ3か月しか働いてないのに辞めるのか?その程度の思い入れだったんか?」と父に言われました。


でもパニック発作は治らず、校長先生と相談しあった結果、「とりあえず、夏休みは学校に来なくていいから、富山で静養してきなさい。そして夏休みの終わりに今後佐伯さんがどうするか?教えて」と校長先生に言われました。

 夏休みが入ると同時に僕は三条を後にし、富山に帰ってきました。中学時代の友達に会い「ワープロできんでパニックになってしまった」と言うと友達は「ワープロできんゆうて

教師辞めたい?話ならんぞ」ときつく言われました。そして友達は2時間くらいかけてワープロの使い方や機能について僕に教えてくれました。

今でこそワープロはもう使われることなく、パソコン主流になり、こんな僕でもワードで文章を作ったりエクセルでちょっとした資料を作ったり、メールでのやり取りもできるようになりましたが、当時は何もわからなく「ワープロ恐怖症」でした。


 そんな中、夏休みは過ぎていき、8月8日を迎えました。

この8月8日は「妙高高原自然の家」にて、新潟県の新採用教員が集まって合宿スタイルの「2泊3日の初任者研修」が行われた日でした。

妙高高原自然の家で、久しぶりに大学の同級生に会って、悩みを聞いてもらいました。友達は「えっワープロが原因で教師辞めるの?もったいないよ~。せっかく教員になれたんに」

「彼女かわいそうだね。彼女も苦しんでない?」など、いろんなアドバイスを受けました。でも僕の心は「教員をやっていく自信がない…」の一点張りでした。


8月8日の夜になり、初任者教員をいくつかのグループに分け、各グループごとに「出し物」を企画して披露する、ということになりました。

この初任者研修は、うつ病気味だった僕には「ほかの先生もみんな1年目で苦労しとる。最初からうまくいくはずがない」と思えて、救われた研修でした。

自然の家で同じ部屋になった人たちとも楽しく会話したり学校の愚痴を言ったりして、少し生き返りました。

8月8各の夜になり、野外で各グループの出し物を見て、そのあと、缶ビール片手にキャンドルファイヤーの炎を観ながら僕は、ぼう然と立ち尽くし「この中で辞めるかもしれん人は俺くらいだろうなぁ」とむなしく感じていました。


意気消沈して自然の家の部屋に帰る途中、一人の男先生が公衆電話から、教え子に電話していました。

「今日誕生日だよね?おめでとう!」と笑顔で子どもに電話している先生を見て「いいなぁ。俺も本当は子ども思いなんだけど、こんな状態じゃ電話もできないなぁと泣きそうになりました。

この時のこの場面が心にずっと残っていて、僕は寺子屋で塾生の誕生日には塾生に「誕生日おめでとう!」と言って気持ちばかりの図書カードをプレゼントしています(今年度からのことです)

結局僕は妙高高原自然の家での初任者研修を最後に、教員の仕事を辞めてしまいました(ワープロで書類を作ったり報告書を書いたりすることができないまま教員を辞めました)


平成8年8月8日、この日の出来事は死ぬまで忘れることはできないと思います。

あれから27年… 今日は僕は大門で中学生に授業をします。当時は「二度と教える仕事はできないだろうなぁ」と思っていましたが、今、教える仕事をしています。

こんな無名の塾に来てくれている生徒さん・親御さんには本当に感謝しています。ありがとうございます。

あの悪夢のような8月8日。先のことなんて全く考えることができないくらいに壁にぶちあたっていたころ。

今の環境に感謝しながら、今日は特別な思いで1日を過ごします。
2023年08月08日 10:06

高校3年生、リスニング対策始めました。

暑い日が続きますね。今日も気温は35度を越える猛暑日でした。

クーラーのありがたみを日々感じています。

さて、当塾のたった一人の高校3年生なのですが、今週から「リスニング対策」を始めました。

共通テストの問題は量が少ないので「青本(駿台予備校が出しているマーク模試を掲載している問題集)や、黒本(河合塾が出しているマーク模試を掲載している問題集)を解いています。

共通テストのリスニングの配点は英語200点中100点になっていますが、実際は各大学によって配点は異なります。よくあるのが「リスニング40点・リーディング160点」というパターンです。

中には上越教育大学のように「リスニング100点・リーディング100点」という大学もありますが,稀です。リーディングの配点の方が高い大学が多いような気がします。

リスニング対策をこれから本格的にしていきます。

PS:羽生結弦選手が結婚されましたね?相手がまだ公表されておらず、「元AKB48の渡辺麻友さんだとか、フィギュアスケーターのザギトア選手だとか、いろんな憶測が錯綜しています。幸せになってほしいですね!
2023年08月07日 22:00

2024年版全国高校入試問題正解 【理科】

先ほど本屋で「全国高校入試問題正解2024年版理科(旺文社)」を購入してきました。

来週中に富山県の過去7年間の理科の入試問題分析と、単元ごとの「理科頑張り表」を簡単にYou-tubeでご案内いたします。


PS:今日も暑いですね。35度超えです。

大谷選手が40号ホームランを放ちました。すごいですね!

ホームラン王獲ってほしいですね。
 
2023年08月05日 16:57

「中田敦彦の妻」になってわかった、自分らしい生き方

久しぶりに本屋へ行きました。あまりにも最近本を読んでいなくて(You-tubeばかり見ていました)武田塾さんの動画・WAKATTE TV(武田塾の先生方が大学生にインタビューする動画),スタディサプリの関正生先生の動画をここ1カ月、毎日1時間~2時間見てました。

ちょっと疲れてきたので、パターンを変えようと思い、久しぶりに本(簡単な本・エッセイ)を読みたくなりました。

先ほど豊田にある文えん堂へ行き、いつものように30分ほど参考書コーナーをふらつき、その後店内を1周していると、「中田敦彦の妻」になってわかった、自分らしい生き方 という本を発見しました。

パラパラとページをめくってみて「面白そうだな」と思ったので、買いました。オリエンタルラジオ中田敦彦の奥さん・福田萌さんが書いた本です。

僕は中田敦彦は好きで、本を数冊読んできました。時間に余裕のあるときは動画も見ています。中田敦彦は慶應義塾大学OBの「高学歴芸人」です。奥さんの福田萌に関しては「横浜国立大学OB」くらいしか知りませんでした。

今回、福田萌の書いた本を読んでみようと思いました(頭のいい方なので、考え方を知りたいと思い買いました)

今日・明日と時間をかけてゆっくり読みたいと思います。

中田夫妻・家族は現在、シンガポールに移住されています。シンガポールのことはもちろん、僕は何も知りませんが、今回この本をきっかけに少しシンガポールについても話を聞いてみたいと思っています。

では、さっそく本を読み進めてみたいと思います。

PS:富山商業高校が佐賀県代表の高校と甲子園1回戦で対戦することが決まりました。9日の第1試合です。テレビで応援します。がんばれ富商!
2023年08月04日 11:18

ダブルワーク / 時間の使い方

今、テレビや雑誌などで「ダブルワーク」についてよく話題になります。

先日も友達から「佐伯は日中何をしとるが?ダブルワークとかせんが?」と言われました。

確かに僕も数年前、まだ塾を始める前に「日中を何かに有効に使えないかな」?」と考えたことがありました。

僕の知り合いに、普通のサラリーマンなのですが、早朝に新聞配達をしている方がいます。新聞配達の仕事を終えてから、朝から会社へ行って働く、という、ハードスケジュールをこなしている方がいます。「すごいなぁ」と思います。


「寺子屋学習館」をオープンする前に、僕は夕方から家庭教師を2件こなしていたのですが、一度だけ「ダブルワーク」にチャレンジしたことがありました。

もう一つの仕事は「夜中23時~夜中2時までの仕事です」仕事内容は、読売新聞をセンターから各販売所へ配達する、という仕事でした。

家庭教師が終わるのが22時くらいだったので、家庭教師が終わってからそのまま新聞配送の仕事をしていました。

感想は・・・けっこうハードでした。当時は家庭教師を1日2件だけだったので、日中は特にすることもなく、暇だったのですが、夕方5時~夜中2時までのダブルワークはけっこうキツかったです。

 居眠り運転をしそうになり危ない目にあいそうになったこともありました。 結局夜中の仕事は夏から冬までの半年のみで辞めました。


 現在は家庭教師から塾へと仕事が変わったのですが、日中は何をしているか? 授業準備をしたり問題を解き直したり事務仕事をしたりしています。

ダブルワークをする時間はありません。朝はだいたい6時台に起きるのですが、午前中に今日の授業の予定を組み、プリントなどを用意して1時間半くらいが過ぎていきます。

週に1度、高校生の学習プランを作ります。1時間~1時間半くらいかけて作っています。中学生のプランも1人だけ希望されているので、週に1回作ります。30分くらいかけて作っています。

午前中に準備を終わらせてしまうことが多く、午後は1時~4時30分くらいまではフリータイムです。この時間はウオーキングをしたり(毎日ではありませんが)録画しておいたバラエティー番組を見たり、You-tubeを見たりしています。

 ドラマはなかなか根気がいるので見れないのですが、「お笑い番組」は大好きです。さんま御殿やモニタリング、かまいたちの番組、上田と女が吠える夜、サンデージャポン、サンデースポーツなどを観ています。
 
 基本的にニュースは少し観ますが、観ていてこちらが暗くなるような内容のニュースはカットします。仕事前にはニュースをよく見ていたのですが、最近はカーステレオの音楽を聴いています。

 You-tubeをアップするときは、かなりの時間を要します。原稿を作成するのに1時間~2時間くらいかかってしまいます。原稿がない場合は0分ですが…

 撮影するのは短く10分くらいで終わります。そのあとが長くて、もろもろの作業に1時間~1時間半くらいかかります。そしてようやくアップに至る、という流れです。

時間に余裕があるときは本を読んでいます。スポーツ選手が書かれた本・監督が書かれた本を読むことが多いです。


ダブルワークの話に戻って・・・今の僕のタイムスケジュールではダブルワークは無理です。時間が足りません。塾と週に3回ある家庭教師に集中しています。

月に6日は休日になっているので、休日がやっぱり楽しいです。ほとんど1人で過ごすことが多いです。たまに友達と食事に行きます。

飲みに行くことは年に3回~5回くらいあります。 ゴールデンウイーク・お盆・年末に高校時代の友達数人と集まって語っています。

来る8月12日に「一高クラス会」があるので、楽しみです。12人(全員男)で飲み、語るのを楽しみにしています。

あとは一高メンバーで「バーベキュー」をします。これも楽しみです。

コロナがだいぶ落ち着いたおかげで、仲間と集まれるようになったのはうれしいです。


「時間の使い方」についての本もよく読みました。時間を有効に使う。大切なことだと思います。

まとまりのないブログになってしまいました。すみません。これで今日のブログを終わります。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
2023年08月03日 12:04

今日は8月2日。

暑い日が続きますね?体調はいかがですか?

水分をとり、熱中症にならないよう、お気をつけください。

今日は8月2日です。偶然なのですが、僕には8月2日生まれの知り合い・友達が5人います。

そのうちの1人が中学時代からの僕の親友の奥さんです。今日で48歳になられます。

彼女を初めて親友から紹介されたとき、僕はまだ23歳でした。教職浪人をしていたときで、ちょうど2次試験の合格発表の目前でした。

あれから28年・・・月日は流れました。

当時はかなりのギャルだった彼女も今ではしっかり者のお母さんになられています。

20代のころは当時の僕の彼女も含めてバーベキューをしたり、スキーへ行ったりしていました。


次に僕に新しい人ができたときは、彼らに紹介したいと思います(もう無理という意見もありますが…)


さて、富山市は昨日が花火大会だったのかな?もう何年も行っていませんが、高校生のころは毎年神通川まで見に行っていました。


この季節になると、ZOOEというバンドが歌っていた「SECRET  BASE」という曲を思い出します。29歳の夏、僕は彼女との結婚を1年後にするために、上越市に住んでいました。

同じゼミだった彼女と、大学を卒業と同時に付き合うことになり、その後6年間、富山ー上越の遠距離恋愛をして、「いよいよ結婚かあ」と二人で話がまとまっていました。

「結婚する前に1年間だけ俺に上越に住ませて!」と彼女にお願いし、富山を離れて僕は「新潟県家庭教師協会上越事務局」に所属して、家庭教師をしていました。

残念ながら彼女との結婚はならず、無念の富山へのカムバック。それが30歳になる前の春のことです。

人の運命とは不思議なのもので、「絶対に大丈夫!」と思っていたことがそうならないこともあります。

上越に住んでいたころに、直江津浜で一人でZONEの「SECRET  BASE」をよく聴いていました。 


彼女は今も独身を貫いており(早く結婚して!)新潟県で教員をしています。

もしも新潟に永住していたら、どんな人生だっただろう・・・と思うこともあります。新潟には縁がなかったのかなぁと何回も思います。

今日は8月2日。長岡の花火大会です。全国的に有名な花火大会。大学時代3回行きました。

卒業以来、一度も行っていませんが、いつか機会があれば行きたいと思っています。
2023年08月02日 13:36

7月もあと1日ですね。

夏休みが始まって約1週間が過ぎました。7月24日~今日まで、どのように過ごされましたか?

予定通り勉強のほうは進んでいますか?高校3年生は、今日模試だった生徒さんも多かったのでしょうか? 

 あっという間に夏休み1週間が過ぎましたね? プランを組んで学習されていますか? さしあたって学校の課題をしている生徒さんが多いことかと思います。

中学生のみなさんは、お盆までには夏休みの宿題を終わらせるのが理想ですね? 夏期講習があり、毎日塾の宿題に追われている生徒さんもいらっしゃるかと思います。

 高校生1・2年生の生徒さんは勉強の進み具合はいかがですか? 部活に一生懸命で勉強はさっぱり…という生徒さんいませんか?

 確かに部活は大切かもしれませんが、部活だけに集中しすぎて、勉強していないというのは本末転倒です。

夏休みは勉強してください。学年は関係ありません。

長い人生で見ても1カ月もの間勉強に集中できるチャンスは学生時代しかありません。 社会人になると、働きながら仕事が終わってから資格試験のための勉強をされている社会人がたくさんいらっしゃいます。

学生は働かなくてもよい、勉強だけに集中できる短い期間です。 今勉強しないでいつ勉強するのでしょうか?

 まさか大学受験を控えているのに夏休みアルバイトしている高校生はいないと思いますが、もしいたら、もっと真剣に人生というものを考えましょう。

大学を卒業したら、嫌でも働かなくてはいけません。今は働くときではありません。勉強するときです。


 あさってから8月が始まります。7月を予定通り乗り越えられた生徒さん、いまいち乗り切れなかった生徒さん、8月は完全燃焼してください。

こんなに勉強する期間は、長い人生において、そう何回もあるものではありません。志望校突破に向けてがむしゃらに突っ走ってください。

花火大会に行くのは僕は止めませんが、花火以外の時間はがっつり勉強しましょう。

7月が終わります。 8月は7月以上に頑張って、「やり切った!」という思いで9月を迎えましょう。頑張ってください、応援しています。

 
2023年07月30日 21:56

富山商業高校、甲子園出場おめでとうございます!

今日は高校野球富山県予選の決勝戦でした。家でケーブルテレビで観ました。
テレビで知ったのですが、富山商業高校のエース上田選手と富山北部高校の2人の選手(名前忘れました、すみません)は同じ豊田小学校OBとのことでした。

僕も豊田小学校OBなので、親近感が湧きました。試合は投手戦でした。途中から点差が少しつきましたが、最後まで良い試合でした。

富山商業高校のエース上田投手のスライダーのキレがよく、北部高校の選手たちはそのスライダーに苦しめられていました。

甲子園出場が決まった富山商業高校のみなさん、おめでとうございます。去年はコロナのため出場辞退してしまい悔しい思いをされた先輩方の分まで、北部高校の選手のみなさんも、残念でしたがナイスファイトでした。元気をもらいました。

 この暑い中、大変お疲れ様でした。

富山商業高校は9年ぶりの夏の甲子園です。 富山県民の期待を背負って頑張ってきてください! 応援しています。


PS:今日の夜テレビを観ていて「のりしお(猫)」の飼い主さんが決まり、良かったです。感動しました。サンシャイン池崎のファンになりました!
2023年07月29日 21:12

寺子屋学習館

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