個別指導形式の学習塾と家庭教師の寺子屋学習館|富山県射水市

わからない所が1つずつわかるようになる、達成感ある授業を心がけています。

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2005年4月~現在に至るまで

2005年4月~2019年3月に至るまでの14年間、僕は家庭教師を中心に仕事をしていました。

 1年間だけ滑川市で「不登校の中学生の学習指導」をしていた期間や、大手の個別指導塾で講師として働いていた期間がありますが、それ以外は家庭教師を中心に仕事をしていました。
 
 これまでのような「波乱に満ちた年」はなく、落ち着いて仕事をしていた期間でした。返済も順調に進み、僕は「あと1回だけ塾をしてみよう」と思っていました。

 
 そして、2019年3月から現在に至るまで、大門総合会館で「寺子屋学習館」という名の個別指導の塾を立ち上げ、頑張っています。
 
 塾を立ち上げてから5年目に入ります。それまでいろんな生徒さんと勉強してきました。
 
授業スタイルは「講師1人に生徒さん2人まで」の個別指導です。家庭教師よりももちろん精神的にも体力的にも疲れますが、自分の塾での仕事はやっぱり楽しく、やりがいもあります。

 今日も大門での授業があります。しっかりと授業準備をして、授業に臨みたいと思っています。


PS:今回のブログで「一区切り」とさせていただきます。

振り返るだけでも大変な年月でした。これまでの生徒さんとの経験をもとに、これからも「寺子屋学習館」で頑張っていきます。
2023年09月05日 02:27

2004年5月 32歳 富山市・福光にて【後編】

 富山市の家庭教師は満杯になり、生徒募集をストップさせていただきました。
 
担当の方も「佐伯君の担当する生徒はみんな回数が増えとるね?どんな授業しとるが?」と興味津々で聞いてこられていました。
 

  5月が過ぎ6月に入り、僕は月曜日~日曜日までフルに仕事をしていました。とても充実感があり、借金も順調に返済していっていました。
 
 ところが… 7月に入り、ある日のことです。僕はシャワーをしていると、左耳の具合がおかしく、「ザーザー」と音が鳴っています。
 
「なんだろう…?」と思っていると今度は僕の左耳の中で「電話のプッシュホンを押しているような音」がし始めました。

「ピッポッパッ」僕は「これはおかしいぞ」と思い、冷静に考えました。
 
 どうやら僕の左耳の具合がかなり悪い状態になっているようです。僕は急いで病院へ行きました。
 
 症状を受け付けでお伝えすると「耳鼻科へ行ってください」と言われました。
 
耳鼻科へ行き、先生に話すと「聴力検査をしましょう」と言われました。右耳と左耳と順番に高い音・低い音,大きい音・小さい音などがヘッドホンから聞こえてきます。

聞こえると手元にあるボタンを押す、という検査でした。検査の結果、先生は「急性低音性障害感音難聴」ですね。と言われました。

僕はストレスからくる難聴になってしまったのです。
 
先生は僕に「毎日連続で7時間以上眠れる日が1カ月続くまで働いてはいけません。ドクターストップです。ここでしっかり治さないとずっと治らない難聴になってしまいますよ。」とおっしゃいました。
 
 当時の僕は毎日4時間~5時間睡眠でした。僕はびっくりして「7時間ですか?」と聞き返しました。「はい。最低でも7時間連続して寝れるようになるまでじっくり治してください」と言われました。
 
 「パニック発作の次は難聴か・・・」僕はがく然とし、「とりあえず家庭教師をどうするか?報告しなければ」と思い、そのまま塾へ行きました。
 
担当の方が「そうか。それは困ったね。佐伯君はどうしたい?」と聞かれたので「はい。7時間連続して1カ月眠れるようになるまで、家庭教師は休ませていただきたいのですが…」と伝えました。
 
「よし、わかったよ。とにかく休まれ。担当の生徒さんについてはこっちで何とかするから」と助けてくれました。
 
こうして僕は家庭教師をいったん辞め、そして福光の塾をどうするか?考えました。「この際、思い切って休もう」

家に着いてすぐ「佐伯ゼミナール休塾のお知らせ」を保護者様あてに書き、郵送しました。

 
 ただ、いつまで休塾するのか?こればかりはわかりません。「7時間連続して1カ月眠れるようになるまで休ませてください。」と各家庭に後日電話しました。
 
高校3年生は入試があるため、いつまで待てばいいのか?わからないため、皆塾を去っていきました。仕方がありません。僕は深くお詫びしました。
 
 残ったのは1・2年生です。2年生も3年生同様、僕の状態を説明すると皆、塾を辞めていきました。
 
僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
 
 
高校1年生だけは残って僕が復帰するのを待ってくれていました。そうしている間に新たに高校1年生が2人、入塾してくれました。
 
難聴で療養中の僕はうれしさと同時に「早くこの難聴を治さなければ!」と思いました。
 

 2週間がたったころ、僕の難聴はおさまり、熟睡もできるようになりました。
 
そして1カ月半休んだ後、僕は福光に復帰しました。
 
こうして夏休みになり、僕は福光ベルでの高校1年生の授業のみが仕事になりました。 難聴から復帰し、僕の前には福光高校1年生の生徒さんが3人のみになりました。
 
家庭教師は他の先生方が僕に代わって指導されていました。
 
「とりあえず働きすぎないように気をつけよう。」と僕は自分に念を押し、週に3回福光ベルで高校1年生の授業をすることにしました。
 
1回の授業時間は3時間です。3時間もあるので、今まで以上に密度の濃い授業をすることができるようになりました。
 
 収入は激減しましたが、僕は「1年生を一生懸命に教えよう」と思っていました。 高校1年生は3人とも7月にあった進研模試の数学の全国偏差値が30台・40台という有様でした。
 
基礎の基礎から教えていき、「2次関数」を最初から1つずつ丁寧に教えていきました。
 
 1年生のガッツが実を結び始め、1月にあった進研模試で数学の全国偏差値は3人とも55を超えていきました。偏差値60台の1年生も1人いました。
 
 
一方、家庭教師の方も少しずつ生徒さんが増え始め、僕は中学3年生を中心に指導していました。
 
秋が過ぎ、冬を越え、そして3月を迎え無事高校入試が終わり僕はホッとしました。「今年も大変な1年だったなぁ」と思いました。
 
夏には、映画「世界の中心で愛を叫ぶ」が大ヒットした年でもありました。
2023年09月03日 05:55

2004年5月 32歳 富山市・福光にて【前編】

福光のテナントを撤退し、富山市の実家に戻ってきた僕は、富山市内で家庭教師、日曜日は福光ベルでの「佐伯ゼミナール」の2本の仕事をすることに決めました。
 
 幸い大手学習塾の家庭教師部門の担当の方に拾っていただき、僕は富山市内で中学生の家庭教師をすることになりました。
ほとんどの生徒さんが2時間授業を週に1回、という契約でした。

ところが、僕が思っていた以上に僕の授業はご家庭・生徒さんから反響があり、ほとんどの生徒さんが週に1回→週に3回に回数が増えました。
 
中学3年生を主に担当していた僕は「仕事が増えて良かった。頑張ろう」と思いながら家庭教師をしていました。

日曜日は午後1時から午後10時まで福光ベルでの中学生・高校生の授業をしていました。
 
 高校生は生徒さんが口コミで増えてきたため、「センター数学クラス授業」をすることに変更しました。数学が苦手な文系の生徒さんが多く来てくれました。三角比→2次関数の順で授業を進めていきました。
 
数学Ⅰ・Aの中でも「三角比」は同じ数学Ⅰ・Aの他の単元との関連性はなく、単独の単元だったため、数学が苦手な生徒さんでも頑張れば点数になる単元でした。

生徒さんの努力と僕の授業の甲斐があり、高校生はここで突出した結果を出し始めました。
 
昨年度の福光での授業を受けていた福野高校の1年生(女子)は11月の進研模試の数学の全国偏差値が49.6でした。模試が終わってからは、それまでの質問教室みたいな授業から、僕が率先して教えていくスタイルの授業に方針を変えました。
 
すると,1月の進研模試の彼女の数学の全国偏差値は60を越えました。
 
  彼女は数学の校内順位が120番→12番に飛躍的にアップしました。それを見ていた彼女の友達が、僕の塾へ入塾してくれました。
 
 自分で言うのもなんですが、僕の高校数学の授業は圧倒的な実績を作っていきました。

同じく福野高校1年生の女子の生徒さんが12月に入塾してくれて、11月の進研模試の数学の全国偏差値が40.5だったのが1月の進研模試の数学の全国偏差値が58.0まで伸びました。
 
 1回の授業のために僕は毎回5時間以上準備して授業に臨んでいました。
 
 高校生にはその授業がヒットして、ことごとく生徒さんの成績は偏差値が10以上上がっていく、という実態でした。僕は確かな手ごたえを感じていました。
「まずは数学Ⅰ・Aで結果を出して生徒さんに自信をつけさせ、そのままの勢いで数学Ⅱ・Bに入っていこう!」と考えていました。
 
 
 僕の授業準備を少しだけ説明すると、次のような手順です。

 たとえば「三角比」を教えるとします。
まずは「チャート式数学Ⅰ・A(黄色本)」を一通り解きます。次にセンター試験の「過去問」を三角比に限定してかたっぱしから解いていきます。

次にセンター試験用の参考書・問題集(5冊くらい)を三角比に限定して解いていきます。

最後に「黒本(河合塾のマーク式問題集)」と「青本(駿台予備校のマーク式問題集)」を三角比に限定して5冊ずつ解いていきます。 
 
それから「センター三角比」用のノートを1冊用意し、三角比を細やかに分解して1つずつノートに説明・問題・ヒント・解答・解説を書いていきます。
 
 これだけの準備をしていると、どうしても時間がかかってしまいます。でも驚くほどの結果を高校生は出してくれました。昨年は2人だった高校生が9人にまで増えていました。
 
 「ベルで高校生メインの授業をしていこう」と僕は意気込んでいました。

中学生はこれまでと変わらず「1対3指導」の「個別指導スタイル」の授業をしていました。

すべてが順調に進んでいると僕は思っていました。
2023年09月01日 00:28

2004年3月 31歳 福光での「佐伯ゼミナール」【後編】

夏休みが終わり、毎週土日は「さえゼミ合宿」の日になりました。
朝9時~夜9時まで、中3生を対象に合宿をしていました。

 当時,3年生の合宿は参加希望制で、「参加したい日にちのみ合宿に参加する」というシステムをとっていました。毎回中3生5人~6人が合宿に参加してくれました。
 
 授業の一番最初に生徒さん1人ずつ「今日の予定」を僕といっしょに立て、その「予定」に従って勉強していました。午前中は僕がホワイトボードを使って、英語・数学の授業をしていました。
 
  昼近くになると焼きそばを作る準備に入り、生徒さんが焼きそばを作ってくれました。

塾の外へ出て,青空を眺めながら焼きそばを食べている男子もいました。
 
午後からは1人ひとり「今日の予定」に沿って勉強していました。英語・数学・理科・社会を勉強していました。
 
 午後は、最初の1~2時間は基本的なことを習い、そのあとは「入試問題プリント」をひたすら解いていきました。入試対策として「塾教材+入試プリント+英単語カード」を使って学習していきました。
 
 
 この「合宿」は本当に楽しかったです。長時間勉強できることで、もちろん生徒さんの学力はメキメキとついていき、僕も「教えたいこと」を納得いくまで教えることができたので、多少疲れましたが充実していました。
 
 
 こうして2学期が過ぎ、3学期に入り、そして「高校入試本番」を迎えました。

「あれだけ勉強したから大丈夫。自信もって受けてこられ!」と僕が励まして送り出しました。
 
結果、中3生は高岡工芸高校、高岡商業高校,福野高校、福光高校(2人),大門高校にそれぞれ全員が合格しました。
 
1年間頑張ってきてよかったなぁ、と思いました。と同時に「これがこのテナントでの最後の授業だなぁ」とも思っていました。
 
 
170万円の借金・・・これ以上128,000円のテナントで塾をすることはできません。

僕は富山市と両親からお金を借り入れ、「4月からは授業をベルに戻して、あとは家庭教師をしよう」と決めました。
 
父からは「あんたが教えるが好きで、確かに実績も出しとる。それは認めるちゃ。でも、経営者としてはダメだね。1年間も100円ゼミ?そんなんお父さんでちゃ考えれんわ。
ボランティアやろ。仕事するっちゃそういうことじゃないよ。」と諭されました。
 
 僕はベルでの授業を週に1回(日曜日)だけにして、あとの平日・土曜日は実家に帰り富山市で家庭教師をすることに決めました。家庭教師協会にはさすがにもう戻れないので、大手学習塾の家庭教師を申し込みました。
 
大手塾に拾ってもらい、僕は富山市の実家に戻り、富山市の家庭教師と日曜日の「福光ベルでの佐伯ゼミナール」の2本の仕事をしてくことになりました。2004年4月,31歳のことです。
2023年08月29日 09:01

2003年4月 30歳 福光での「佐伯ゼミナール」【前編】

 2003年4月,僕は福光町にアパートを借り、ショッピングセンターベル2階にある「サークルルーム」で小学生~高校生対象の個別指導の個人塾を始めることになりました。

 昨年11月からの無料体験授業の生徒さんを含め,新たに塾生募集のチラシを福野・福光・城端エリアに入れてもらい塾を始めました。

 今回は「先生1人に対し生徒さん3名までの個別指導スタイル」の塾にしました。初めての1対3指導の授業スタイルに僕は困惑しながらも精一杯頑張っていました。
 
 僕の記憶によると、4月の休日は4月5日(土)だけというハードなスタートでした(4月5日は僕の中学時代の友達の結婚式のため塾を休ませてもらいました)

 ゴールデンウイークは3日ほど休みをいただき、氷見の小境海岸まで1人でドライブに行きました。

ベルでの授業は,伏木の時とは異なり、貸家ではなく、広い部屋での授業でした。ただ、22時にはサークルルームが閉まってしまうので、22時までしか授業ができませんでした。

 特に高校生は遅い時間帯での授業だったので、「もうちょっと遅くまで授業できたらいいなぁ」と思っていました。

「もしテナントが福光にあれば、家賃によってはテナントもありだなぁ」と思いながら過ごしていると、棟方志功記念館の近くに「テナント募集」の看板を見つけました。
 
 まだテナントができていなくて不動産の方に問い合わせると「今、テナントを作ろうか考えているところです」と言われました。僕は「ちなみに、そのテナントに住み込みで学習塾をすることってできますか?」と尋ねると「できますよ」とのこと。家賃を聞くと「128,000円です」と言われました。
 
 僕は迷いました。 「今住んでいる福光のアパートの家賃とベルの家賃を合わせると…」計算すると,今よりも30,000円くらい余計に払えば、新しいテナントに住み込みで塾をすることができる、といことがわかりました。

1週間考えた末、僕は「住み込みで塾をしたいのでお願いします」と不動産屋の方にお願いしました。

 こうして新しい「テナント」の工事が始まり、1カ月半ほどかけて工事も終わり、6月中旬から「新しいテナント」に住み込みで塾をすることになりました。
 
塾の名前は「佐伯ゼミナール」という名前です。業者の方にテナントに「シール看板」を作ってもらい,新しいテナントに「佐伯ゼミナール 生徒募集中!」というシールを貼ってもらい、ベルから場所を変えて「佐伯ゼミナール」での塾が始まりました。
 
 1学期はほとんど何をしていたのか覚えていません。ひたすら「授業」をしていたと思います。

1度、中学時代の友達2人が富山市から福光の僕のテナントまで遊びに来てくれました。 「佐伯、遠い所で頑張っとるの!今度は伏木からさらに遠くなったの。頑張れよ!」と応援してもらいました。うれしかったです。

 
テナントに住み込みでの生活は快適でした。好きなだけ授業準備ができて、移動時間はゼロ。これは大きかったです。弱点は「テナントに風呂がなかったこと」です。

そのため僕は福光のあらゆる「銭湯」のお世話になっていました。

ある日,生徒さんのお母さんが「先生、町民プール行かれよ~。プールだけじゃなくて風呂・サウナもついとるよ。年間券買えば、銭湯行くよりかなり安いよ!」と教えてくれました。

僕は「そうかなぁ」と思って一度町民プールへ行ってみると、確かに泳ぐことができて良い運動になり、風呂にも入れる。これはいい!ということになり、年間券(1年券)を買いました。

 当時の僕の生活は、朝5時半に起きて福光の田んぼ道を90分かけてウオーキング(約7.5km),午前中は授業準備。昼になり「バロー」へ買い物に行って昼食を作り食べる。

 午後2時から再び90分ウオーキング。それから町民プールへ。 夕方になると夕食の準備。そして17時~22時まで授業(18時30分~19時の間に夕食)。

授業が終わると3たび「90分ウオーキング」という毎日でした。

 今振り返るとめちゃくちゃ「ストイック」な生活ですね! 自分でもびっくりします。


このころギターの弾き語りの動画を一人でよく撮影していました。(寺子屋学習館のYou-tubeに僕がギターを弾き語りしている動画がアップされていますが、あの映像は当時僕が福光で撮影していたものです。)
 
 1学期が終わり、夏休みへ。この夏休みに「さえゼミ合宿」が始まります。中学3年生と高校3年生を対象にした「午前9時~午後9時!」までの昼食・夕食つき1回4,500円合宿」が始まりました。
 
 この合宿は生徒さん・親御さんからともに「大好評」でした。昼食は生徒さんと僕で「焼きそば」をホットプレートで作り食べる。夕食は前日に僕が作っておいた「カレーライス」食べ放題。

「お菓子・ジュースつき」という、いたれり尽くせりの合宿でした。12時間という長時間を3年生は嫌とも言わず「楽しそう」に勉強していました。

もちろん「休憩」も何回もはさみました。いくら受験生といえど「昼寝したくなったり休憩したくなったり」はします。

もちろん、僕も「疲れます」特に午後は「漫画タイム」を作って塾生は漫画を読んだりして、思い思いの休憩時間を満喫しながら勉強していました。

 1・2年生は合宿がなかった代わりに「90分授業を月に4回分でなんと400円」という、とんでもない授業料で夏から3月まで授業をしてしまいました。
 
 
 こうして,「格安さえゼミ合宿」「100円ゼミ」という2つの「採算度外視」授業を半年間継続した結果,僕は170万円もの借金を作ってしまいます。

家計簿とにらめっこの毎日が続きました…
2023年08月26日 15:31

2002年4月、富山県に帰ってきて再び・・・

上越を後にし、またしても富山県に帰ってきました。

僕は再び、富山県家庭教師協会高岡事務局へ出向きました。 「彼女と別れてしまい、富山に帰ってきました」と言うと担当の上司は「そうですか…こちらとしてはうれしいのですが、佐伯先生にとってはつらい選択でしたね」と励ましてくれました。

 こうして再び家庭教師をすることになりました。 4月のある日、僕はラーメン屋さんで、偶然読売新聞の記事を発見しました。射水市の中学校で「少人数指導支援講師」を募集していたのです。

 教科は数学と理科。いずれかの教員免許を持っていれば勤務できます、と書いてありました。 僕は数学の教員免許を持っていたので、ラーメンを食べた後問合せ先に電話しました。

週に18時時間、僕は射水市内の中学校で「1年生の理科と数学の少人数指導支援の非常勤講師」をすることに決まりました。主にに午前中がメインの仕事だったので、家庭教師と兼業できる形になります。

僕は「よし、頑張ってみよう」と決心し、非常勤講師と家庭教師の仕事をし始めました。


中学校で働くのは初めてだったので、とても新鮮でした。一番勉強になったのは、現場の先生方の授業を見ることができることでした。

板書の仕方、授業の進め方、生徒の呼び方などなど、いろんなことを勉強させてもらいました。数学の時間は特に机間指導をして、つまづいている生徒さんたちに説明したりしていました。今振り返っても貴重な経験だったなと思えます。

 非常勤講師の仕事は「1年限定の仕事」だったので、少し残念だったのですが、中学校の現実を見られたことは大きかったです。

家庭教師は射水市・富山市で中学生・高校生の指導に励んでいました。 6月には「日韓共催のサッカーワールドカップ」があり、旧小杉町体育館で、巨大スクリーンで試合を見ました。柳沢敦選手が試合に出ていて、体育館は「柳沢コール」で大変盛り上がっていました。

当時はまだ小杉町・新湊市・大島町など、市町村合併する前でした。なつかしいですね。

 僕は中学校と家庭教師をしながらも「まだ個人塾を持つ」ということをあきらきれませんでした。 1年かけて富山県内の会館を探して周りました。

最終的に、富山市サンフォルテ,黒部市民会館,高岡本丸会館,大門町総合会館,ラポール小杉,JR福岡駅2階,の中から1か所を選んで中高校生に教えたいと思っていました。

黒部市民会館だと桜井高校・魚津高校の生徒さん,高岡本丸会の館だと高岡南高校・呉羽高校の生徒さん,大門町総合会館だと大門高校・小杉高校・呉羽高校の生徒さん,ラポール小杉

だと小杉高校・呉羽高校・大門高校の生徒さん、JR福岡駅2階だと福岡高校・石動高校の生徒さんに、センター数学の授業をしたい、と考えていました。

 そして10月、僕は富山県内でまだ行ったことのない「砺波エリア(南砺市エリア)」へ行ってみました。

初めていく福野町・福光町など「富山県は広いなぁ」と思いました。そして福野町には「ヘリオス」がありました。「福野か。家からはかなり遠いなぁ」と思いました。

そしてさらに進んで福光町へ。とりあえず福光駅の人に「すみません。このあたりになんとか会館とか、テナントみたいな形で借りることができる所ってありますか?」と聞きました。

すると「ベルがありますよ」と教えてもらいました。 僕は福光駅から近い「ショッピングセンターベル」へ行ってみました。

中に入ると1階はスーパーで、2階部分がテナント(サークルルーム)になっていました。

部屋はとてもきれいで、広い。そしてどの会館よりも部屋代が安かったことに感動した僕は「ここだ!福光で塾をしよう」と決めました。

ただ、僕の家から福光までは車で片道1時間20分もかかります。とても通える場所ではありません。「どうしよう…福光いいけど遠すぎるなぁ」と僕は悩んだりもしました。

それでも、「とりあえずチラシを出してみて様子を見よう」ということに決め、11月に「11月8日~3月5日までの無料体験授業生徒募集!」というチラシを福光・福野エリアの新聞に

入れてみました。「毎週日曜日のみ、12人限定で塾生を募集します。」といううたい文句で募集したところ、9人の生徒さんから問い合わせがありました。

「9人も集まったか!」と僕は思いました。当時は月曜日~金曜日は中学校と家庭教師,土曜日は家庭教師,日曜日は福光ベルでの無料体験授業 というハードな生活でしたが、

福光で塾をする!という目標があったので、やる気満々で頑張っていました。

 冬が過ぎ、2月下旬で中学校の講師は契約が終わりました。家庭教師も3月で辞めさせていただくことに決め、いよいよ福光の個人塾1本に僕の仕事が決まりました。


 家から通うことはかなり無理があったので、僕は福光で「アパート」を借り、そのアパートからベルへ向かい授業をする,という生活スタイルに落ち着きました。


2003年3月。僕は福光に住むことになりました。30歳のことです。
2023年08月24日 23:27

2001年4月,上越での生活が始まりました。

富山県家庭教師協会高岡事務局の担当者のおかげで、僕は新潟県家庭教師協会上越事務局で家庭教師をすることが決まりました。

両親に「新潟に永住することになると思う」と告げて僕は富山県を後にしました。

富山市から上越市高田までは約120kmあります。車で下道で片道3時間かけて上越へ行き、上越教育大学の近くにある、大学生が借りるような1kのアパートに僕は引っ越しました。

高田・直江津エリア中心に僕は中学生・高校生を担当しました。

日中は浪人生と不登校の生徒さん(中学生)、夕方からは中学生と高校生の家庭教師を担当しました。 日中は午前9時半~昼過ぎまで週に3回,酒屋さんで配達のアルバイトをしていました。

僕は「この上越に永住することになるのかなぁ」と思いながら生活をしていました。上越は「海と山」が直線でつながっていて、高田から40分で妙高高原へ、高田から20分で海のある直江津に着きます。

日曜日には「長野ナンバー」の車を直江津でよく見かけました。自然の多い所で、僕は気に入っていました。


彼女は教員7年目を新しい学校で迎えていました。彼女にとって「3校目」の学校になります。

富山―上越での6年間の遠距離恋愛をしていた僕たちにとって「同じ上越に住んでいる」ということはとても大きなことでした。

「その気になればいつでも会える」という条件は僕にとってはとてもうれしいことでした。

今までのように電話代を気にしながら電話する必要もなく、気軽に電話できました。ただ、彼女は新しい赴任先だったため、仕事から帰ってくるのが20時過ぎで、22時には疲れ果てて寝ていました。翌朝5時に起きて仕事をする、という生活をしていました。

僕は22時ごろに仕事が終わるので、「すれ違いが多い」生活ではありました。

彼女の大変さを僕は知っていたので、僕は酒屋さんでのアルバイトが終わると彼女のアパートへ行き、「夕ご飯」を作って冷蔵庫に入れて、それから家庭教師へ行く、という生活スタイルの毎日を送っていました。洗濯ものを干すこともよくあり、「なんか主夫みたいだなぁ」と思っていましたが、特に違和感はなく、「先生と結婚するっちゃ、こういうことやろ」と
思っていました。

土日はゆっくりと二人で会うことができたので、「近くに彼女がいるのはいいなぁ」と思っていました。

 1学期が終わり、夏休みに入ると「彼女のご両親に会いに行く」ことになりました。

どちらから言い出したのか忘れてしまったのですが、初めて彼女のご両親が住んでいる長岡に行くことになり、僕は「いよいよ結婚が現実的になってきたな」と思っていました。

もちろん、めちゃくちゃ緊張しました。真夏の暑い中、スーツを着て僕と彼女は長岡へ車を走らせました。

彼女のお父さんは建築の設計の仕事をされている方でした。酒屋さんの仕事仲間の先輩は、「佐伯君、設計の人は理系だから、論理的な話が好きだと思うから、だらだら話すのではなく、理屈っぽく話した方がいいよ」とアドバイスしてくれました。

「はい、わかりました!行ってきます」と言ってはいたものの、いざ彼女のご両親を目の前にすると僕は緊張してしまい、何を話していたのか、ほとんど覚えていません。

彼女のお母さんが、僕の大好きな「酢豚」をふるまってくれました。うれしかったです。僕は当時、彼女に「将来的には富山の伏木のときみたいに、自分の塾をやりたい」と言っていた

ので、彼女のご両親にも「今は家庭教師をしていますが、将来的には個人塾を開きたいと思っています」と言いました。

「そうか、自営業か…頑張ってください」と彼女のお父さんが言ってくれました。とてもうれしかったのを覚えています。

彼女の実家は長岡市で、彼女の勤務地は上越市。長岡と上越は60km離れていて、上越から長岡までは車で8号線をひたすら進んで1時間30分かかります。

僕は「富山県に近い上越に住みたい」と思っていて、彼女も「上越に住もうね」と言ってくれていました。


お盆休みに僕は富山に帰ってきて、仲のいい友達に「もうすぐ結婚すると思う。多分上越に住むことになるわ」と話していました。友達は「そうか、頑張れよ!」と応援してくれました。

…… 今、冷静に振り返ると「結婚秒読み」ですね?  でもそんな彼女と僕は11月に別れてしまいます。 ひどい話ですね。

理由は、「教員と結婚する」という現実が僕には受け入れる自信がなかったからです。


当時の彼女は「朝5時に起きて仕事して学校へ向かい、20時すぎに家に帰ってきて22時には疲れ果てて寝る」という生活スタイルでした。

僕は朝8時に起きて9時半~13時ごろまで酒屋さんでバイト。それから彼女の分の夕ご飯を作って洗濯して洗濯物を干して、14時半から22時まで家庭教師。それから帰宅。

このまま彼女と結婚できたとして、家事はほぼ全部僕がすることになります。これでもしも子どもができたら……育児も全部俺の担当になるのかな?と考えると怖くなりました。


彼女のご両親に会いに行っておきながら、僕は迷い始めました。 もしも彼女が教員でなく、普通の会社員だったら、僕は迷うことはなかったと思います。結婚していたと思います。

友達にも相談していました。「もし、お前が仕事から帰ってきたら奥さんが寝とって、お前が洗濯して干して、家事はお前が担当することになるとしたら、お前はどう思う?」と聞くと

「確かに厳しいかもしれんの。」と言っていました。「そのうえ子どもができて、育児もお前担当だとしたら、どうする?」と聞くと「あ~それはかなり厳しいわ。俺には無理やわ」と言っていました。

 僕は「それでも6年も付き合って彼女のことが嫌いではないから、家事くらいで迷ったりするな!」と自分に言い聞かせようと何回も思いましたが、「絶対に無理」と思ってしまいました。
そして、6年も遠距離恋愛をして、同じ上越に住んでいたにも関わらず、僕は「彼女と別れる」という決断をしました。

今振り返っても、あの「決断」が正しかったのか?わかりません。 何回もやり直そう、と思ったのですが「家事」「育児」という「現実」を突き付けられると彼女が教員を辞めない限り結婚はできなかったと思います。

こうして僕は1年間の上越での生活を終え、入試が終わった翌年3月に、3たび富山県に帰ってくることになりました。

24歳のときに教員として三条市に住んで、でも教員を辞めて富山へ帰ってきて、次は28歳の4月に上越に住み始めて、でも彼女と別れて富山へ帰ってきて…

「新潟県には縁がなかったなぁ」と思います。

荷物をまとめて上越のアパートを去るときは、とても複雑な思いでした。彼女に「今までありがとう。富山で頑張るちゃ」と言って僕は富山へ帰ってきました。


……人生って思うようにはいかないんだなぁ、と思いながら僕は富山へ帰ってきました。

2002年、4月 今度は「独りぼっちになって」僕の新たな生活が始まろうとしていました。
2023年08月21日 08:09

2000年 再び「富山県家庭教師協会(高岡事務局)」へ

伏木での1年間を過ごした後、「これからどうしよう…」と僕は迷っていました。

教える仕事が好きだったので、ハローワークで「塾講師」の求人を探したりしていました。1社だけハローワークで紹介してもらいましたが、残念ながら不採用で、採用はしてもらえませんでした。

 「もう1回家庭教師協会のお世話になれないかなぁ」と思った僕は、前回の「富山県家庭教師協会富山事務局」ではなく「高岡事務局」に応募しました。

担当の方が富山事務局とは異なるため、何とか採用してもらえました。

「また1から頑張ろう!」と思い今度は高岡市・大門・小杉エリアを中心に家庭教師を始めました。

この「富山県家庭教師協会高岡事務局」で僕は恩師に出会います。大変よくしていただきました。教員時代の話とかも丁寧に聞いてもらったり、仕事の悩みにのっていただいたり、大変お世話になりました。

担当する生徒さんは主に中3生と高校生でした。

 富山事務局での「仕事量の多さ」を振り返り、今回は1日生徒さん2件まで(平日)にしてもらいました。

そして今回は土日を休みにすることにしました。代わりに平日の日中に「弁当の配達」のアルバイトを午前中のみしていました。

当時、僕には付き合っていた彼女がいて、彼女は上越で教員をしていました。「富山ー上越」の遠距離恋愛だったのですが、土日に僕が上越へ行くことが多く、大学を卒業してからの付き合いだったので、これこれ5年の月日が流れていました。

当時は彼女が将来的に富山へ来て教員試験を受け直し、僕は家庭教師を続ける、という考えだったのですが、「教員を辞める」という選択があまりにももったいないと判断し、「じゃあ俺が新潟県に行くよ」という話にまとまりました。

2000年の1年間僕は高岡で家庭教師をしていたのですが、年末に上司に「実は、結婚を考えている人がいて、入試が終わったら上越へ行くことになりました」と伝えると、

「そうですか。こちらとしては残念ですが、仕方ありませんね。ところで上越へ行かれた後は仕事はどうされるのですが?」と聞かれたので、「上越で塾講師など探してみます」と僕が

言うと「じゃあ上越事務局で家庭教師をされたらいかがですか?紹介状書きますよ」と提案してくれました。

「えっ,いいんですか?」と僕は少し驚いたのですが、「家庭教師協会は全国に事務局があるので大丈夫ですよ」と言ってもらえました。


 こうして2001年3月、僕は富山県を去り、「新潟県家庭教師協会上越事務局」のお世話になることになりました。

以前のブログでも書かせていただきましたが、「上越で1年間続いたら、結婚しよう」と当時の彼女と約束し、僕は上越へ旅立つことになりました。

いよいよ結婚か…と期待を膨らませながら僕は上越へ出発しました。2001年3月末、28歳のことです。
2023年08月19日 09:46

寺子屋学習館・伏木時代【後編】

夏休みが終わり2学期に入りました。中3・高3生はおのずとやる気が増してきます。

 新しく中2生が2人入塾してくれて、寺子屋は9人体制になりました。当時の時間割は、夕方5時~7時までが中3生の授業(週に3回),19時~23時までが高校3年生の授業(週に3回)でした。

 今と比べると高校生の場合は英単語を覚えてもらうこともなく、単語テストをしていたわけでもありませんでした。もっと単語に力を入れるべきだったなと反省しています。

数学は当時は基礎を中心に学習していました。今と異なるところはマーク模試(青本や黒本など)をほとんど解いていなかったところです。これも反省点になります。

センター試験(当時)用の勉強をもっとするべきだったなと反省しています。


 中3生は新研究を中心に学習していました。頑張り表がまだ当時はなかったので、やや「手さぐり」の中、勉強を進めていました。

秋が過ぎ、冬になると1人の高校3年生が入塾してくれます。もう受験まで日がないのですが、来てくれました。

こちらの生徒さんが中1の妹さんを連れてきてくれました。そしてその妹さんが友達(中1生)を2人連れてきてくれました。

中1生が入塾されたことによって、寺子屋はにぎやかな、少しほのぼのとした雰囲気の塾になりました。中3・高3生の授業は「真剣・本気モード」の授業が続き、中1生の授業は

「ほんわかアットホーム度満点」」の雰囲気授業になりました。


冬休みに入り、いよいよ高3生は「センター試験」に向けラストスパートを切ります。英語・数学を一生懸命に勉強されていました。

そしてセンター試験が終わり、自己採点。 一番最初に入塾してくれた新湊高校3年生の女子の生徒さんが自己採点の結果「秋田大学教育学部」A判定を取ってきました。

2次試験は「数学のみ」 他の高3生2人は「私立大学志望」に変えていました。

2月に入ると高3生は「私立大学受験ツアー」に入ります。「名古屋女子大学」「中京女子大学」「岐阜聖徳大学」など、岐阜・名古屋方面の大学を受験されていました。

一方、中3生は最後の全県模試を受け、志望校(県立高校)を決める時期にさしかかっていました。

 大門高校,伏木高校,有磯高校(今はありませんが)をそれぞれ受験することが決まり、勉強の日々が続きます。

そして大学入試が終わり、県立高校入試も終わりました。

高校3年生は「名古屋女子大学」「中京女子大学」にそれぞれ進路が決まり、そのあと「秋田大学」を受験した生徒さんが秋田大学に合格しました。寺子屋1人目の「国立大学合格者」です。

中3生は「大門高校」「有磯高校」にそれぞれ合格しました。伏木高校を受験された生徒さんは残念ながら不合格でした。

こうして怒涛の1年目が終わりました。

この1年間がむしゃらになって授業をしてきて、入試が終わり、僕は「やっと終わった…」と疲れ果てていました。充実感もありましたが、疲れていました。


 ここで大きな壁にぶつかってしまいます。それは「経営難」という大きな壁です。

1年目が終わり、僕の全財産はなんと10万円を切っていました。


当時は「借り入れをする」という発想が全くなかったため、悩みに悩んだ結果、僕は泣く泣く「寺子屋伏木校」を閉鎖することに決めました。

残された生徒さん・親御さんには大変申し訳ないことをしてしまいました。1年間頑張ってきて、せっかく「実績」も出したのに、僕は閉鎖する決断をしました。


  こうして僕の初めての個人塾「寺子屋学習館・伏木校」は1年で幕を下ろしました。

今までの人生の中で「最も忘れられない1年間」でした。最も働いた1年間でもありました。
2023年08月17日 06:30

寺子屋学習館・伏木時代【前編】

高岡市伏木の貸家で個人塾を始めることになった僕は、まずは「生徒さん募集のチラシ」を作ることから始めました。

苦手だったワープロでなんとか原稿を作り、「白色のA4用紙に黒字1色」のチラシを作り、貸家を仲介していただいた不動産の方に、僕が手書きで書いた寺子屋学習館の地図(高岡市伏木本町にある一軒家)をワープロで作ってもらい、チラシが完成しました。

できあがったチラシを見て「お~これがチラシか!」と感動しました。

次は「印刷をどこにしてもらうか?」ということになり、電話帳で富山県内の印刷会社に1件ずつ電話をかけ「すみません。A4用紙の黒1色のチラシを2,000枚印刷お願いすると、いくらになりますか?」と聞いて回りました。

20件くらい聞いて、その中で1番安かった印刷会社を見つけ、その印刷会社にチラシを印刷してもらいました(下村にある印刷会社でした)

出来上がったチラシを車に積んで、「北日本新聞」「読売新聞」の「伏木エリア」の朝刊に「折り込みチラシ」を入れてもらうことになりました。

チラシを新聞に入れてもらうときは「折り込み代」がかかります。当時はチラシ1枚につき2.8円かかりました。(チラシ枚数×2.8円)プラス「消費税」という計算になります。


1999年3月。いよいよチラシを入れてもらう日が決まり、新聞にチラシを入れてもらった日の朝、僕は「電話かかってこないかなぁ」と不安と期待の入り混じる中、電話を待ちました。

 今の寺子屋学習館(大門)のチラシには「問合せ電話番号」はフリーダイヤルの番号になっていますが、当時の寺子屋学習館・伏木校の電話番号は「PHSの電話番号」でした。

「フリーダイヤル」という発想がなく、PHS(時代を感じるなぁ)の電話番号で生徒さんを募集していました。

ドキドキしながら電話を待っていると、PHSが鳴り響きました。「来た!」と思い電話に出ると「新湊高校3年生になる女子の生徒さんの親御さん」からの問い合わせの電話でした。


「伏木駅」で後日待ち合わせして、僕はスーツ姿で生徒さんと親御さんと会い、寺子屋へ来てもらい「初めての入塾説明会」を行いました。

当時の彼女の成績は高校2年生3月にあった学研模試(マーク模試)の5教科の全国偏差値が49.8でした。

「秋田大学など、国立大学へ行きたいのですが…」というご要望でした。「どの教科も特別悪い教科はないですね。全部偏差値50近く。1年頑張れば何とかなるかもしれません」と僕が

話しました。「警察官になりたい!」と彼女は言っていました。大好きだったエレクトーン教室を辞め、勉強に専念します!と気合十分でした。

春休み、ひたすら「ベクトル」の勉強をしました。そして3年生を迎えました。

 チラシは3回入れました。その3回で「中学3年生3人。高校生4人(新湊高校3年生・氷見高校3年生・伏木高校2年生・大門高校2年生)合計7人での「寺子屋学習館・伏木校スタート」を切りました。


当時の寺子屋学習館の「宣伝文句」は「各学年5人以内の少人数指導スタイルの塾です」というものでした。

中学生・高校生ともに「ホワイトボード」を使って僕が説明しながら授業を進めていく」という授業スタイルでした。

今は僕は中学生の授業を担当していますが、当時は高校生の数学・英語も僕が教えていました。無我夢中で教えていました。ただ、貸家だったこともありとてもアットホームで少人数でもあったので(高校3年生は2人しかいなかったので)雑談を交えながらでの授業でした。


 1学期が終わり、夏休み。当時は中学3年生の授業は午前9時~12時まで。高校生の授業は午後2時~6時まで、という「長時間授業」でした。

2回ほど中3生の授業が終わった後、「いしずやラーメン」へみんなでラーメンを食べに行きました。確かラーメンが400円という格安の店だったと思います。美味しかったです。

伏木は「海沿いにある町」だったため、国分浜(こくぶはま)でバーベキューをしました。塾生と僕とで楽しいひと時を過ごしました。

かなり「アットホームな塾」だったと思います。僕が若かったこともあり、生徒さんとの距離はかなり近かったのかな、と思います。

こうして夏休みが終わり、2学期へ突入していきます。
2023年08月15日 10:53

寺子屋学習館

【電話番号】 0120-75-1229

【住所】 〒939-0232
富山県射水市大門67
大門総合会館102号室・502号室

【受付時間】 12:00~22:00

【定休日】 月曜日

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